バットステータスファンシー
いつか立ち読みで終わった本を、買っておくべきだったかと後悔した。
彼女のすみれ(やっと違和感なくファーストネームを呼べている)と初めてのセックスをする前に見つけたティーン向けの雑誌。そこにはセックスに関することが沢山書かれていた。女子向けだから女子目線で。あまり女心というものが分からない俺なので、一冊持っておいて研究でもしておけばよかった。
いや、どうせなら男向けにもそういう系統の本を発行して欲しい。恥ずかしくて買えやしないだろうが、研究させてほしい。こんな時俺はどういう心構えでどんな振る舞いをすればいいのか、参考にする資料が無さすぎる。
「堅治、お昼たべよ」
昼休み、話しかけてきたすみれに顔を上げると、いつもどおり俺に笑いかけている姿があった。
困ったことに、この「いつもどおり」の彼女にすら俺は最近惑わされている。他の人間からどう見えているかは知らないが、すみれがここ最近どんどん可愛くなっている気がするのだ。このところ喧嘩もなく上手くいっているせいかもしれないが。ようやく慣れてきたセックスも、すみれが魅力的に見えるせいで毎度緊張する。嬉しいんだけど、動揺する。
「何か買う?」
「いや。弁当持ってる」
「私今日持ってないんだ。食堂で食べよう」
「ん」
すみれは昼食を持参していないらしかったので、俺たちは食堂に向かった。一応、自前の弁当を食堂で食べることも許されているのである。
しかし到着したそこは既に生徒で溢れており、食券売場にも長蛇の列が。
「……席いっぱいだね」
「出遅れたかもな」
「屋上行かない? 天気いいから!」
今度はそのように提案されたので、俺も了承した。すみれは食堂の隅にあるパンやおにぎりの購買スペースに並び、なんとかパンを二つ手に入れた。昼飯、そのパン二つで足りんのかなって思ったがそこは口を出さないことにする。
「いただきます」
彼女の言うとおり晴れ渡った屋上にはちらほら人が居たが、風もあるのでそんなに混んでいなかった。日陰の隅を陣取った俺たちはそれぞれ昼食を広げ、腹を満たしていく。すみれはパンを一口食べた瞬間、「ん!」と目を輝かせた。
「このパンおいしー。ねえ、これ期間限定なんだって」
「へえ……」
あまりパンに興味がないというか、パンより米派の俺にとっては惹かれない話だった。でも、俺の返事が素っ気ないのはパンに興味がないからじゃない。すみれがニコニコしているのを見ると、また可愛く見えてしまって困るのだ。
だけど目が合っていない時ならば、俺はこっそり彼女の様子を盗み見ることができる。もぐもぐとパンを頬張るところ、前にペットショップで見かけた小動物みたいだ。
そんなことを考えていた時、風になびいたすみれの髪が舞い、その色味が前よりも赤みがかっていることに気付いた。
「……なんか髪、変わってねえ?」
「えっ?」
すみれは揺れる髪を耳にかけながら聞き返した。そして俺の視線が頭部に集中しているのを確認すると嬉しそうに、または得意げに目を細めたのだった。
「えへへ。やっと気付いたか」
「教室ん中じゃ分かりにくかった」
「どう?」
パンをそっちのけにして首を左右に振ってみせるすみれ。髪色は正直言って、とてもいい。なぜ朝一番で気付けなかったのか悔やむほど。「似合ってる」とスマートに言えればいいのだが、気恥ずかしくて言葉が出ない。そのうちすみれが顔を傾け、指先で髪をくるくると触りながらひと言。
「可愛い?」
その体勢、上目遣いになってんぞって気付いてるんだろうか。気付いてなさそうだ。あざとい瞳の色をしていないし、何より手元のパンが落ちないようにきちんと注意を払えている。今は俺に意図的な色気を向けるよりパンのほうが大事ってことだ。でも、こんな無意識の仕草にすら俺は翻弄されてしまう。
「……そーゆー聞き方すんの悪いトコだからな」
「えっ。なんで」
「なんでも」
すみれは分かっていないようだ。自分がどれだけ俺の目に可愛く写っているか。
そんなことよりも俺の弁当の中身が気になるらしく、ふと視線を落とした瞬間に目を見開いた。
「あっ! ハンバーグ入ってる!」
「やらねーぞ」
「えー、ちょっとほしい……」
ハンバーグはすみれの好物である。というか、うちの親が作ったハンバーグがとても好きらしい。俺も同じく好きだから、いくら彼女相手でもやすやすとくれてやるつもりはない。けど。
「だめ?」
物欲しそうに弁当を見つめ、そのままの瞳で俺を見つめてくるのがどうも耐えられない。いい意味でも悪い意味でも。そんな頼まれ方をされて断れるはずがないのだ。
そして、これも俺へ媚びを売るつもりなんか毛頭なく 、「ハンバーグが食べたい」という純粋な食欲ときたもんだ。
「ん。食えば」
「やった」
あまり長い時間粘ることができずに、俺は弁当箱と箸をすみれに譲った。べつに、足りなくなったらなにか買えばいいんだし。美味そうに食ってる姿、悔しいけど可愛いし。
「おいしー」
さすがに常識と遠慮を知っているすみれはハンバーグを一口だけ食べると、弁当箱を俺に戻した。それから膝に置いていた自分のパンを手に取って、口に運ぶものかと思いきや俺の前に差し出した。
「ね、代わりにこっち食べる?」
「いいよ。食えよ」
「でも私だけ貰っちゃったら悪いから」
ハンバーグの一口くらいどうってことないのに、すみれは自分が奪ったぶんを返そうとする。もしかしたら俺が渋々ハンバーグを分けたと思って、今になって反省しているのかも。いやまあ渋々だったけど。
「……んじゃ食う」
「うん! あげる」
すみれが寄越してきたパンは確かに期間限定のようで、秋の味覚って感じの味がした。女子が好きそうなやつ。女子ってこんな菓子パンみたいなので腹が膨れるのか。ちょっと甘かったし弁当の途中だったし、一口で満足した俺はすぐにパンを返した。
その後は二人とも自分の昼食を平らげて、昼休みが終わるまでダラダラと過ごす時間である。教室で過ごす時は午前中に出た宿題を済ませてしまったりとか、どうでもいい話をしたりとか。屋上でも大体同じような過ごし方だが、クラスメイトの目が無いぶん恋人らしいことが出来る。たまに隠れてキスしたりか。自分から「しよう」と言うのは照れくさいので、すみれからのアプローチを待つことも多いが。
「ねえ、堅治ー」
「なに」
素っ気なく答えながらも、俺はすみれの言わんのすることを察した。
「……ちょっとくっついてよっか」
遠慮がちに言う彼女に頷くとすみれのほうから近づいてきて、肩と肩がぴったりくっつく。染めたての髪が鮮やかに揺れているのが視界の端に見えた。美容室のものだろうか、いつもと違うにおいがする。
「つなご」
俺の膝をぽんぽん叩いて催促するすみれに、無言で右手を放り出して応える。すみれはすぐに左手を絡めてきた。指先が少し冷えているようだ。擦り付けるように俺の肩に当たる頭を見下ろした時、ちょうど鼻をすする音が聞こえた。
「なに、さみーの?」
「んー、ちょっと……でも大丈夫」
「馬鹿か」
また、ついつい悪い単語が口をついてしまったが。女子はスカートだから当然男子よりも寒いだろうし、屋上は風もあるので屋内より涼しい。俺にくっついて来たのも寒さ対策かもしれないのは複雑だけど、寒いのに「大丈夫」なわけはないと思う。
とはいえ俺はカイロとかマフラーとか持ってないし、そもそもまだ防寒具を持ち歩くような季節でもない。思いついたのは自分のブレザーを脱いで、すみれに渡すことだった。
「いいの?」
「俺寒くねえから」
本当はブレザーを脱いだ時、案外冷えるなって思ったけれど。彼女のために自分を犠牲にするという行為に少なからず自己陶酔してしまったので、「俺は寒くない」と自分にも言い聞かせるように言った。
ブレザーを肩から羽織ったすみれは再び俺に体重を預けてきて、その流れで腕を組み、指と指を絡ませてきた。彼女がこんなに素直に甘えてくるなんてきっと有難いことだ。あの時喧嘩をしていなければ、こんなにも良い仲にはなれなかったかもしれない。「喧嘩」っていうか俺が一方的に悪かったんだけど。
「堅治のにおいがする」
ふと、すみれが呟くように言った。
それがあまりにも幸せそうというか夢見心地というか、そんな声で名前を口にされるとドキドキしてしまった。
そりゃあ俺の制服を羽織って俺にひっついてるんだから、においはするだろう。でもそれを堪能するような言い方だったので、一気に俺のテンションは昼休みのそれではなくなった。
「……なんなのお前」
「え。なに」
「今日マジでおかしいんだけど」
「えぇ? どこが」
「全部!」
新しい髪色もパンを食べる仕草も、俺にべたべたくっついて来るところも全部。今日と言わずこの頃ずっとすみれが可愛くて仕方ない。
「かわいいんだよ、くそが」
「今日かわいいな」なんて褒める素直さは持ち合わせていないので、ぼそっと言うしかなかった。頭の真上で言ったから、すみれには聞こえているはず。
「……クソって聞こえた」
「まあ言ったからな」
「なんでクソとか言うの!?」
すみれの声が危険な大きさになった。俺の言葉を冗談だと割り切ていない。このままだと嫌な言い合いになる。それは避けたい。だって今、せっかく幸せだったのに。
彼女の機嫌を保てるかどうかは俺の言動にかかっている。喧嘩をしたくて言ったわけじゃない、可愛くて可愛くてつい照れ隠しで「くそ」と付け足した俺の過ちだ。
むっとした彼女の頬をつんつん突くと、すみれはやや鬱陶しそうに俺の手をはらった。それでも俺が頬を軽く押し続けるもんだから、とうとうすみれがこちらを向いた。
「……なに……?」
その瞬間をなんとか逃さなかった。俺も顔を傾けて、ちょうど交わるふたつの唇。すみれは目をぱちぱちとさせていたが、俺の手が頬を押さえているせいで離れることはできない。幸い彼女からは逃げようとする力は感じられなかった。しばらくして顔を離すとぼうっとした表情のすみれが居て、またドキリとして一言。
「……かわいい」
これは完全に無意識。目で見た「可愛い」、肌で感じる「可愛い」、鼻で香る「可愛い」、すべての感覚が俺の腐りきった脳を介さずそのまま口に出た感じ。
この言葉を聞いた時、すみれは少しだけ頬を染めた。が、あまのじゃくな俺の台詞をすんなり信じるのは危険だと判断したのか、怪しむように眉を寄せた。
「……クソって言わないの?」
「言われたいのかよ」
「違うけど……」
ごにょごにょ言いながら俺の肩に頭を乗せる。ストレートに「可愛い」と言われることに慣れていないのだ。俺も言い慣れてないからお互い様である。
「あのね」
「おう」
「堅治はクソかっこいーよ」
「クソとカッコイイどっちがメインだよ」
「クソ」
「おい」
減らず口をたたくのもお互い様。俺が脇腹を小突くと、すみれはきゃっきゃと笑いながら「やめてよ〜!」と身をよじる。暴れた彼女の頭が顎にヒットして舌を噛みそうになった。痛えなこのやろう、とすみれをくすぐるように手を伸ばすと、またげらげらと笑っている。
あれ、今のこれってすごく幸せじゃん。無理して女心を勉強して似合わない振る舞いをするよりも、俺らってこのままで良いんじゃん。しまいには涙を流しながら爆笑するすみれの顔はひどく歪んでいたというのに、それでも「可愛い」と思えてしまうんだから。