ジュエルイーター
起こしても起こしても寝ている兄弟。解いても解いても分からない数式。拭いても拭いてもおさまらない汗。
もともと堪忍袋の緒が丈夫でない俺は、これらに苛々することが多かった。その他思いどおりにいかない出来事には毎度眉を寄せていたし、試合に負けた時なんかは最悪だ。俺が自分のプレーを振り返ろうとしている時に横から侑がブツブツ言うので、そのたび喧嘩になっていた。あまりに喧嘩が多く苛つくことが多いので、もしかしたら俺は精神的な何かを患っているのではと思えた。
でも、見たところ侑も俺と同じくらい起伏が激しい。親はそんなに感情的ではないことを考えると、俺たち二人がおかしいのかもしれない。このまま精神不安定な大人になって、ちゃんとした仕事もできなくて、そのうち路頭に迷ってしまうかも。
と、考えていた俺だけど、最近じゃまったく苛々することはなくなった。……本当は侑に対しての苛々は絶えないのだが。どんなに虫の居所が悪くとも、俺の心を真っ平らな水面のようにしずめてくれる人が現れたのだ。
「あっ、治くんや」
四時間目の授業が終わったとたんに教室を飛び出した俺は、三年生の教室が並ぶ廊下に来ていた。学年は違うけど、俺のことを知っている生徒は少なくない。そんなつもりはないけど注目されているのだった。(これも本当は、最初のうちは注目されるのが心地よかったのだが)
治くんやん、なにしてんの、という先輩たちからの絡みを軽く交わして到着したのは目当ての教室。昼休みに入り多少がやがやしているが、心無しか俺の教室よりは静かだ。三年生ってやっぱり落ち着いているのだろうか。
「……白石さん居ますか」
「おんで。黒板消してるわ」
一番近くの男子生徒に声をかけると、その人は親切に教えてくれた。彼の目線の先には先月付き合い始めたばかりの彼女が居て、黒板をきれいに消している。今日は日直のようだ。ペアになって黒板を消しているのが男なのは少々気に食わないが、仕方ない。俺も日直をする時は女子とペアになるからだ。
仕事を終えた彼女はすぐに俺の姿を見つけた。というか、クラスの誰かが「治くん来てるよ」と教えてあげたらしい。
「あ。治くん」
「迎えにきた」
「来んでもええって言うてるのに」
「来ぉへんとはよ会われへんやん」
だから日直なんか放り出して早く一緒にご飯を食べよう、という俺の急かし方。単なるわがままに過ぎないのだが、彼女は「ごめんごめん」と弁当袋を持ってきた。その中には二人分の昼食が入っている。もちろん俺のぶんだ。
最近じゃ俺がこうして迎えに来るので、このクラス全体に交際が知れ渡っている。だから二人で教室を出る時、時々彼女の友人が声をかけてくるのだった。
「行ってらっしゃーい」
「もう、ほっといてやぁ」
「ほっとかれへんやん、宮治と白石さんの組み合わせなんか未だにビックリやもん」
なんとなく悪気のありそうな言葉を吐いたのは、幸いにも「友人」ではなさそうな女子だった。
だけど俺の彼女は底抜けに優しいというか、大人しいというか鈍いというか。そんな言葉の裏なんか考えもせずに、へらへらしながら廊下に出た。
「やっぱ治くん、みんなに好かれとんねんなぁ」
そして、感心したようにこう話すのだ。
俺が三年生にまで話しかけられるのは好かれているからではない。単に他の生徒より目立っているからだ。俺がバレーをしておらず根暗で猫背で冴えない男だったなら、例え身長があったとしても今のような扱いを受けることはないだろう。
「好かれとるわけちゃうと思うけど」
「変なこと言われたりせえへん? お前の彼女地味やなとか」
「言われへんし、言わせへんやろ」
「ならええけど……」
何を心配しているのやら、彼女はそんなことばかり気にしている。自分を地味でつまらない人間と思っているからだ。
確かに他の女子よりも控えめだし静かだから、目立つタイプじゃない。悪い言い方をすれば「地味」で間違いないとは思う。でも、騒がしくて噂好きの派手な女子なんかよりよほどいい。
「すみれちゃんこそ、からかわれたりしてないん?」
中庭に出ながら聞いてみると、彼女は目を丸くした。
「えっ、してへんよ」
「嘘やん。さっきからかわれとったやん」
「そうやった?」
「俺とすみれちゃんが釣り合わんみたいなこと言われとった」
「そんなこと言われてないで」
「そういう意味やろ、アレ」
そんな意味を持って発言されたものではなかったとしても、心の底ではそう思ってるに決まっている。世の中、きれいな心を持った人間ばかりではないのだ。俺が胸を張って「こいつの心はきれいや」と言えるのは彼女であるすみれちゃんと、北さんと、こないだテレビの特集に出ていた農家の老夫婦ぐらい。
だから、そうじゃない人間がすみれちゃんのような人間を悪く言うのはとても気分が悪いのだ。
「腹立つわ……」
心の声が漏れた。ぼそっと出た言葉はとても低くて不機嫌なものだったらしく、すみれちゃんがびっくりしたようにこちらを見たので「あ、言うてもた」と自覚した。だけどすみれちゃんは、そんな俺を叱ることはない。
「怒らんとって?」
そう言って、落ち着かせるように俺に向けて笑うのだった。そんな顔でなだめられたら怒りのゲージは半分以下にまで落ちてしまう。でも、今はまだムカつく。彼女のことを悪く言われるなんて、男なら誰だって嫌に決まってる。
「……実際、私もそう思てるし」
「どう?」
「……」
すみれちゃんは答えに詰まった。
付き合った時からすみれちゃんはその悩みと戦っている。不本意ながら戦わせているのは俺で、その戦いをおさめられるのも俺しか居ないのだろうけど。俺がいくら言葉を述べても、彼女の頭には「宮治が私のことを好きなんて」というのが残っているらしい。告白した時、「人違いじゃないですか?」って三回くらい聞き返されたし。
だけど人違いなんかではなく、俺は好きになったのだ。いつもクラスメートに連れられて、他の女子の後ろのほうで練習や試合を見に来ていた彼女のことが。
「言うとくけど、俺はすみれちゃんやなかったら嫌やで」
うまい言葉は浮かばない。とにかく俺は間違いなく好きで、他の女子と付き合うなんて考えられないと伝えることしか。
「……私もおんなじやで」
「ほんまに?」
「ほんまやし! ……なあ、もうお弁当食べよ」
「嫌や」
「せっかく作ったのに」
「あとでちゃんと食べる」
三年のクラスまで歩いていた時は「腹減った」「会いたいな」のふたつを考えていた俺だけど、いまの一瞬だけ「腹減った」が消えた。
天気のいい日に昼休みを一緒に過ごすこの中庭の、すみっこにある木陰の中。校舎の窓からも死角になっていて見られることのない場所。文字どおりふたりだけの空間になれるので、俺の心が荒ぶってしまった時は、ここですみれちゃんに落ち着かせてもらうのだ。
「治くんっ、」
耳元で聞こえる戸惑った声、かわええな。どんな顔してるんやろ、見たいけど今はハグしてるほうが気持ちええな。
満足いくまでぎゅっと抱きしめて、そのうちすみれちゃんは大人しくなり手を回してきて、よしよしと俺の背中を撫で始めた。癒される。テレビとか漫画とかで「彼女に癒される」とか言われても鼻で笑いまくっていたのに、今まさに俺は彼女の存在に癒されている。そして、やっと「腹減った」という感覚を取り戻すことができた。
「……落ち着いた」
「え」
「これで存分に味わえるわ。いただきます」
「え、あ、うん。どうぞ……?」
週に二回、俺はすみれちゃんの手作り弁当を食べている。毎日作らせるのは申し訳ないし、彼女の親に「彼氏に無理やり弁当作らされてない?」と思われるのは嫌なので。だからこの味をしっかり確かめながら食べたい。誰にも邪魔をされずに。
今日はすみれちゃんの得意なハンバーグと、練習中のだし巻き玉子が入っていた。ところどころ上手く巻けていないのがまた可愛い。彼女自身の弁当を盗み見ると、うまく出来たほうが俺の弁当箱に詰められているのが一目瞭然だった。こんなありがたみや幸せを感じながら食べるんだから、少々焦げていたり味が薄かったりしても気にならない。美味しい。
「……眠たなってきた」
食べ終えた俺はお約束のような台詞を吐いた。すみれちゃんが「子どもやん」ってくすくす笑う。こういう笑い方をする時、すみれちゃんのほうが一年先輩であるのを思い出す。歳の差なんて大したことはないけれども。
「五時間目なに?」
「えーと……英語やな」
「ならええか」
「えっ?」
もしもすみれちゃんの次の授業が体育だったら、着替えたり準備をするために早めに解散しなくてはならないが。英語ならばまだ一緒に居ても問題ない。
「ぎりぎりまで寝かして」
芝生に座るすみれちゃんの太ももに頭を置いて、ついに俺は寝転んだ。膝枕をしてもらうのは初めてのことではない。でも、すみれちゃんが緊張して少し硬くなったのを感じた。
腹いっぱい食べたあと、すぐに彼女の脚を借りて昼寝をする。高校生にして最大の幸せを見つけてしまった。これから先、もっと幸せなことがあるのかもしれないけど。少なくともこれまでの人生では今が一番幸せだ。
「……治くん」
「なに?」
「なんや。起きてた」
「起きてるよ」
俺がずっと目を閉じているので、眠ってしまったと思ったのだろうか。だけど俺は起きている。多少は眠たいけれど、この幸せな時間、意識を失って過ごすのは勿体ない。
「寝たら勿体ないやん。せっかくすみれちゃんに膝枕してもろてんのに」
「なんそれ」
「それに、夜めっちゃ寝てるからええねん」
「……そういうもんなん?」
「せやで。侑のイビキがうるさいけどな」
そう言うと、すみれちゃんの脚がぷるぷる震えた。笑っているらしい。侑に笑いを持っていかれるのは癪だが、あいつのイビキがかなりの騒音であることは事実だ。
「……治くん。そろそろ行かんと」
心地よく横になっていたけれど、とうとうすみれちゃんが俺の肩を突いてきた。スマホで時間を確認すると、授業開始まで残り五分。一気に現実に引き戻された気がして、身体がずんと重くなった。
「嫌やなあ……俺、古典めっちゃ苦手やねん」
「ちゃんと授業聞いたらいけるよ」
「聞いても分からん」
「分からんくてもちゃんと聞きや」
「えー……」
仕方なく重い身体をゆっくり起こすと、さっきまであまり眠くなかったのに急に眠気が襲ってきた。今もう一度寝転んだら爆睡してしまいそうだ。しかも五時間目は古典。何度か古典の授業中には記憶を失った経験がある。ただでさえ興味のない授業なのに。
「やる気ちょうだい」
そう、やる気をもらわなければきっと乗り越えられない。
きょとんとするすみれちゃんに顔を近付け、彼女がハッとした時には既に唇が触れていた。身体が強ばっているけれど、押し返される気配はない。数秒経ってから顔を離すと、すみれちゃんは弁当のなかのトマトみたいに赤くなっていた。
「……治くん!」
「オッシャ。めっちゃやる気出た」
「ほんまなん!? 口実にしとらん?」
「してる」
「してんの!?」
こんなふうに言うのはきっと照れ隠しも含まれているのだろう。顔を隠すように下を向いて、スカートの裾をぐしゃっと握っている。その手をそっと包み込んで、立ち上がるように促した。
「言うたやん。俺、すみれちゃんやないと無理やねん」
すみれちゃんはその言葉を受け止めるのにも、まだ時間がかかる様子だった。
堂々としてくれればいいのにと思ったが、そういえば俺は彼女のこんなところが好きなのだと思い出す。「やから私もおんなじやって」と頬を赤らめるのを見て、危うく次の授業をサボる提案をするところだった。