ハッピーバースデイ、僕の生まれ変わる日
完璧主義で面倒くさい性格だと、自分でも思う。だけど理想の姿に近づけたことなんて一度もなくて、だからこそ周りがとても魅力的に思えた。俺には無いものを持っていて、俺には出来ないことが出来て、俺じゃあ考えつかないような素晴らしい案を出してきたりとか。
だから俺が惹かれたのはやはり、同い年にしてはよく出来た女の子であった。
「及川くん、これ昨日話してた本」
教室で、俺の前に一冊の本を持ってきたのが彼女である。
白石さんは二年の時から同じクラスの女の子で、三年に上がってすぐの頃に俺から告白した。普段から読書が好きで、教室でも静かに本を読む姿が印象的だった。だからといって社交性が無いわけでもなく女友達と談笑する姿もあり、その時に見えた八重歯が可愛いなって思ったのがきっかけだ。
ただ、今は特に笑ってはいないので、残念ながらその八重歯は見えていないんだけど。
「ありがと。いつまでに返せばいい?」
「いつでもいいよ。私もう読んじゃったから」
涼しげに話す白石さんはそう言うと、自分の席に戻ろうとした。
ぎこちなく苗字で呼び合う俺たちだけど、仮にも俺は白石さんの彼氏だ。用件だけ済ませて去られるのは少し悲しい。だから、彼女が完全に向こうを向く前に呼び止めた。腕でも引っ張ってやりたかったけど、あいにくその度胸はない。
「あのさ。今日の夜、ひま?」
それでも俺の声掛けにはきちんと反応して、白石さんは足を止めてくれた。やっぱり笑顔とは言えない表情だが。
「暇っていうか……家にいると思うけど」
「電話していい?」
「うん。いいよ」
夜に電話をする、ということには即答で許可を出してくれたので、嫌われているわけじゃないと思う。
あまりのクールな対応に、本当に俺のこと好きなんだよな? って不安になることもあるけれども。白石さんから話しかけてくれたり、たまーににこやかに接してくれたり、月曜日には「一緒に帰ろ」と誘ってくれたりもする。だからきっと大丈夫だとは思う。俺が彼女に見合う男で居る限りは。
「……及川くんってさ……」
「うん?」
去り際に、今度は白石さんが口を開いた。基本的に会話を進めたり話題を広げていくのが俺なので、彼女のほうから何か話してくれるなんてのは珍しい。だから驚きつつもうきうきして聞き返したんだけど、白石さんは何やら話しにくそうだった。
「……んーん。夜話すね」
「えっ。気になるんだけど」
「ここじゃ嫌」
「そんな重い話なの?」
「んー、まあ」
話を濁すと、今度こそ彼女は俺の元から離れてしまった。
浮かない顔だった。つまらなそうにも見えたし、教室で話せないような重い話っていったい何だろう。……どう考えても答えはひとつだ。
「振られんのかな俺……」
全身の血が引いて寒気がした。振られるなんて絶対に嫌だし恐ろしい。せっかく自分から想いを伝えて付き合えて、二ヶ月経った最近やっと白石さんのほうからも「好き」という単語を引き出すことができたのに。
しかし午後の授業や部活では、不思議とそこまで取り乱したり集中力を切らすようなことはなかった。
きっと俺は心のどこかで、自分が白石さんに相応しくない可能性があると分かっていたのだ。幻滅させればいつだって振られる恐れはあった。俺の何かが白石さんの神経に触れてしまったのかもしれない。心当たりはないけれど、「心当たりがない」と思っていることこそが、俺の悪いところである。
「……ふー」
そんな自分を見つめ直したほうが良いのだろうかと、練習中にコーチにお願いして一人で走らせてもらうことにした。
約十キロ弱の距離を走り、最後に校庭を一周歩き、それから体育館へ戻ろうとした時には、妙に気持ちに余裕が生まれていた。今日振られると決まったわけじゃない、白石さんが言いたかったのは何か別の話かもしれない。考え込むのは「別れよう」の言葉を聞いてからでも遅くはない。
「あっ」
走り終えた後なのに軽い足取りで体育館の入口へ向かうと、制服を着た女の子の姿が目に入った。白石さんである。
白石さんは練習試合があれば見に来てくれるけど、ただの部活を見学に来ることはない。今日は試合でもないのに珍しい、と思って声をかけようとした時だ。
「すみれ、本当に及川と付き合ってんの?」
ピリッとしたのは白石さんの名前を呼んだのが男の声だったから、あるいは俺の名前も口にしたから、もしくはひどく偉そうな物言いだったから。
死角になっていたので誰かと一緒だとは分からなかった。何故か俺は陰に隠れてしまい、出ていくタイミングを失ってしまった。
「そうだよ。前に言ったじゃん」
「えー。あんな学校中のアイドルと」
「女の子に人気なだけでしょ」
「それをアイドルと言う」
彼の言う「アイドル」という言葉にたっぷりの皮肉が込められていることは理解できた。
実際俺は女の子に人気のあるほうだけど、正直言って恋愛に発展したことなんて多くはない。告白されても断ってきたし、そのうち俺が誰の交際も受け付けないのが知れ渡ったのか、三年になってからは誰にも告白されてない。俺に彼女ができたのも理由のひとつかもしれない。
「俺、すみれはもっと違うのが好みだと思ってたわあ」
続いて聞こえてきた言葉にも、俺はぴくりと眉を動かした。一体どこに反応すべきか分からないが、今一番気になったのは、彼が白石さんの名前を呼び捨てていることだ。俺に対して良くない感情を持たれていることよりも。
「違うのって、どんな?」
「もう少しこう知的な」
「……それ及川くんに失礼だよ」
「だって俺が見てる時いつも……」
「うるさいなあっ! さっさと部活戻りなって」
白石さんは意外にも、彼を突き放す言葉を発した。男のほうは「はいはい」と言いながら遠ざかっていくのが聞こえる。少し顔を覗かせて見ると、どうやらバスケ部の部員のようだった。
「……はーぁ……」
バスケ部の離脱に溜め息を漏らしたかったのは俺も同じだが、今の溜め息は白石さんのものだ。落胆、安堵、どちらの意味の溜め息だろうか。
ちなみに俺は落胆だ。だって、今去って行った男の様子からするに、俺よりも白石さんと親しい間柄なのが手に取るように分かるから。
「いまの誰」
「わっ」
突然聞こえた俺の声、現れた俺の姿に白石さんが飛び上がった。背後から声をかけたので余計驚かれたかもしれない、が、それを申し訳ないと詫びるのは後だ。
「えっ、お、及川くん」
「さっきの……」
誰? ともう一度聞きたかったけど、自分の声があまりに震えていてのでそこで止めた。
みっともない。嫉妬している。知られたくない。鬱陶しいと思われる。何も気にしてないように振る舞いたい。
「……聞いてた?」
ところが申し訳なさそうに言う白石さんのおかげで、気持ちを鎮めるのは難しくなった。
「ごめん。あの子、嫌なこと言ってたよね」
「そうじゃない。ソッチじゃない」
「え、」
俺の声が普段よりも低く、そして震えていたせいか、白石さんの身体にも緊張が走ったように見えた。もちろん彼の話した内容は俺にとってあまり良くないものであるが、そんなことは二の次だ。
「誰? 今の」
先ほどと同じ質問を、先ほどよりもゆっくりと投げかける。無意識に進んでいた足は白石さんのすぐ前まで来ており、キスする時以外でこんなに近寄ったことがあるだろうかと思うほど。壁際に追い詰められた白石さんは俺が怒っているのを感じ取ったのか、冷や汗を流していた。
「……及川くっ、ちょっと待って話すから」
「何で、俺がまだ……名前で呼ぶの躊躇ってんのに、馴れ馴れしく呼ばれてんの」
そう、俺が一番気になってムカムカしてしまったのはそれだ。恋人になった俺でさえまだ勇気が出なくて名前を呼べていないのに、なぜ他の男が白石さんの名を口にしているのか。しかも対等どころか上から目線で偉そうに、俺と付き合っているのを知っているくせに。
そんな男の存在があるなんて知らなかったし、隠されていたのかと怒りが込み上げてきた。白石さんは俺に睨まれながら、今はじめて俺の前で戸惑いを見せている。どちらかと言うと俺のほうが気持ちが重くて、白石さんのほうが冷静で居ることが多かったのに。
震える声で「だって」と言う彼女の口から、どんな弁明が聞こえるのかと耳をすませた。
「いとこだから……」
全く予想しなかった言葉なので、聞き間違えたのかと思った。俺たち以外の別の誰かが喋ったんじゃ、と疑うくらい。驚いた俺は口をぱくぱくさせて、白石さんの言葉を復唱するので精一杯だった。
「いとこ……?」
「母方の! 同い年なの。青城に通ってる」
冷静になろう。
よく考えれば、今のが白石さんの親族であることくらい予測できたはず。男のいとこが居て、バスケをやっていると聞いたことがある。青城に通ういとこが居るとも聞いた。まさか同一人物だったとは。そして、今のがそうだとは。今度は俺が冷や汗をかく番だ。
「……え、俺……やば……ごめ、」
「……もう離してくれる?」
「あ」
そう言われて初めて、自分が白石さんの肩を掴んでいることに気が付いた。
咄嗟に手を離したはいいが、その手の行き場はどこにもない。かゆくもないのに頭をかいて、気まずい時間をやり過ごそうとした。どうせ何か話さなければならないのに。
「……」
白石さんは下を向いたまま何も言わなかった。取り返しのつかないことで怒らせたかもしれない。一刻も早く謝って機嫌を直してもらいたい。
「あの……ごめん俺、勘違い」
「いいよべつに」
「けど」
「いいの」
俺の謝罪を拒否するかのように、白石さんが言葉を遮った。まるで突き放されているみたいで、ぐさりと胸に傷みを感じた。
「……電話の時に話そうと思ったけど、及川くんってさ……私に気を遣いすぎだと思う」
白石さんは足元を睨みながら言った。
気を遣っているのは俺が一番よく分かっている。チームメイトは俺が誰かに遠慮したり気を遣うなんて無縁だと思うだろうが、白石さんに対してはそうじゃないのだ。
「……そりゃあね……自覚してるよ」
「何でなの?」
どうして俺が自分の前では「そう」なのか、彼女は理解できないらしい。真意を探ろうとする瞳には、普段どおりの目力が取り戻されていた。
「白石さんが完璧だから」
本人に向かってこんな褒め方をするのもおかしな話だが、俺は自信満々で言った。なぜならこの理由は本当のことだから。才色兼備の白石さんは他の同級生が見れば物足りないのかもしれないけど、俺にとってこんなに素晴らしい女の子は他に居ない。だから話すだけでも緊張するし、嫌われたくないし、自分が自分じゃないみたいに自信を無くすことだってあるのだ。
「私、完璧じゃないけど」
「完璧だよ! だから好きになっちゃったんだし」
白石さん自身が何と言おうが、白石さんは完璧だ。確かに俺はまだ、白石さんのすべてを知っているわけじゃないけれど。身体の触れ合いだってキス止まりだし。……単に俺に度胸が無いからなんだけど。
「……じゃあ及川くん、私が完璧じゃないこと知ったら幻滅しちゃうね」
「へ」
「及川くんが女の子にキャーキャー言われてるの見てイライラしたりとか、仲良い女の子を名前で呼んでるの見てムカムカしたりとか、私の前じゃあんまり笑ってくれなくて悲しいとか、そういうこと思ってる私は完璧じゃないよね」
突然白石さんが早口でまくし立てたので、口を挟む間もなく。こんなに勢いよく話す彼女を見るのは初めてだ。しかも自分を卑下するみたいに。
「私、ほんとはこんな子じゃないよ」
「え……?」
「及川くんに幻滅されたくないから、良い子のふりしてんの!」
俺が何も言えないまま呆然としていると、白石さんは驚きの発言をした。
良い子のふり。いや、ボロを出さずに良い子を演じられるだけでじゅうぶん凄いというか、元から良い子だってことになるのでは。
「でも及川くんがそうやって私に気遣って、ギクシャクされるのは嫌なの!」
「え」
「いちいち夜電話していい? とか許可取らなくていいでしょ! したい時にしてきてよ!」
「あっ、ハイ……?」
そこでいったん白石さんの息は途切れた。一時停止されたみたいに両目が大きく開かれて、肩だけが上下に揺れている。俺も同じく圧倒されて動けないので、互いに見つめ合うだけの時間が流れた。「見つめ合う」と言っても、ロマンチックとは言い難い雰囲気であるが。
「……どうしたの? 私が完璧じゃないから冷めた?」
「ちちち違うってば! ただ……」
「ただ?」
ただ 白石さんの本音を聞いたのが初めてのような気がして、自分の中で整理するのに時間がかかるのだった。
「……ちょっとびっくりして。白石さんが俺のこと、どう思ってるのか分からなかったから」
「どうって」
「嫉妬したりするんだなって……」
俺が他の女の子にキャーキャー言われるからと言って嫌な様子もなかったし、そもそも俺は一応他の女の子とは一線引くように努めていたし。白石さんと付き合うようになってからは特に。
それでも女子バレー部で中学が一緒だった仲のいい子は、確かに名前で呼びあったりしている。何年も前からそうなので、意識していなかったけど。そういえば俺も他の女の子を下の名前で呼んでいる。そして、白石さんがそれに妬いている?
「するよ。悪い?」
半ばやけくそのような言い方であったが、白石さんは嫉妬を認めた。その時の表情はまさに恥をしのんだ様子で、何があっても赤面したり取り乱したりしないいつもの姿とはかけ離れている。
と言うか、知らないうちに俺が理想を押し付けていたのかもしれない。俺の理想に近付くように気を張っていたってことか。俺が彼女に対してそうであったように。
「……さっきの本当にいとこなんだよね」
「そうだよ」
それならば安心だ。いとこによく思われていないのは不本意だけど、そんなのいつでもどうにでもなる。せっかくの機会だから今変えられそうなことを提案したい。
「俺はいとこじゃないけど……名前、呼んでもいい?」
いくらいとこだと言っても男だし同級生だし、嫌でもライバル視はしてしまうから。でも、こんなことを聞くなんて重いと思われるだろうか。親族にまで嫉妬するなんて、小さい男だと思われるかな。
しかし、その心配は要らないらしかった。
「許可いらないって言ってるでしょ」
白石さんは小さな声で、くちびるの先っぽだけでぼそぼそ言った。
思わず吹き出してしまいそうなくらい可愛い仕草だったけど、ここで笑ってしまっては台無しだ。かたく口を閉じて鼻で深呼吸をし、白石さんの名前を思い浮かべた。
「すみれ」
ゆっくり呼んでみると、白石さんは一度だけ瞬きをした。たまたま目が乾いたのか照れ隠しなのかは分からないけど。
でも、すぐに後者であると理解した。白石さんが再びくちびるを尖らせてぼそぼそ話したから。
「……悪くない」
「なんだそりゃ」
「悪くないなって思っただけ」
「そっちも俺のこと呼んでみて」
もしかしてもしかすると、初めて俺のほうが精神的優位に立っているかも。
白石さんは口を開いて閉じてまた開いて、を繰り返しなかなか声を出そうとしない。俺の名前、忘れちゃったのかなと心配になるくらいの時間が流れた。そしてついに、肺いっぱいに酸素を取り込むみたいに大きく息を吸った。
「……と……と、っと……とおる」
目はぎゅっと閉じてしまっているけど、なんとか彼女の口から「徹」という発音を聞き取ることができた。
なるほど、悪くない。白石さんのコメントもあながち間違いではないようだ。一点気になるのは、いくらなんでもスムーズさに欠けるということ。
「ちょっと噛みすぎじゃない?」
「だ、だって」
初めてなんだから仕方ない、とでも言いたげな様子だ。もちろん俺はこの程度で気分を害するような男じゃないし、せっかく白石さんに「気を遣うな」と言われたのに、からかいすぎて本当に嫌われるのは御免である。
でも今なら少し意地悪してもいいかなあと思えたので、珍しく赤くなった耳元に近付いてやった。
「すみれ、」
「なに……なによ」
さぞくすぐったくてむず痒いのだろう、そして恥ずかしいだろう。だけどこの瞬間だけは俺に譲っていただきたい。逃げられないよう壁際に追い詰めて、逸らされる顔をこちらに向けて、唇を重ねたとしても文句は受け付けない。いちいち許可は要らないと言ったのは彼女なんだから。