むさぼり合うことなかれ


私は通う高校を選ぶ時、僭越ながらいくつかの条件を設けていた。
制服がかわいいこと、家から通いやすいこと、極端に勉強レベルが高かったり低かったりしないこと。そして、アルバイトが可能であること。

私の家は両親ともに働いていて貧乏なわけではない。「高校に行ったらバイトをしろ」とも言われていない。単に私がアルバイトを経験したいだけだった。自分でお金を稼ぐという行為を、同級生よりも先にやってみたかった。部活に入るつもりもなかったし、それなら放課後何もしないよりはお金を稼いだほうがいいのでは? という考えだ。

そんなわけで今、私は学校から家のちょうど間にあるファミレスで週三日〜四日ほど働いている。新しい学校に慣れるまで余裕を持ちたかったので入学後すぐではなく、高一の夏休みから。そして、アルバイトを始めてからまもなく二年が経つ。


「いらっしゃいませー」


ぞろぞろと店に入った人影に、反射的にお出迎えの声を出す。席に案内するため入口へ向かうと、入ってきたお客様は青城高校バレー部の男子たちであった。


「あっ! お疲れ様」
「そっちもお疲れー」


私たちは同級生で顔見知りなので、軽く挨拶を交わしながら空いている席に通した。
彼らは週に一回、多い時は三回くらいやって来る。単純に学校から一番近くて便利なファミレスだし、ドリンクバーという学生の味方をお供にして勉強したり喋ったりするのが楽しいのだと思う。他の青城の生徒もよく見かけるし。
だけど一番の理由は、恐らく「私が」ここで働いているからだ。


「すみれ、八時までここで待ってていい?」


四人のバレー部員のうち、一番明るい髪色のひとりが言った。

彼の名前は花巻貴大、何を隠そう私の恋人である。半年くらい前から付き合っていて、私がファミレスでアルバイトしているのを知ってからは、よく及川くんたちと一緒に来てくれるのだ。そして私が大体いつも夜八時までの勤務だから、他の三人が帰ってからも一人で宿題したりスマホをいじったりして待ってくれる。今日もそのつもりのようだ。
そんな優しくて思いやりのある貴大にはいつも感謝しているけれど、あいにく今日は帰ってもらう必要があるのだった。


「あ……ごめん。実は今日、ひとり体調不良で休んじゃってて」
「あれ。そうなんだ」
「十時までシフト入ることになったから。先に帰ってていいよ」
「えっ」


私の言葉を聞いて、貴大だけでなく他の男子も目を丸くした。


「……十時って遅くね?」
「遅いけど……仕方ないよ、私もテスト中とか融通きかせてもらってるし」
「そうかもだけど……」


貴大は納得しようとしているような、だけど受け入れ難いというような、複雑な様子で口をもごもごさせた。
分かっている。貴大は優しいから、私が夜の十時過ぎに店を出てひとりで帰るのを心配してくれているのだ。だけど家までは自転車で十分もかからないし、いつも人通りの少ない道はなるべく避けている。そんなに危険じゃないはずだ。

それにさっきも言った通り、テスト期間や去年の修学旅行の時なんかは休みをもらっている。最長で二週間休んだこともあるくらい。学生だもんね、と快く休ませてもらってるから、急な欠員が出た時くらい助けになりたい。働いたぶんだけ給料も貰えるし。


「待ってりゃいいだろ。十時まで」


そんな時、これまで無言でメニューを見ていた岩泉くんが言った。
言うのは簡単だけど十時まで待つなんて、あと三時間以上あるのに? さすがに冗談だろうと思って聞き流そうとすると、貴大が真面目な顔で言った。


「……そうだな。待っとく」
「えっ」
「それがいいだろ」
「俺らは先に帰るけど」
「おう。いいよ」
「え、ちょっと待って」
「十時までこの席居てもいい?」
「いいけど……いや、待って待って」


まさか本気で待とうとするなんて思わなくて、慌てて机に手を置いた。というか貴大だけじゃなく、及川くんも岩泉くんも松川くんも何の違和感もなく話を進めている。


「十時だよ? 貴大、明日も朝練あるんだしそんなに待たなくていいよ」
「やだ」
「な」
「マッキー心配してるんだよ白石さん、遅い時間にひとりで帰らせるの」
「そう」
「でも、自転車ですぐだし……」


ここから私の家までの距離は、貴大だって知っている。貴大がファミレスに来ている時は、八時まで働いた後で家まで一緒に歩いてくれるのだ。それから貴大は駅まで行って、電車に乗って帰っていく。それだけでも手間だろうなと思うのに、十時まで待たれたら彼は家に着くのが遅くなってしまう。だから断ろうとしてるのに。


「大人しくしとくからさ。いいっしょ?」


貴大にとってはそんなこと、大した問題じゃないらしい。おねだりするような言い方に負けてしまい、「分かった」と頷くしかなかった。

それから徐々にお客さんは増えて行った。夕食のピークはいつも忙しいけど、それに加えて今日はスタッフが一人足りない。いつも以上にお店の入口や店内に気を回さなくちゃいけなくて、気付いたら貴大以外の三人は居なくなっていた。

貴大がひとりになったのは夜の七時半くらいだろうか。あまり貴大に構うことができないので時折チラリと見てみると、どうやら宿題をしているようだ。そういえば今日、いつもより英語の宿題多かったっけ。復習もしといたほうが良さそうだ。今日習ったのは確か……
と、一瞬私は仕事以外のことを考えてしまった。そのたった一瞬で、仕事がどんどん積み重なっていくことになる。お客さんたちが店員を呼ぶボタンを押し、中にはボタンを押さずに直接私を呼ぶ人も出てきた。


「ちょっと店員さん、こっちまだ料理来てないんですけどー!」
「あっ、はい! すみません」
「すみませーん追加の注文いいですかー?」
「少々お待ちくださーい!」


だめだだめだ、どうして今日に限ってボーッとしてしまうんだろう。
急いで伝票を確認して、仕上がった料理をそれぞれのテーブルに届けていく。その帰り際に追加注文を聞いてお水を注いで回った。本当はドリンクバーの近くにセルフサービスでお水を注げる場所があるんだけど、全テーブルに説明するよりそっちのほうが早いから。
そうしてテーブルの間を歩き回り、キッチンに戻って水分補給できた時にはくたくただった。


「今日忙しっ……」
「残ってくれてありがとね。あとちょっと頑張ろ!」
「ふぁい」
「じゃあこれ持って行って」
「はーい」


店長に励まされ、十時まで残り一時間であることに気付いた。こんなに時間が早く過ぎたのは久しぶりだ。
もう夜の九時だけど遅い夕食をとる人はちらほら居るみたいで、私は大盛りの定食をテーブルに運んだ。


「お待たせしました!」


その席にはサラリーマンの男性がひとりで座っていて、私の置いたトレーを珍しそうに覗き込んだ。
自分が頼んだ料理のはずなのにどうしてそんなふうに見るんだろう? まあいいか、と思いつつ席を離れようとすると。


「あの、これ頼んでないんですけど」


なんとも恐ろしい言葉が聞こえてきた。
この人の注文を取ったのは私だ。だけど何を注文されたのかは覚えていない。忙しかったし、言われたメニューをハンディで操作するだけだからあまり記憶に残っていなかった。注文ミスを犯したのは(恥ずかしながら)初めてではないけれど、人の少ない日にこんなミスをするなんて。


「僕が頼んだのはこっちです」
「大変失礼しました……! すぐ作り直し」
「あ、大丈夫です大丈夫です。これはこれで美味しそうなので食べます」
「えっ、でも」


私がトレーを下げるのを遮り、早くもその人は割り箸を割った。本当にこのまま、頼んだものとは異なる料理を食べるつもりだろうか? 学生バイトの私に気を遣ってくれている?
申し訳なさと安心とで「すみません」しか言えずに突っ立っていると、サラリーマンはにっこり笑って言った。


「今日忙しそうですもんね。僕、なんでも美味しく食べられるんで気にしないでください」


神様だ! テレビの再現ドラマにしてほしいくらいの素晴らしい出来事!
ありがとうございます、と頭を下げてその場を去り、キッチンの店長に報告し、なんとかクレームなく今日の仕事を終えることができた。

そうして十時を回り、その頃にはサラリーマンの男性も食べ終えて既に退店していた。最後にお礼とお詫びを言いたかったな。

制服に着替えた私はお店のスタッフに挨拶をして、貴大を席まで迎えに行った。彼はとっくに宿題を終えたらしく、ゲームで時間を潰しているようだった。こちらも申し訳ない。だけど私はまださっきの感動を引きずっていたので、貴大にもそれを共有しようと話し始めた。


「……っていうサラリーマンが居てさ! すっごい大人の余裕っていうか配慮? みたいな! テンパってたのバレてたのかなあ」


自転車を押してくれる貴大の隣で、私はサラリーマンの神対応を熱弁した。だってあんな経験初めてだし、今後もきっと起こらないだろうと思ったから。


「そーなんだ。いい人でよかったな」
「ほんとにね! あーあ、お客さんがああいう性格いい人ばっかりだったらいいのに」
「イケメンだったし?」


急に貴大がそう言ったので、口が止まった。
スーツを着た若いサラリーマンの人、ってことは印象に残っているけど。清潔感はあったかな。イケメンかどうかはあんまり覚えていない。


「……イケメンだったかな」
「見てないから知らねーけど」
「イケメン……だったのかなあ。覚えてないや」
「ふぅーん」
「……」


おかしな間。貴大にしては冷たい反応のような気がして、咄嗟に返す言葉を迷ってしまった。もうすぐ十時半になるし、もしかして眠いのかな。やっぱりこんな時間まで付き合わせないほうが良かったとか。


「……貴大、疲れてるの?」
「べつに?」
「嘘、なんか元気ない。ていうか素っ気ない」
「気のせいだろ」
「気のせいじゃない」


貴大はしばらく目を合わせてくれなかった。だから表情は分からなかったけど、唇がほんの少し尖っているのが見える。……どうやら疲れているわけじゃなさそうだ。


「他の男ばっかり褒めんなよって顔してる?」


意地悪な言い方だっていうのは自覚している。あまりからかって怒らせないようにしたかったけど、私は無意識にニヤニヤしてしまった。するとさっきまでツンとしていた貴大は、顔中の穴という穴を大きく開いて慌てふためいた。


「……分かってんなら聞くなよ! 恥ずっ」
「えーだってぇ」
「しかも俺、そのやり取り見てたから! あいつ超絶スマートだったじゃん」
「だよねぇ」
「しかもその時すみれが……」


そう言いながら、ハンドルを持つ彼の手に力が入るのが見えた。


「すみれ、ちょっとニヤニヤしてたじゃん」


私の顔とは反対方向を向いて、貴大がボソボソと口にした。なるほど、私が歳上の男性に優しくされてニヤついてるように見えたのか。


「したっけ? 助かった〜ってホッとしたのは覚えてるけど」
「トキメいてるように見えた」
「え」


ニヤつくどころか、心を奪われているように見えたらしい。あのシーン、貴大に見られていたんだ。私にとっては単なるラッキーな出来事(もちろん注文ミスは反省してる)だったのに、彼にとってはそうじゃなかったみたいだ。


「だから妬いちゃった?」


未だにそっぽを向きながら歩くので彼の後頭部に向かって言うと、貴大はゆっくりと首をこちらに回した。


「……そりゃあ妬くじゃん、ふつーに……」


その言葉とようやく見えた表情のおかげで、彼がこっちを向きたくなかった理由を悟った。普段にこにこしている貴大とは全く違う、頬を真っ赤に染めた姿になっている。


「そんな心配しなくても。貴大しか好きにならないよ」


私より乙女みたいな表情が可愛くて、ついつい慰めるような言葉とともに背中を撫でた。子ども扱いされてるって思われたかもしれない。だって子どもみたいに可愛いんだもん。
すると貴大は足を止め、自転車をその場に停めた。それから私と向き合って、しばらくジッと私を見下ろす。唇をへの字に結んだ顔のまま。それも可愛かったけど笑うのは我慢した。


「…………ハグ」


貴大はそう言うと、軽く両手を広げた。
安心したい時とか、元気がない時とか、たまに彼はハグを求めてくる。基本的には爽やかで頼れる少年なんだけど、こんな頼りない顔は私にしか見せていないんだろうなあ。
「ハイハイ」と私がハグに応じると、貴大の手が背中に回ってきた。頭の上に貴大の顎が乗っているのを感じる。傍から見れば私が貴大に飛びついて甘えている光景。実際は逆だ。


「……俺、かっこわる」
「そんなことないよ」
「いやいや悪すぎだろ」
「悪くないって。かっこいいよ」


貴大は格好いい。見た目はもちろんのこと、中身だって男らしい。勉強も部活も頑張っているし、彼女である私を心配したり気遣ったり。時には頼りにしてくれたり、甘えてきたり。
そんな可愛い面もあるけれど、やっぱり貴大は格好いい。今だって私を抱きしめる腕は太くて逞しくて、下手をしたら絞め殺されてしまいそうだ。
あれ、おかしい。本当に絞め殺されそうなくらい強いかも。


「……っいだだだだ! 苦しい! 弱めて」
「むり……好き」
「死ぬ死ぬ」


久しぶりに嫉妬する出来事があったせいか、貴大の力はいつもより強かった。
早く離れなきゃお互い帰宅が遅くなってしまうんだけど、仕方ない。離してくれないんだもん。私も私で貴大とのハグは心地いいから、しばらくこのまま抱きしめあっておくことにした。……ちょっと苦しいけど。