カレイナナイト
社会人になって三年目。大企業ではないけれど、人にも環境にも恵まれた職場で日々を過ごしている。平社員ではあるものの時々少しずつ昇給するし、ボーナスも貰えてるし、有休を使っても嫌味を言われない。同僚も上司も優しく、後輩はかわいらしい。通勤はドアトゥドアで三十分、とても通いやすい場所だ。
どこからどう見ても充実した社会人ライフを送る私に足りないものと言えば、それは男の影である。
「白石さーん、ごめんちょっと出て! たぶんC社の人」
いつもどおり働いていたある日、会社受付のインターホンが鳴った。ちょうど来客予定があるのか、鈴木主任が私に対応を頼んできた。主任はたった今誰かとの電話を終えたところで、手が離せないらしい。
「はーい。応接室にお通ししていいですか?」
「うん。お願い」
私は暇というわけでもないけれど仕事の区切りが良かったので、もちろん了承した。席を立って念のため制服のスカートのしわ、特にお尻の部分を手で伸ばす。髪が崩れていないかどうかも触ってチェックしながら入口に行き、いよいよドアを開けた。
「たいへんお待たせ致しました」
そう言いながら目に入った相手の姿は、予想よりも大きかった。縦に。この会社には居ないくらいの高身長だ。思わず足が止まってしまったが、相手は気にせず自己紹介を始めた。
「十六時からお約束している松川ですが……」
鈴木様はいらっしゃいますか、と主任の名前を続ける彼の顔には見覚えがあった。その声にも聞き覚えが。そこまで来れば身長にも心当たりがある。そして、名乗った名前で確信した。この人は高校時代の同級生だ!
「……松川くん?」
「え、あれ」
高校一年と三年の時に同じクラスだった、松川一静がそこに居た。
卒業ぶりに会った松川くんは相変わらず背が高くて、再会を驚いている様子はあるけれど落ち着いている。高校の時も大人っぽいなと思っていたけど正真正銘の大人になってて、でも私に気付いて目を丸くした時は昔の面影を感じさせた。
「白石さんじゃん。何してるの」
「何って仕事だよ! 松川くんこそ何してんの」
「何って仕事だよ」
「松川くんC社に就職したんだ?」
「まあね。それより……」
松川くんは声をひそめて、トントンと腕時計を指さした。そうだ、松川くんにはアポがあるんだった。しかも私がドアを開けたので、執務室からも私と松川くんの話し込む姿が見えている。これはよろしくない。
「ごめん。案内します」
「お願いします」
ひとまず松川くんを応接室に通すべく、よそよそしい態度を取りながら先導して歩き始めた。スカートのシワ、伸ばしておいてよかった。まさか松川くんに会うなんて思わないじゃん 。かつての片想いの相手が、突然私の会社を訪ねてくるなんて。
部屋に案内して座ってもらい、普段のお客様と同じようにお茶出しをすると、「こんなことまでしてくれるんだ」と松川くんは感心していた。呟くように発するその声が昔よりも素敵なので、この部屋に留まりたい気持ちが溢れてくる。けど、今は仕事中だ。切り替えなくちゃ。松川くん、メッセージアプリのアカウントとか変わってないかな? あとで何か送ってみようかな。
「じゃあ、部長呼んでくるから」
「うん。あ、白石さん連絡先変わってないよね?」
「え……?」
ところがなんと、私が退室しようとした時に、松川くんから連絡先の話をされた。まさに私が思っていたのと同じことを。
「何かの縁だし、予定がなければ仕事終わってからお茶でもどうかなと」
何かの縁、ってそれ私も思ってた。だけど松川くんから誘ってもらえるなんて。今は夕方四時、定時までは二時間だ。私にはなんの予定もない。もちろん会えるなら会いたい! が、大人の誘いにしては引っかかるところがある。
「……お茶? 飲みじゃなくて」
「飲みでもいいけど、いきなり二人で酒とか嫌かなあと思って」
そこは二人だからこそ、しかも久しぶりだからこそお酒じゃないかなと思ったが。松川くんの意見にも納得できた。しかももし飲んでしまったら、危うく高校時代に抱いた甘い気持ちを暴露してしまう気がする。最近気になっていた人が彼女持ちだったのを知ってショックを受けたばかりだから、飲んだ勢いで自分を見失うのが怖い。
「……お茶で。」
「おっけ」
またあとで、と言い合って今度こそ私は応接室を出た。
主任に「ご案内済みです」と声をかけ、何食わぬ顔で自分のデスクに戻る。そのあいだも心臓はドキドキ言っていた。突然すぎて理解が追いついていないけど、私、松川くんと今夜お茶するの? 有り得なくない? 信じられないくらい嬉しい。どうしよう、今日どんな服で出勤したっけな。
……と平静を装いながら考えていると、同期の女の子がぴょんぴょん跳ねながら寄ってきた。
「ねえねえねえC社の営業さん超かっこよくない!? 白石さん喋ってたけど知り合いなの!?」
目を輝かせている彼女の声はひそひそ声に留まっているけど、早く聞きたい! 全部教えて! と言いたいのが丸わかりだ。仕事をしていると出会いも少ないし、突然現れた取引先の男性に惹かれるのも無理はない。それに、松川くんは誰がどう見ても格好いいのだ。だから私は告白も出来ずに高校を卒業したのだが。
「うん。高校の同級生」
「嘘ーー!」
「私もビックリしてるとこ……」
実際、卒業してからは成人式でほんの一瞬顔を合わせただけだった。成人式のあと、午後からは中学の同窓会に出席したので松川くんとは喋ってもいない。「スーツ似合ってたな」と切ない気持ちを胸に、中学の同級生と慣れないお酒を飲んだ記憶がある。
だけどどうだろう、卒業から七年・成人式から五年経った松川くんの姿と言ったら「スーツ似合ってたな」程度では済まされない。成人式で着るような真っ黒のじゃなくて、おしゃれな紺のスーツだった。そして綺麗に着こなしていた。
松川くんと主任は三十分ほど話したのだろうか。私があれこれ仕事をしているうちに鈴木主任が席に着いていたので、もう帰ってしまったんだなと理解した。主任に「同級生なんだって?」と聞かれたので、松川くんは私の話題を出したのかもしれない。
それから一時間ちょっと、何がなんでも定時退社をするために業務に取り組んだ。おかげで時間になったらさっさと打刻して退社したけれど、代わりに化粧直しに時間を費やすことになった。だって普段、適当なメイクしかしてないし! 涙袋とかも描かないし! というわけで、休日にしか使わないラメで控えめな涙袋を作っておいた。化粧ポーチ持ってきててよかった。
「お待たせ! ごめん」
待ち合わせは近くの有名なコーヒーチェーンで、松川くんは既にお店の前に立っていた。「全然待ってないよ」という彼の立ち姿は、やはり高校時のそれとは違う。けど、私の心臓はかつてのようにドキドキし始めた。
「松川くんの会社ってこのへんだっけ?」
「いや、今日はたまたま。こっちの契約先何件か回ってそのまま直帰」
「そうなんだ」
注文の列に列びながらそんな話をしてるけど、会話の内容はあまり頭に入ってこない。もっと聞きたいことは沢山あるはずなんだけど。
そうこうしているうちに先頭になり、店員さんがメニューを広げてきた。あ、注文決めないと。本当は甘いのが好きだけど子どもっぽいとか思われたくないな、どれにしよう。
「俺、アメリカンで。白石さんは?」
はっとして顔を上げると、松川くんも店員さんも私のほうを見ていた。松川くんの手には財布が握られている。私の会計も一緒に払う気だ。
「えっ、いいよ私、自分で……」
「面倒だから一緒に頼も」
なんというスマートな理由付けをしてくるのだろう。卒業してからの彼に一体何が起きたというのだ。私なんか精神的にも肉体的にも全然成長してない気さえするのに。変わったのはデジタルパーマを始めたことぐらい。
結局私も松川くんと同じものを頼んで、ブラックでは飲めなかったので砂糖とミルクを追加した。松川くんもミルクを入れててホッとしたのは内緒だ。
「……なんか、アレだね。スーツ似合うね」
何気ない会話をしようと心がけてみたものの話題が浮かばず、軽い口調でこんなことしか言えなかった。褒めるならもっとちゃんと褒めたいのに、照れて言えない。
松川くんは私の褒め言葉なんて特別じゃないのか、はたまた褒められ慣れているのか分からないけれど、顔色を変えずに答えた。
「そう? 青城の制服は似合ってなかった?」
「そういう意味じゃないけどっ」
「白石さんも昼間の制服似合ってたじゃん。OLさんって感じ」
ドキッとした、というかキュンッとした。
先に褒めたのはこっちなのにさらりと褒め返されてしまい、私のほうが取り乱しそうになるなんて。
「……青城の時のは似合ってなかった?」
辛うじて、本当に辛うじて絞り出した声も松川くんの台詞をそっくりそのまま借りたものだ。松川くんは私に同じ言葉で返されるとは思っていなかったらしく、一瞬きょとんとしたけれど。すぐに小さく吹き出して、次の言葉を言った。
「似合ってましたよ?」
だめだ。お酒飲んでないのに顔が赤くなってきた。
青城は制服が可愛くて受験したので、似合っていたと言われるのは素直に嬉しい。むしろ松川くんにそう言われるなんて夢みたい。だけど本当に久しぶりなもんだから、いきなりそんなこと言われると調子が狂う。私は自分の熱を下げる意味も込めて話題を変えようとした。
「……なんの話してんの私たちっ」
「確かに」
「近況とかさ、何かないの?」
「俺は特にないかなあ。ていうか久々すぎると逆に話せないもんだね」
なんと、松川くんは特に近況報告がないのだと言う。誘ってきたのは彼なのに。となれば私がなにか話さなきゃいけないのだろうけど、あいにく私に起きた最近の事件といえば「気になる人に彼女が居た」 くらい。でもそんなこと話されても困るだろうし。高校の友だちとも最近会ってないから松川くんと共有できることがない。
「……ええと」
場繋ぎのために私が発した言葉で、松川くんは首を傾げた。
「なーに?」
素敵スーツにセットされた髪、優しく細められた目と、男性らしいごつごつした手、その太い手首にはめられた大きな腕時計。何もかもが魅力的だ。私だけ高校三年生みたいな気分。
「……なんか松川くん、大人になった」
まるで手の届かないような格好いい大人の男性になっている。コーヒー一杯奢るのもスムーズで、私に気を遣わせないようにして。もしかして今日偶然会えたのは恋の運命なんかじゃなく、私に「もっと大人になれ」という神様の思し召しなんじゃ?
松川くんはしばらく手元のコーヒーに目を落としていたけれど、やがて甘い声で言った。
「白石さんも綺麗になってるよ」
てっきり「大人になってるよ」と言い返されるものと思っていて、油断した。顔の熱が下がりかけていたのにまた一気に上がり、頭から蒸気が出そうなほどに赤面するのを感じる。昔から私は緊張したり興奮したりするとすぐ顔に出るタイプなのだ。
松川くんにも私の真っ赤な顔面がばっちり見えているのだろう、おかしそうに少し笑っている。ますます赤くなりそう。
「……そんなこと、あんまり言わないほうが良いと思う……」
「なんで?」
「だって……彼女とか居ないの?」
「居たら誘わないよ」
「でも」
松川くん、彼女居ないんだ。こんな状態でもホッとする自分がいる。でも、例え彼女が居なくたって、女性を綺麗だと褒めるなんておかしい。軽々しく口にしていい言葉じゃないはずだ。だって、そんなこと言われたらほとんどの女の子は都合よく受け取ってしまうんだから。
「勘違いしちゃうじゃん……」
好きだった人からの褒め言葉なら尚更。松川くんの顔で、松川くんの口で言われたら。教室で目が合った時の嬉しさや、話しかけられた時の心躍るような気持ちを思い出してしまいそう。
でも、今のは松川くんを困らせる一言だったかもしれない。私も松川くんも黙り込んだまま、店内のざわめきだけが耳に届く。沈黙に耐えきれなくなり、私はコーヒーのカップを持ったまま俯いた。……けれど、その上から松川くんの手が重なってきた。
「……!」
全身に鳥肌がたったような気がして、私はぎこちない動きで顔を上げた。松川くんの手は私の手を撫でるように、だけど覆うようにして包み込んでくる。なにこれ、なにこれ、なにこれ。
「俺、高校のとき好きだったんだよね。白石さんのこと」
私の手を温めながら、私の目を見つめたままの松川くんが言った。
「え……」
高校のとき好きだったのは、私のほうだ。一年の時から惹かれていて、二年になってクラスが離れて少し落ち着いて、三年でまた同じクラスになった時に気持ちがどんどん大きくなった。でも松川くんは部活が忙しそうだし、女子に人気のある及川くんとも仲が良くて近寄りがたかった。男の子版の高嶺の花っていう気がして、アピールも告白もしないまま卒業したのだ。
その松川くんが私のことを好きだったとは、どうも空耳か幻聴だとしか思えない。きっとそうだ。それなのに松川くんの声で幻聴が流れ続けた。
「超久しぶりに会ってみたら凄く綺麗だし」
「え」
「誘うしかないって思ったよね」
嘘みたいな話なのに、松川くんの手のあたたかさはリアルだった。目の前の美しい顔も本物だし、似合ってるって思っていたスーツもやっぱり本物。
未だ夢なのかと疑ってぼうっとしている私を、松川くんが現実世界へと引き戻した。私の手をコーヒーから離し、そのままぎゅっと握ってきたのである。
「ここまで言っても勘違いだと思う?」
高校生じゃない大人の手が、私の手をしっかり包んでいる。親指だけで太さが全然違う。関節の大きさも手のひらの大きさも何もかも負けている。勝っているのは体温くらいなんじゃ?
「……お酒」
「え?」
松川くんはもう一度聞き取ろうとして顔を近付けてきた。自分でも信じられないけれど、一度はお酒を断ったんだけど、どうしてもコーヒーだけで赤くなる自分が恥ずかしくって。それにこのまま手を握られて話し続けるのは、心臓がもたない。
「シラフじゃ耐えらんない……」
へなへなと骨が抜けるような声で訴えると、松川くんは思わず吹き出していた。私をこんな状態にしたのはそっちのくせに、一人だけ余裕ぶっているなんて悔しい。赤面をアルコールのせいにすれば、もう少し私も冷静に話が出来るだろうか。