愛しい二人の等しい未来
大学生になって初めての一人暮らしは、そこまで苦ではなかった。高校三年間を寮で過ごしていたから、親元から離れることへの抵抗も強くなかったし。ただ、県内ではなく東京へ進学する俺を見送る時の両親は寂しそうであった。初めて白鳥沢の寮に入った日の、母親の泣きそうな顔を思い出したものだ。
大学まで片道四十分ほどの場所にアパートを借り、新生活がスタートしてからの数ヶ月は、あっという間に過ぎ去った。新しい学友、新しい先生、新しい授業に慣れるのは、一人部屋で過ごす寂しさよりも大変だ。しかも進学したのは医学部で、分かってはいたが自由な時間を多くは取れそうもない。高校の時だってほとんど部活ばかりだったから、それ自体は構わないのだが。
部活が辛かった時も楽しかった時も、勝った時も負けた時も一緒に過ごした恋人がそばに居ないのは、思ったよりも苦痛なのだった。
『夜、時間あったら電話して』
いくつかの不在着信とともに残っていたのは、すみれからのメッセージである。
俺とすみれは別々の大学へ進学した。すみれは茨城県の大学なので遠距離恋愛とまではいかないが、朝から晩まで毎日一緒だったことを考えると相当な変化だ。
すみれは社交的な性格だから大学でも上手くやっているらしい。そのうえ自分も大変だろうに俺への連絡も欠かさず入れてくれるので、やはり精神的な要領の良さは彼女に敵わない。
今日は朝から講義があって、空いた時間に自習をして、帰りの電車内でも勉強をして、帰宅後に一息つこうとベッドに座ったら動けなくなった。結構疲れていたらしい。俺が死んだように眠っている間にすみれからの不在着信が入っていた、というわけだ。既に夜中の一時だが、果たしてすみれは起きているだろうか。
『あっ、賢二郎。お疲れ様』
電話をかけてみると、すみれはすぐに出てくれた。寝ているかどうか微妙な時間帯だったけど、声がハキハキしているのでまだ起きていたようだ。
「お疲れ。起きてた?」
『もうすぐ寝ようかなって思ってた』
「あー……悪い」
『なんで? いいよ全然』
すみれは本当に「なんで?」と思っているようだった。今からまさに寝ようとしたのを妨げてしまったのに、そんなことは問題ではないらしい。
『ねえ、明日どうする?』
そして、すぐにすみれが話を切り出した。
明日は土曜日で、俺とすみれは久しぶりに会う約束をしている。久しぶりと言っても一ヶ月にも満たないけれど、俺は明日の約束を楽しみにしていた。勉強漬けの慣れない新生活で、疲れ切った精神を癒されたいと思っているのだ。それなのにすみれがあまり乗り気ではない声で言うものだから、もしかして俺に会いたくないのでは? と眉を寄せた。
「どうするって、どういう意味?」
『いや……賢二郎、疲れてそうだからさ』
すみれは少し言いづらそうにしていたが、それが嘘でないことは分かった。驚いたのは彼女は俺が疲れていると認識している、ということだ。
『会うのやめて、家でゆっくりするほうが良いんじゃないかなって』
そして、明日は会わずに居るほうが良いのではと提案されたのも驚いた。確かに俺は疲れているけど、その疲れをすみれに気付かれているとは思わなかった。新しい環境での疲れも焦りも不安も全部、隠せていると思っていたから。
だけど、例え死にそうなほど衰弱していたとしても、すみれに会わない理由にはならない。
「……それ決めるの俺だし」
『それはそうなんだけど』
「疲れてないし余裕だし」
『そ……そう?』
本当はすごく疲れてる。明日まで待てるかどうかも分からない。今すぐすみれに触れたいし、写真を見るだけじゃ我慢できない。実物を見たい。でも、そんな弱々しいことを言えないのが俺の性格である。
「また明日な」
俺は極めて落ち着いた声を作り上げ、寝る前の最後の言葉を言った。
すみれはきっとこれにも気付いているだろう。俺がわざと冷静な振りをしていると。『楽しみだね』と返してくれた瞬間に思わず笑顔になってしまったけど、まさか表情までは見透かされていないよな。
◇
翌日のこと、待ち合わせ場所には早めに到着した。だけど三十分も一時間も早くから待っていたわけじゃない。いくら楽しみとは言え、そんなに早くから駅前に突っ立っていては怪しまれるだろうし。
「プチお久しぶり!」
すみれはオンタイムで到着した。 丁度いい電車があったようだ。
約三週間ぶりに目にする彼女は春爛漫の涼し気な服装をしていて、少し見ないうちに一気に女性らしさを増したように思えた。
「……久しぶり。慣れた? 茨城」
「んー……まだかな。賢二郎は? 友だちできた?」
「そこそこ」
友だちと呼べるほど親しくなれているかは分からないが、一応話せる人は何人か居る。すみれはきっと、もう遠くの友人を作っているのだろう。このごろ大学での出来事を話してくれる時に「ユリちゃん」という女の子が出てくるし、写真も時々送られてくるから。そしてその写真に写る女の子たちは、つい先日まで高校生だったなんて思えないほど大人びている。
すみれは周りの友人に影響されたのか、それともこれが彼女の持つ本来の魅力なのか、とにかく「女の子らしい」から「女性らしい」雰囲気に変わっているのだった。
「なんか、三週間ちょっと会ってないだけなのにすごい久しぶりな感じする」
すみれは改まって顔を直視するのが恥ずかしいのか、意味もなく街中を見渡しながら言った。
同じ気分だ。最後に会ってから数年経過したような感覚。だからすみれと同じく俺も彼女の顔を直視できない。今の俺は「こいつ、こんなに可愛かったっけ?」と戸惑っている最中なのだ。
「会いたかったなあぁ」
そんななか、すみれが俺の横にぴたりとくっついて来た。ドキッとして、付き合い始めのあの頃に戻ったような気さえする。
だけど昔の自分と来たら恋愛に関して何のスキルも無かったから、こうしてくっついていても、何をすればいいか分からなかった。幸い今の俺は、触れた彼女の手に自分の指を絡めることぐらいなら、自然な流れで成功させられた。
「……」
手を握ると、すみれも同じくらいの強さで握り返してくる。握った手の感触は前と同じで安心した。
ああ、会いたかったなあ。そう思いながらすみれの手を堪能していると、やや不満気味なすみれが顔を覗き込んできた。
「俺も会いたかった。とか言わないの?」
「俺も会いたかった」
「え。嘘くさい」
「……こう言うのはいちいち口に出すことじゃないだろ」
「出さないと伝わらないよ」
出さなくても分かってるくせに、すみれは俺の言葉を欲する。口下手な俺を理解はしてくれているが、時々こうして言葉を欲しがるのだった。今日は特別その思いが強いらしい。
「会いたかったでしょ?」
同時にぎゅうっと手を握る力が強まった。言ってよ、とでも訴えているみたいに。
会うのをやめるかという昨夜の提案を突っぱねたくらいなのだから、会いたかったに決まっている。観念して「会いたかったよ」と言うため口を開いた時、見慣れないものが目に入って息を止めた。
「……すみれ」
「なーに?」
「前髪変わってる」
すみれの雰囲気が変わっていたのは、前髪の分け目のせいだったのか。これまでは眉の高さぐらいに揃えられていたものが、右寄りの位置で分けられている。幼さが少し抜けて眉が見え、そのぶん顔が明るくなっているような。
「あっ。気付いた!? 大学にさー、すごいお洒落な子がいるの。こっちのほうが似合うよって言われて」
突然饒舌になったすみれの様子から察するに、俺が変化に気づいたことが嬉しかったのだろう。前髪を触りながらニヤニヤしているのはとても可愛い。
「どう?」
その、俺の「可愛い」も言葉にして欲しいらしく、すみれは感想を求めてきた。
可愛いし、似合ってるし、前の髪型より今のほうがずっといい。ただでさえ可愛いと思っているのに、それがパワーアップして現れたんだからたまらない。が、それと同時に嫉妬心に火がついた。
「……そのお洒落な子って、女?」
だけど決して妬いてるなんて気づかれたくは無い。なんとなく聞いてみた、そんな素振りをしながら訊ねてみると、すみれはきょとんとして答えた。
「え。うん、女の子だよ」
「ふーん」
よかった。
その、ホッとした表情すらも出さないように気を付けた。久しぶりに会った彼女が可愛くなっているんだから、俺だって同じくらい男らしく振る舞わなければ釣り合わないじゃないか?
「いんじゃね。似合ってる」
そしてようやく、この言葉を言うことが出来た。口にするまでに何回も脳内で唱えていたが。
だけど、すみれは未だにニヤニヤしていた。さっき俺が前髪の変化に気付いたことに対するニヤニヤとは違う。俺が澄ました演技をしていることに気付いたからニヤニヤしているのだ。
「ふふ。男の子だったらどうしようって思った?」
「思ってない」
「嫉妬する?」
「するか」
「ねえーってば」
さすが俺のようなあまのじゃくを二年間も扱ってきた女の子である。すみれは俺の肩に頬を擦り寄せながら(実際は公共の場なのでそこまで密着していないが、一気に距離を詰められた気がした)、周りには聞こえないような声で言った。
「一緒の時だけでいいから、素直に言ってよ」
電話の時は、顔が見えない。考えていることは思ったよりも伝わらない。おはよう、おやすみ、お疲れ様、今日はどうだった? 代わり映えしないやり取りが残り四年間、あるいは六年間続くのかと思うとたまらなく辛い時がある。本当はもっと色々聞きたくて、もっと沢山褒めたくて、もっと多くの愛を語りたいのだけど。なかなか自分からは言えない俺にすみれはいつも切っ掛けをくれる。
「……大学に変な男居ないだろうな」
「居ないよ」
「絶対?」
「絶対! たぶん。まだ皆のこと知らない」
「知らなくていいし知られなくていい」
「えっ。なんで」
すみれは憤慨しているようだった。それじゃあ友だちできないじゃん、と唇を尖らせながら。……友だちならばいくらでも作ってくれて構わないが出来れば同性だけがいい。
「すみれのことを知ったら、すみれを好きになるやつが出てくるだろ」
それだけは困るのだ。二年間俺だけを好きだった女の子が、急に現れた別の誰かに盗られてしまうのは。なぜなら、世の中の誰を見ても思うのだ。俺の心は誰よりも弱くて余裕がなくて、俺よりいい男なんかそこらじゅうに溢れているのだから。
「……そんな人出てこないよぉ」
「出るんだよ」
「ハヤシくんみたいな人?」
「そんな感じ」
「ねえねえ、そしたらどうする?」
どうしていちいちそんなことを聞くんだろう、しかも嬉しそうに? 高校二年の時、ハヤシという存在が現れた時はどうにかなりそうだった。もとはといえば俺のせいだから、そのことに関しては何も言えないのだが。俺にとっては苦い思い出のそれを、すみれは俺の反応を楽しむかのように口にした。
「……なに嬉しそうにしてんだよ」
「えー?」
「からかってるだろ」
「んー……賢二郎、私のこと大好きなんだなあって思ったから」
電話越しではない生の声が俺の耳に響く、悔しいけれど心地良い。俺はいつでもすみれのことが大好きだし、一番大事に思っているから。すみれが自意識過剰なわけではない。むしろ本人が思っている以上に好きだと思う。
毎日毎日大学で、たくさんの新しい情報を詰め込まれるのはとても大変だ。自分の部屋に帰ったらすぐ横になり、何もかも忘れて眠ってしまいたくなる。それを我慢して復習をして予習をしてとても大変だ、それはもう白鳥沢を受験した時ぐらいに。それほど疲れているのにわざわざ週末、家で休まず街中に出てくる理由なんてひとつしかない。
「……好きじゃなかったら、今日来てないっつの……」
「うんうん」
すみれはたいそう満足そうに笑っていた。医学部は想像どおりの大変さだが、だからといってすみれが楽をして大学に通っているとは思わない。疲れて疲れて仕方がない日々を過ごして、彼女もそれを癒すために今日を迎えているのだとしたら光栄だ。今朝、どんな気持ちで前髪を分けてきたのだろうと思うと、俺もようやくニヤニヤする余裕ができてきた。