平温を思い知る三秒
私に好きな人が出来たのは、クラス替えがあってすぐのことだった。
そして幸いにも、交際に発展するまでに多くの時間はかからなかった。誰かを好きになって自分からアピールしたことなんて無かったのに、今回ばかりは「彼を逃してはならない」と本能が叫んだのだ。それほど倉持洋一という男の子は輝いていて、生き生きとしており、まばたきをする瞬間でさえ見逃すのが惜しいと思えた。私の初めての彼氏。そして、最後の彼氏であってほしい。
「やべ。この宿題って今日までだっけ」
ある昼休みのこと、ご飯を食べ終えた洋一はたらりと冷や汗を流した。日本史の宿題にまだ手を付けていないらしい。そして、提出予定はこのすぐ後に行われる五限目の授業であった。
「そうだよ。やってないの?」
「うわー……忘れてた」
「プリントある?」
「どうだろな。あってくれ……あってくれよ」
どうか宿題のプリントがありますようにと唱えながら、洋一は机の中や鞄を漁り始めた。
野球部で活躍する彼がプリント一枚忘れたくらいでひどく怒られることはない……と思いたいけれど。日本史の先生はバスケ部の顧問もしているし、部活と勉強の両立には厳しいだろう。彼氏が怒られる姿なんて見たくないので一緒に「ありますように」と念じると、洋一がくしゃくしゃの紙を鞄から取り出した。
「あった!」
「おおっ」
「今からやるわ。悪いけど」
「んーん。あ、次から毎晩送ってあげようか? 次の日に提出する宿題があるかどうか」
私にしてはとてもいい提案をしたと思う。勉強に部活に自主練にと忙しい洋一に、翌日の忘れ物がないように毎日連絡をしてあげるのだ。そうすれば今日みたいに直前になって思い出して慌てる、なんてのは無くなるだろうと思ったから。
「それは……助かるけど……過保護すぎじゃね」
「だって洋一、宿題どころじゃないくらい疲れてる時あるでしょ」
「そうだけどさー」
だけど洋一はあんまり有り難そうじゃなくて、ペンを回しながらプリントの問題文を読んでいた。
私はそれが少しだけショックだった。「ほんとかよ、助かる!」という笑顔を期待していたのである。
「倉持、また白石さん困らせてんの」
そこへやって来たのは野球部の御幸くんだ。この二人は仲がいい、というか私が女ともだちといる時にはたいてい御幸くんとつるんでいる。一年生の時から、朝から晩まで切磋琢磨するチームメイト。
御幸くんは私が宿題の世話をしてあげているように見えたらしく、目を細めていた。
「うっせーな。困らせてねんだよ」
「困ってるじゃん」
「こ、困ってないよ」
「宿題忘れたんだ?」
この態度からして、彼はきちんと宿題を終えているらしい。洋一もそのことには気付いたらしく、明らかに不機嫌そうな顔をした。とはいえ洋一のコレは御幸くんに対するただのパフォーマンスであって、本気で御幸くんに嫌悪感を抱いたわけじゃない……と思う。
「世話の焼けるやつですみませんねぇ」
「てめっ覚えとけよ」
「ははっ。こえー」
そう言うと、御幸くんは私たちの横を通って自分の席に向かった。
普段から見る彼らのやり取りは、いつもこんな感じだ。だけど、もしかしたら今のは洋一のプライドが傷付いてしまったかも。御幸くんが面白がってわざと「世話の焼けるやつ」というワードを口にした可能性もある。だってほら、洋一のペンは一度もプリントの上を滑ることなく、今も手の中でくるくると回されているだけなのだ。どうやら全く集中できていない。
「……あのね、私、べつに世話焼いてるつもりじゃないからね」
「わーってる」
「今日がたまたまだもんね」
「ん」
カチカチとペンをおでこに当てる洋一、そのたびに意味もなく伸びていくシャーペンの芯。やっぱり宿題には集中していない。私のフォローも耳に届いてないのかもしれない。
「……私、過保護すぎるかな?」
ついに、ぽろりと口に出た。
宿題の有無を思い出させてあげるとか、余計なお世話なのかな。何をすれば洋一に「ありがとう」と言ってもらえるのかなぁと思ったら。そして御幸くんの言った「世話の焼けるやつ」とは、私のことも遠回しに「大袈裟」だってことなのかなぁ。なんか惨めになってきた。
「……カホゴ?」
「だってさっき洋一が」
「それはお前が毎日リマインダーみたいなことするとか言うから」
「う、うん。要らないかな」
「要らねっつの」
要らないんだ。私の手助けとか。
案を拒否されてしまった私は自然と背中が丸くなった。洋一の顔を見ていた目は白紙のプリントに落ちて、どうしよう、トイレにでも行こうかななんて考えた。だって今すごくテンション落ちちゃったんだもん。
「自分のことは自分でやりてんだよ」
洋一はあくまで私に落ち度はないと言いたいのだろう、そのように続けた。
「言っとくけど怒ってねーからな?」
「ウン……」
「不服そうな顔しやがって」
「だってさあ」
あ。不服なの、バレてた。落ち込むって言うかちょっと拗ねてるの、バレてた。誤魔化しもしないで「だって」と口にする私の、なんと可愛くないことか。洋一は私が何か言い返そうとするのを察して顔を上げた。
「私、ちょっとくらい何か役に立ちたい」
ありがとうって言われたいし、お前がいてよかったって言われたいし思われたい。付き合っていたら洋一の凄いところばっかり見えてくるから。傍から見れば御幸くんが言うように、私が洋一の世話をしているように見えるんだろうけど。全然そんなことない。
ふくれっ面の私を、洋一は呆気に取られた様子でぽかんと眺めた。その彼の目を、私はじっとりと睨み返す。まるで私が的はずれなことを言っているとでも思っていそうな目だったから。数秒のあいだその睨み合いは続いたが(彼はべつに私を睨んではいなかったけれども)、やがて洋一が肩の力を抜いた。
「すみれって、俺のことはよく見てるくせに自分のことには疎いよな」
一瞬、どういうこと? と首を傾げそうになった。でも洋一が珍しく真面目な顔で言うので、何かちゃんとした意味とか意図があるに違いない。
「お前じゅーぶん役に立ってっから」
「え」
「……わざわざ何かしなきゃって思わなくていいし?」
そこまで言ってもらってもなお、私は洋一の考えを把握しきれずにいた。だってまさか、そんなこと言ってもらえるなんて思ってなかったし。そんなこと考えてるなんて知らなかったし。私がどんなふうに役に立ってるとか、分かんないし!
だけど洋一が口をもごもごさせながらシャーペンで頭をかいたのを見て、急に恥ずかしくなってきた。だって今、もしかしなくても凄く恥ずかしいことを言われたんじゃ。
「……なんつう顔」
「そっ、それは洋一もじゃん」
「俺は普通だし」
「普通じゃない! 赤い」
「うるせー」
洋一は顔の熱を取り払うように、または気持ちを切り替えるようにして手をぶんぶんと振った。私も両手で顔をあおいで平常心を取り戻そうとした。まだ五限目・六限目と授業は続くのだ。ゆるんだ表情で受けるわけにはいかない。洋一もまだ宿題に手を付けていないので、今度こそ集中しようと深呼吸をしていた、が。
「あ」
無情にも、五限目の開始まで五分前を知らせる予鈴が鳴った。
昨夜この宿題をやったけど、とても五分で終わるようなものではない。私はさあっと血の気が引いた。洋一を見ると、ぼう然として予鈴の音を聞いていた。
「……今日は怒られるわ」
「そうだね……」
完全に今日の宿題は諦めたらしく、洋一はプリントを二つに折った。
彼は私のことを役に立っていると言ってくれたけど、今日ばかりは私が足を引っ張ってしまったかもしれない。代わりに嬉しい言葉を言ってもらえたけれど、残念ながら彼氏が先生に怒られるさまを見届けなければならなくなった。ついでに御幸くんに目をやると、声を殺して笑っていた。