病めるユニバース
幼馴染とは、この世で最も鬱陶しくて、かけがえのない生きものである。
とっくの昔に自覚していたはずなのに、その頃にはもう遅かった。気持ちを素直に伝えるには、私はあまりにも純粋さを失っていた。意地っ張りで嘘つきで可愛くない、こんな私とはきっと付き合ってはくれない。何より私たちは幼馴染だ。その関係を崩すにはもう遅い。崩したところで再構築できるとは思えなかった。
それなのに私はわざわざ幼馴染がどの高校に進学するつもりなのかを調べあげ、同じところを受験して、合格してからはや三年目を迎えている。
「すみれ、おはよう」
澤村大地は廊下で私を見つけると、ほぼ毎度のように話しかけてきた。
そりゃあ幼稚園のころから一緒なのだから、無視するほうがおかしいのだけど。一年生の時には、親しげに話す私たちを見た同級生たちがへんな噂をしていたというのに。そのうち噂はおさまって「なんだ、付き合ってないんだ」と彼らの興味の対象から外れ、今に至る。
「おはよー」
「寝不足? 顔色悪いぞ」
「あー、昨日遅くまで動画見てたんだよね。気付いたら二時だった」
「駄目だろそんなことしたら」
大地は私の不調にすぐさま気付き、生活習慣の乱れをためらいもなく指摘した。
なぜ遅い時間まで起きていたら駄目なのか、それは理解できる。だけど、なぜそれを大地に叱られなければならないのかは分からない。もっと分からないのは大地に叱られても特に嫌な気分はしないこと、そして、むしろ嬉しいと感じてしまうこと。
「大丈夫だよ。今日はちゃんと寝る」
「ほんとかよ」
「寝るってばー。親みたいなこと言わないでよね」
私はわざと「親みたい」という言葉を使って距離をとった。そうしなきゃ、大地に構われるのを心地よく感じてしまうからだ。私はとっくの前から大地を幼馴染とは思えないのに、彼はいつまで経ってもそうだから。
「澤村ー」
大地の前からさっさと去るか世間話でもしておくか迷っていると、「去っておけばよかった」と思える声が聞こえた。女子バレー部の道宮さんが、それはそれは可愛らしい声で大地の名前を呼んだのだ。
私も大地もそちらに反応し、そこで道宮さんが大地の隣に私がいることに気づいた。しかし彼女のいいところは、私の姿を見つけても特に気まずそうな様子を見せないところ。
「あっ! 白石さん、おはよう」
「オハヨ」
「澤村あのさ、こんどの大会のことなんだけど」
しかし、彼女が用があるのは私じゃない。挨拶もそこそこに本題に入ろうと大地のほうへ向き直った。そりゃあ当たり前だ。ふたりともそれぞれバレー部の主将だし。なにより道宮さんは、大地にお熱なのだった。
「……じゃあ私、教室いくね」
「え、あっ、ごめん……」
「ううん」
だって、どう考えても私が邪魔者なんだもん。最初に大地と話していたのは私なのに、って思っちゃうのが情けないんだもん。
私は道宮さんに頭を下げて、でもなるべく目は合わさないようにして、逃げるように彼らに背を向けた。大地の顔は、見ていない。
◇
「すみれ」
昼休憩のこと、トイレを済ませて教室に戻ろうとした時に低い声に呼び止められた。今でも思うことがある、大地の声はこんなにも太く低かったっけ? と。
「何?」
「何? じゃないだろ。今朝、明らかに機嫌悪くしやがって」
「だって機嫌悪いもん」
「お前なあ……」
私は機嫌が悪い。たった今、さらに悪くなった。本当は今朝、私たちのあいだに入ってきた道宮さんに嫌な気持ちになったのを隠したかったけれど、大地には気付かれていたらしい。ただし彼が気付いたのは「私の機嫌が悪くなった」ことのみで、その原因は分かっていない。それにもムカムカする。
「大地さー、悩んだりとかしないの?」
その結果、私は大地に刺々しい質問をした。大地はあまり表情を変えなかったものの、眉がぴくりと動いた。
「悩みまくってますけど」
「ほんと? 部活のこと以外でだよ?」
「進路もだし、少し痩せたい」
「それも省いて。そういうの以外」
「どういうのだよ」
私の求める答えはひとつしかない。大地には当然分からないから、まったく違う答えを連ねていく。
分かっているのだ。大地に悩みがあることくらい。悩みごとを抱えずに生きる人間なんていない。少なくとも思春期の高校生のなかには、いないはずだ。
「恋わずらいとかだよ」
ぼそっと、大地にしか聞こえないくらいの声で言ってやった。大地の前で愛だの恋だの語ったことがないもので、気恥ずかしくなったのも理由のひとつ。あとは、私の恋する相手がまさに澤村大地だからなのだけど。
さあ、これまで恋愛に興味がない素振りをしていた私が急にそんな話をしてどんなふうに思う? チラリと彼を見ると、大地は心から驚いたように目を見開いた。
「おまえ……とうとう好きなやつが出来たのか!?」
それは単にびっくりしただけじゃなく、喜んでいるようにも聞こえた。口角が上がっていたし、待ち望んでいた出来事が起きたかのような。
違う。私、そんな顔をされたくて言ったんじゃない。ていうか、そんな顔されるなんて思ってなかった。
「は……?」
「中学の時も高校に上がっても他の女子みたいにそういうので盛り上がってなかっただろ? 心配してたんだぞ俺は」
「え」
「もともと誰にでも心を許すタイプじゃなかったもんな」
話はどんどん脱線していった。大地の中ではまったく脱線していないけど、私の言いたいこと・考えていることからは外れている。
他の女子みたいに恋の話で盛り上がっていなかった? 当たり前でしょう。もしも私が「ずっと幼馴染が好きなんだけど、あいつ全然振り向いてくれなくてさー」と髪をクルクルいじりながら喋っていたとして、あんたはどうするの。
「……そうだね。心は許したくないよ」
「意固地なこと言わない。嫌われるぞ」
「誰に?」
「だから、好きなやつに」
「私のこと嫌うの?」
「嫌われるかもしれないだろ」
会話は成立していなかった。このままちぐはぐなやり取りを続けているのが一番平和なのかもしれない。もうこれまでの関係は壊れたっていい。だけど真正面から壊す勇気はわいてこなくて、今の私にできる精一杯の自己主張はこれだった。
「嫌いになるの? 大地」
これまで生きてきた十七年間のうち、一番長くまばたきを我慢した。目が乾いても、大地が首を傾げても、私はまばたきせずに彼を見つめた。
気付いてよ。気付かないならもう知らない。お願いだから分かってよ。分からないならもう一生教えない。好きになってよ。無理ならこれで諦める。
「……? ならないけど……?」
大地は質問の意味を理解しないまま答えを出した。私のことは嫌いにならない、と。今のは嫌うか嫌わないかの質問じゃなく、私の気持ちを理解したかどうかという問いかけだったのに。彼の言葉は私の心をズタズタにするのに充分な破壊力を持っていた。
「……あっそう。じゃあこのままでいい」
「おいっ」
「これが私だし。嫌うなら勝手にどうぞだし」
ぷいっと大地から顔を逸らして、私は廊下をずんずん歩いた。後ろから大地がついてくるので、戻るはずの教室を通り過ぎてそのまま大股で歩き続けた。「何に怒ってるんだよ」と、追い掛けてくる彼の声に鬱陶しさと嬉しさと悲しさを感じながら。
「大地のほうこそ、あんまり無神経だと嫌われるかもよ」
肩越しに言ってやると、大地はちょっぴり驚いたような声をあげた。意外だったのかもしれない。他人から「無神経」だと言われたのはきっと初めてなんだろう、だって大地は無神経じゃないから。私以外の人間に対しては。
「無神経かなあ。そう言うなら気をつけるよ」
だけど、大地は自らを振り返るように頭をかいた。きっと思い返しているのは私相手の言動ではなく、別のことなのだろうけど。
「ほんと、無神経……」
そのまま無神経でいてくれるのが正解で、もっとも利口だと分かっている。私だけがこれを押し殺したまま、いつか消え去るのを待ちながら過ごしていればいい。そのうち大地のことなんて何とも思わなくなって、どこかで素敵な彼氏を見つけて「大地は結婚まだなの?」って左の薬指をキラキラせて、嫌味を言ってやれる日まで。