不幸せを美化するのはもうやめにしよう
四月のこと、木兎は無事に二年生に進級できた。私は留年を決めていた、というか決まっていたので引き続き勉強とアルバイトの両立に明け暮れている。
木兎は「気にしない」と言っていたけど、お客さんに貰ったものたちは感謝しながら売却した。恐らくもう高いブランドは使わないし、やっぱり木兎に悪いなあと思ったし。ただでさえ元ホスト狂いの私と付き合ってくれているなんて有難いのだから。……と言ったら怒られるのでその話はしないけど。
「お疲れさーん」
夜八時、ペットショップでのアルバイトを終えてお店を出たところに木兎が立っていた。
彼は大学の講義や、今も続けているバレーが終わる時間が重なるとこうして迎えに来てくれている。今じゃ慣れきってしまったが、わざわざ来てくれるなんて相当手間なはずだ。あんまりそのことを有難がると、くすぐったそうにされるので言えないけれど。
「お疲れさま」
「今日はバイト忙しかった?」
「あんまり。平日だしね」
最近じゃいつも、こんな他愛ない話をしながら帰り道を歩いている。勉強もアルバイトも大変だけど楽しいし、何より行き詰まった時に相談したり愚痴れる相手がいるのは大きい。木兎のおかげでいろんなことを思い出せたし、取り戻せたようなものだった。
だから、時々私は彼にお礼をしている。アルバイト代が入ったらちょっといいご飯を食べに行ったり、テーマパークに行ったりしているのだ。
「そういえば、お給料入ったから何か食べに行く?」
「え!」
「最近外食してないじゃん」
私が言うと、木兎は期待と心配とを交互にしているようだった。私たちはお互いに一人暮らしをしているけれど、週に二度くらいはどちらかの家に泊まっている。そのたびに私がご飯を作ってて、豪華な外食とかはしていない。私自身、自分の手料理じゃなくて贅沢なものを食べたくなってきたところ。
「いく! ……いや、いいの? やべぇどうしようそんな悪いけどでも腹減った何食べる!?」
「す、素直だね」
木兎はどうも美味しいご飯に弱いみたいで、私に悪いとは思いつつも食べる気満々みたいだ
きっとお肉とかがいいんだろうな、でも焼肉は前に行ったことがあるからちょっと違うものを食べたいかも。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと飲食店の看板が目に入った。お店の前には大きな水槽があって、活きのいい魚が泳いでいる。お寿司屋さんだ。
「ね、お寿司とかどーお?」
「寿司! 高級な響き」
「回らないお寿司とか」
「やべぇ食いてえ」
「じゃあ決まりー」
私はそのお寿司屋さんに行った覚えがあった。だけど、前に誰と来たのかなんて全く思い出そうとはしなかった。単に「美味しかった」ということしか、記憶にはなかったから。
「ココ、意外と安くて美味しいんだよね」
そう言ってお店ののれんをくぐろうとした時にちょうど引き戸が開き、中から誰かが出てきた。ぶつかりそうになった私は横に避けたけど、向こうも戸の向こうにいきなり私が居たのでビクッとしていた。
「あっ、すみませ……」
驚かせてすみません。その意味で謝って、相手の顔を見上げる。相手も私の顔を見る。そして、私たちの視線は交わった。それは、かつて見つめ合ったことのある男の人の顔だった。
「おまえ……」
「!」
いつか私が好きだった人。ホストをしている流星が、たった今お店から出てきたのだ。
私を覚えている様子の彼はしばらく言葉を探していて、私も同じく何を言うか考えた。無視したっていいのだろうけど、「元気?」と声を掛けるくらいはいいような気もする。でも私の隣では、木兎が私以上にびっくりして、なんとなく警戒態勢をとっている気配がした。
「流星、だーれ?」
その時、私たちの緊張感を解いたのは意外な人物だった。
流星の後ろからひょっこりと顔を出し、私や木兎をちらちらと気にする女の子。私の知らない子だ。確かこの人、前は美麗ちゃんと付き合っていたはず。もしかして、すでに全く別の女の子と付き合っているのだろうか。またはこの子も、「彼女」だと思い込んでるだけのお客さん。流星はその子の声で我に返ると、私から目を離した。
「誰でもない。前の客」
「ほんとにぃ?」
「ほんとほんと。もう切れてるから」
なんて言いながら彼は私たちの横をすり抜け、女の子を腰を抱いて夜の闇に消えていった。
私はもう、あのひとの中では「誰でもない」らしい。でも、自然と何も感じない。だって、私の中でもあのひとは「誰でもない」と心から思えたからだ。
「……どうする?」
そんななか、ひとり緊張したままの木兎が小声で言った。私が今の彼らを見て、ショックを受けたと思っているのかもしれない。
「私は……」
確かに、全くショックじゃないと言えば嘘になるだろう。でも、痛くも痒くもないというか。ああ、今でも前と同じようなことをしてるんだ、って感じただけで。
だから全然なんともない。木兎に心配されるようなことは何もない。そんなことより私は、
「……あなたとお寿司を食べたいです」
流星の名前を出さずにそれだけ言うと、木兎は一瞬目をぱちくりとさせたけど、やがて満足そうに笑った。
「俺とのほうがゼッタイ美味しいもんなー」
「美味しそうに食べるもんね」
「俺、なんでも美味しく味わえるから」
彼はとってもお得な舌を持っているらしい。いつだって何を食べても喜んでいるから嘘ではなさそうだ。
「二人です」と店員さんに言いながらお店に入り、案内された席に座るとそこはカウンターだった。木兎は初めてのカウンターのお寿司屋さんにやや興奮していて、「これってどこから注文すんの?」とそわそわしている。そんな木兎を見るのが面白くて、ますます流星のことなんかどうでもよくなってしまった。
「なんか、自分にびっくりしちゃった」
メニューを手に取りながら発した自分の声が、思ったよりもあっけらかんとしている。それにもびっくりした。
「なにが?」
「流星のこと見ても、特に何も思わなかったから」
私が「流星」の名前を口に出したのを、木兎ははじめ複雑そうに見ていたけれど。本当に知らないうちに吹っ切れていたのを理解すると、木兎もメニューを眺めながら言った。
「でもさ、あいつも馬鹿だよな」
「ん?」
「さっき連れてた女の子より、すみれのほうが断然かわいいのにさ」
彼の目は一生懸命にメニュー表をなぞっているけれど、きっと心ではメニューなんて見ていない。声を聞けば分かることだった。こんな時に不器用な木兎の出す声は、不自然に高くて大きいのだ。しかもさっきの女の子より私のほうがかわいいなんて、私を喜ばせようとすることを。
「……それは無くない? さっきの子のほうが可愛かったよ」
「それはない」
「あるよ」
「ない!」
「あるって」
「うるせーな! 早く飲み物決めるぞ」
最終的に木兎はその話をやめて、ご飯の話題に戻ってしまった。
さっき流星が連れていた女の子は、あのひとが選ぶだけあって可愛らしい見た目だったけど。私のほうがかわいいだなんて光栄だ。木兎はなんでも美味しいと言って食べてくれるし、たとえ寝起きの私を見てもかわいいと言ってくれるから、素直に信用していいのか分かんないけど。