いくらかの恋心とプラチナの悪意
暑い暑い夏の日のこと、風通しの悪い体育館はさらに暑い。その蒸し蒸しした環境で男子バレー部は合宿を行っていた。
もちろん部員だけで合宿を乗り切れるわけではなく、各校から集まったマネージャーや、OBたちの援助もあって成り立っている。今回の合宿では新たに参加した宮城県の人も一緒だ。普段あまり都外の人と関わることは無いから、観光の話とか名物の話とかをするのは楽しい。今度、宮城にも行ってみようかなって思える。
そんな合同合宿も何日か過ぎ、みんなの疲れが出始めたころ。日が暮れてからも自主練に明け暮れていた人物に、乾いたタオルを持ってきてあげた。
「お疲れさま」
薄暗い夜の闇のなか、白いタオルが妙に光って見える。光太郎は私の声とタオルとに反応するとすぐに顔を上げた。
「んー! さんきゅ」
「烏野の人って、暑いの苦手じゃないのかな? 宮城って涼しいよね」
「さあ……」
それから、タオルで顔をごしごしと拭いた。女子なら肌を、しかも顔を強く擦るのは抵抗があるんだけど。光太郎は何も気にせず汗を拭き、だけどまたすぐに新たな汗が流れていた。結構長く練習していたらしい。
「疲れた?」
「ちょっと」
「暑かったもんね、今日」
「すみれは?」
「んー、ちょっと疲れた。私も」
部員の人ほど身体を動かしているわけじゃないけど、マネージャーもそれなりに大変だ。ご飯を作ったり洗濯をしたり、練習の用意や片付けだって参加している。おまけに慣れない場所に寝泊まりしているので、正直言って疲れは溜まっていると思う。
でも大変だとは思わない。頑張って早起きをして、身体に鞭打って動くのは、自分が生き生きしているように感じられるし。部員のみんなが少しずつ成長してるのを見るのも嬉しいし。何より合宿の時は、光太郎と夜の時間を共に出来るのだ。寝るまでの数時間だけど、普段はこんな時間まで一緒に居られないから。
光太郎も恐らくは同じことを考えていたのだろう、隣に座り込んだ私に寄りかかってきた。そのまま顔をこちらに向けて鼻を突き出してくるので、キスしたいっていう合図だと理解する。だけど今そんなに近付かれたらちょっとヤバイ。
「待って、汗かいてる」
「当たり前だろ練習してたんだから」
「違う、私がだよ。くさくない?」
「ない」
短く言い放つと、有無を言わさず彼は唇をくっつけてきた。つんと鼻をつく汗のにおい。光太郎のだ。
力任せにスパイクを放つ手は今、私の腕を優しく掴んでいた。試合中に大声で雄叫びをあげる口は、信じられないほど丁寧に私のそれと合わせられている。付き合い始めてからの二年間、光太郎には驚かされっぱなしだ。そう、もう二年も一緒に居るのに、未だに光太郎のこういうところにドキドキさせられるのだ。
「……今日はしおらしいね」
「べつにぃ」
「どうかしたの?」
普段ならもう少しあっけらかんというか、さわやかにキスをしてくるのに。今夜の彼は精神年齢が五歳ほど上がっているように思えた。いつもが子どもっぽいなんて言ったらいじけてしまうので言わないけど。
「烏野のやつが、すみれのことキレーな人ですねって言ってた」
しかし、光太郎は既にいじけていた。ぼそぼそと唇を尖らせて言う姿はまさに、拗ねている子どもである。さっきキスしている時はとても大人っぽかったのに。どうやら烏野高校の誰かが私を褒めてくれたことに、もやもやしているらしい。
「私が? キレーって?」
「から、俺の彼女って言っといた」
「え」
「早めに言っとかなきゃだろ? 誰かがすみれを好きになる前に」
時折この人は、びっくりするような独占欲を見せてくる。私だって最初のころは、他の女の子が光太郎をどう思っているのか気になって仕方なかったけど。私たちの交際は同学年の人にほとんど知られているし、最近じゃあまり嫉妬することもなくなった。光太郎が誰かに嫉妬するのも聞かなくなった。
だから、初めて会った宮城の男子バレー部の人たちに対して敵対心を抱くのが、少し新鮮に見える。
「好きになんてならないよ、誰も」
「んなわけねーだろ」
「それを言ったら、烏野の女の子だって光太郎のこと好きになっちゃうかも」
「なられても困る」
私は先日、初めて烏野のマネージャーの子を見た時とても見惚れてしまったというのに。光太郎からすれば、あの美しい清水さんや華奢で可愛らしい谷地さんでさえも、思いを寄せられたら困ると言う。そこまで言ってくれるからこそ私は安心だけど、私だって他の男の子がどれだけ魅力的だったとしても、目移りする予定なんて無い。
「心配しなくていいじゃん。合宿中は、毎晩こうやってくっつけるんだから」
今度は私から光太郎の肩に頭を乗せてみる。続けて両手を彼の身体に回し、存分に安心しておいてね、という気持ちを送る。光太郎も私の頬に顔を擦り寄せてきたけど、まだちょっぴり不服のようだ。
「くっつくだけじゃ物足りねえけど……」
それはこっちだって同じなんだけど。と答える前に、光太郎は再び私の口を塞いできた。今夜はよっぽど疲れたのかもしれない。
私も身体は疲れていたけれど、目の前の恋人に集中し切っていた。今は夜だし、他の人は夕食かお風呂のはずだし、人目を気にせずキスできることなんてそうそう無いし。だから、道に迷った男の子が近付いていることには、全然気付かなかった。
「木兎さん!」
「わーっ!!」
私は思わず叫んでしまった。光太郎の大きな背中を見つけたらしい日向くんが、声をかけてきたのだ。しかし隣に私も居て、おまけにキスなんかしてる最中だったもんだから、日向くんは顔を真っ赤にして深々と頭を下げた。
「……すんませんお邪魔しました」
「日向! 悪い! びっくりした?」
「しししししっして、してます」
「進行形」
あまり見られたことへの危機感は無さそうな光太郎だけど、日向くんが戸惑っているので一応気を遣っている。迂闊だった。森然高校はいつくかの体育館や校舎が渡り廊下で繋がっているので、光太郎と落ち合っているココは見つかりにくいと思ったのだが。日向くんがあまりにぺこぺこするので、私は申し訳なくなった。
「ごめん……へんなとこ見せた」
「ぜ、全然です! あんま見えてません! 唇とかキスしてたのとか!」
「ギャーッ」
「ははは、見られたかあ」
やっぱりガッツリ見られてた。恥ずかしさのあまり頭が破裂しそうだけど、光太郎は全く気にしていない様子で笑ってる。その余裕はどこから来るんだか。キスしてる時の顔なんて、絶対見られたくないんだけど。
「すみません、俺、どっちに戻ったらいいか分からなくなって」
「あー……森然って広いもんな。風呂?」
「はい」
「あっちあっち。アレがさっきまで居た第三体育館だから。逆だよ」
彼は迷子になってしまったらしく、寝泊まりする場所や食堂などとは全く別の方向に来ていたようだ。光太郎が珍しく分かりやすい道案内をすると、日向くんは「ほんとだ! あっちだ」と納得した。
「ほんと、お邪魔しました……」
「こちらこそ……」
「黒尾に言うなよ!」
「わ、わかりました」
最後に光太郎が黒尾くんへ情報を漏らすのを口止めし、日向くんはまたぺこぺこしてから去っていった。なんか申し訳ない。
「……見られちゃったね」
「うん。まあ大丈夫だろ」
「そりゃそうだけど」
「でも日向はあんまり害が無さそうだからなー」
「どういうこと?」
日向くんに害がないのは分かる。あの子はどの分野においても誰にも害をなさない男の子だろう。だから光太郎の言う意味がよく分からなかったのだけど。
「もっと危険っぽいヤツに見せつけたかった」
これを聞いた時、やっぱりまだ誰かに嫉妬しているのだと理解した。嫉妬というかライバル視というか。私のことを「キレー」と褒めてくれたのは、少なくとも日向くんではないようだ。
そんなふうに私を独占したいと思ってくれるのは嬉しいし、照れるし有難いけれども。「見せつける目的ならもうしないよ」と叱ってみせると、「それは困る!」と慌てていた。もっと自信を持ってくれてもいいのになあ、光太郎以外の人を「いいな」と思ったことなんて無いんだから。