サニティ イン ヴァニティ
みずみずしくて気持ちのいい朝。今日は珍しく練習が休みだ。と言うのも昨日までハードな遠征だったので、丸一日身体を休める日が設けられている。素直に一日をゆっくり過ごす者も居れば、一日だって休んでいられないのか体育館を使用する者も。俺はどちらが正解だなんて思わない。休むのは大切だし、休まないのも大切だ。
そんな俺はどうするのかと聞かれると、今日は監督の言葉に甘えて体を休める日にしている。それに、大事な予定だって入っているから。
『着いた』
携帯に届いたメッセージは彼女からのものだった。今日は初めて学校の外でデートをする日。付き合って間もない俺たちは、教室や食堂でしか互いの時間を共有できていない。まだまだ俺は恋人である白石の事を知らない。もっと知りたい。他の誰にも負けないくらいに。
「賢二郎、すみれもう寮の前に居るってよ」
それなのに、俺の彼女を「すみれ」と呼び捨てる男はすぐそばに居た。川西太一だ。
「知ってる。さっきメールきた」
「あ。賢二郎にも送ってたんだ」
賢二郎にも送ってたんだ、ってそれは当たり前だろ。俺が彼氏なんだから。
だけど俺は、太一と白石との間に入り込む事が出来ない。なぜなら彼らは幼馴染で、俺が白石と仲良くなれたのは太一の存在のおかげだから。しかし白石は未だに練習試合の応援に来る時や、今日みたいに俺に会いに来る時、俺だけでなく太一にも連絡を寄越している。癖なのだろうか。もしかして太一が白石に連絡を強要していたり?
と、大事な友人に余計な感情を持ってしまう。これだけが唯一苦しいところである。俺の見る限り白石は太一をなんとも思っていないけど、太一は白石の事を「幼馴染」としては見ていないように思えるからだ。
「お待たせ」
「ううん!待ってない」
外に出ると、すぐ分かる場所に白石は立っていた。
そんな所に居たら俺が来るまでにも他の寮生と鉢合わせてしまうだろ。だけど、自分がそんな小さな心の持ち主だと思われるのは嫌だ。この気持ちは言葉に出さず堪えた。そして俺が精神統一を図っている間に、白石はまじまじと俺の姿を観察していた。
「白布、私服フツーだね」
「それ褒めてんの?」
「はは。うん、褒めてる褒めてる」
白石の中で「フツー」ってのは褒めてる部類に入るらしい。確かに俺も自分の服装はとても普通で無難だと思っている。それに比べて初めて見る白石の私服と言ったら、とても「フツー」とは言い表せない姿であった。これが俺の彼女。「川西太一の幼馴染」ではない。「俺の彼女」だ。
「…白石の私服は、かわいいよ」
俺は惜しげなく白石にその言葉を発した。可愛い彼女を褒めるのは当たり前だし、この言葉を口に出来るのは恋人である俺の特権だと思えた。異性の幼馴染は容易に「可愛い」とは言わない。言えないだろう。あいつには。白石は突然の褒め言葉に髪を耳にかけたり、また戻したりと動揺していた。
「ナニソレ、え、ナニソレ」
「可愛い」
「えっ」
滅多に白石を「可愛い」とは言わない俺だけど、先ほどの太一とのやり取りのお陰で俺の恋心スイッチが押されたようだ。白石の恋心は俺で、俺にしか見せない顔があり、可愛いだの好きだのと言えるのは世界で俺ひとり。それを実感するために、俺が無理やり作ったスイッチだ。
「やだぁ…可愛いとか、太一にもあんまり言われないからさ。慣れないな」
それなのに、白石は俺の気なんて全く知らずこんな事を言った。
「…なんでそこで太一が出てくる?」
「え。だって小さい時は、」
「俺はお前らが小さい時のことなんか知らない」
二人で会う時、必ずと言っていいほど川西太一の名前は出てくる。俺が出す時もあれば白石がその名を発する時も。だけど今は違うだろ。自分でも驚くほど、一瞬にしてその場の空気が凍りついた。
「……えっと…ごめん」
白石は俺が何を怒っているのか分からないようではあったが、とにかく自分の発言が俺の気分を害したのだと感じ取ったらしい。「可愛い」と言われ照れていた表情から一変、目を伏せてしまった。こんな顔をさせたかったわけじゃないのに。せっかく会えているんだから、笑った顔を見たいのに。俺の短気はなかなか直りそうもない。
「…ごめん。俺が悪い」
「え?そんな」
「俺なんだよ」
俺が白石を好きになり、太一の気持ちにも気付いてしまい、それでも付き合う事を選んだくせに余計な事を考えてしまう。太一は、俺に気付かれている事なんて知らないのだろう。知っていたとしても、それを俺に悟らせようとはしないだろう。俺たちはとても良い友人関係にあるからだ。
それでも俺が太一を意識してしまうのは、太一と白石にしか知りえない昔の記憶がある事。小学校や中学校での出来事。そして白石が未だに太一の事は名前で呼び、俺の事は「白布」と呼び続けている事である。
「付き合う時にも言ったけど…私、ほんとに太一とは何も無いからね。好きなのは白布だから、」
彼女の言葉がそこで止まってしまったのは、俺が勢いよく腕を引いたせい。人目に付く寮から離れ、敷地外ではなく校舎の方へ白石を誘導する。そちらのほうが祝日の今日は人が少ないから。
何故人が少ないほうが良いのかと言うと、俺が女の子をどこかに押し付けている姿なんて、誰にも見せたくないからだ。
「じゃあ俺の事も名前で呼んで」
恋人の事を苗字で呼ぶか名前で呼ぶか、それは付き合っていれば自然に切り替わって行くのだろうけど。それを待つ事は出来なかった。もしも白石が太一の幼馴染でなければ待てていたかも知れない。好きな子を誰も居ない校舎の壁まで追いやって、みっともない注文をつける事も無かっただろう。
「……けんじろう…」
「そう」
「賢二郎」
「まだ」
「え。け、賢二郎?」
「足りない」
太一の事を「太一」と呼んだ数だけ俺を「賢二郎」と呼んで欲しい、冷静に考えれば馬鹿な要望である。
白石は何度か俺を下の名前で呼び、俺はその都度返事をした。けれど、ある時、ただ返事をするだけでは我慢ならなくなった。
「すみれ」
「え、」
俺も白石を「すみれ」のほうで呼びたくなってしまったのだ。
急に名前を呼ばれた白石は身震いしたように見えた。が、実際に彼女が身震いをしたのかどうかまでは分からない。それを確認する前に俺は目を閉じて、白石も恐らく目を閉じた。
同時に触れ合った唇はこれまで何度も思ったけれど柔らかく、 熱くて、舌の動きは少しだけぎこちない。まだ自分から舌を動かすのは慣れていないようだった。
「…っ、しら、ぶ」
「賢二郎」
「け、ん…」
言いようのない支配欲と言うか独占欲と言うか、かつての自分には無かったもので頭がいっぱいだ。ゆっくり目を開けるといつの間にか彼女の持っていた鞄は地面に落ちており、白かったはずのワンピースが壁に擦れて汚れていた。
「……ッど、どうしたの急に」
「急じゃないよ。ずっと思ってたから」
「なにを…」
「そんなもん言えるか」
太一がお前を好きで、俺は太一と自分とを比べてしまっている事。これを言ったら全てはおしまいだ。少なくとも前者は言えない。
「…言えないよ。ぜってー言えない」
俺はただ勝手に太一にこんな気持ちを抱いているだけで、太一は何も悪くない。そりゃあ時々、白石の事で差を感じて苛々する事もあるけれど。それは太一の気持ちを白石にバラしてもいい理由にはならない。
「…しら…、賢二郎…?」
黙り込む俺を白石が呼んだ。下の名前で。
「太一に嫉妬してるの」
そして、質問しているのか確信しているのか分からないような口調で言った。
「……そうだけど…そうじゃない」
「じゃあ…?」
「言えない」
言えないけど、白石が好き。白石を手放したくないけど、川西太一という友人は失いたくない。
最も優先すべきものが何なのか全く分からなくて、目の前に居る白石に全部の力を注いだ。ぎゅうっと抱きしめた白石の身体は細くて、なのに柔らかくて、自分とは違う性なのだと実感する。髪からいつもと違う匂いがするのはスプレーか何かだろうか。俺に会うために、普段とは違う手間を加えて用意をしてくれたという事か。
「私、賢二郎のこと好きだよ。一番好き」
白石の息が俺の首に吹きかけられた。好きって言葉、何度言われても気持ちがいい。だけど今日はもう一声欲しい。
「太一よりも?」
こんな質問、張り倒されるか引かれるかのどちらかだろうな。それでも聞きたかった。太一よりも好きだよと。でも望んだ言葉は返って来なかった。
「太一は比べる対象じゃない」
代わりに予想もしなかった嬉しい言葉。それを言われた瞬間に、身体に少しの圧迫感を感じた。白石が俺の背中に手を回して、強く抱いたのだと理解できた。「ありがとう」と言った俺の声は掠れていて、泣きそうな声してんなぁとちょっぴり萎えた。
「なんか変な感じだね。白布が弱々しいなんて」
「…賢二郎って呼べっつったろ」
「ぶっ。前言撤回、弱々しくない」
白石はさっき戸惑っていたのが嘘みたいに吹き出した。悪かったな。俺は弱いところを見られるのが嫌なのだ。白石もそれを分かってくれているのか、今度は白石が俺の腕を引っ張った。
「そろそろ行こう!気になるパンケーキのお店があるんだぁ」
明るい声でそう言って、裏門のほうに歩いて行こうとする。が、俺がその場に突っ立って動かないせいで、白石の足もピタリと止まる。
「…賢二郎?」
「もうちょっと」
今日は腕の引っ張り合いだな。なんて思いつつ、俺はまた白石を自分のほうへ引き寄せる。今度は素直に身を任せ、白石が大人しく腕の中に入ってきた。
「もうちょっと俺の事、特別だって分からせてよ」
俺が喋ると白石の前髪がふわりと浮いた。またいつもと違ういい匂い。白石は抱きしめられたまま顔を上げてくすりと笑った。
「我儘なの、珍しい」
「悪かったな」
「怒らないで。嬉しいよ」
それから白石は目を閉じた。俺も視界を遮断して、唇で感じる白石の体温と気持ちに応えていく。今初めて気づいたけれど唇からもいつもと違う味がする。なんとなく甘いような、ふわりと香る匂いも添えて。
「好き。賢二郎」
俺も好きだよすみれ、と言うのは声に出したかキスで伝えたのかよく覚えていない。
もしかして白石も分かっているのかも知れないな。分かった上で俺の告白を受けたのかも知れない。幼馴染が自分に対してどう思っているのか。そして太一にも今までどおりに連絡を続ける事が、俺と太一が仲違いしにくいようにしているのかも。分からないけど、そんな気がした。