08
世界の終わりへ出かけましょう



その日はすぐに侑くんと解散した。どうせ帰る家は近いのだから同じ電車で帰れば良かったんだけど、そのあいだどのような顔で居れば良いのか分からなかった。私は友だちの家に行くという嘘を吐いて侑くんと別れたのだ。家に呼んでくれる友だちなんて居ないんだけど。


「故障してん」


カッコ悪いやろ、と侑くんは笑っていた。目は全然笑えていなかったが、私は気付かないふりをした。
私と同じように彼にも言いたくない事があるんだろうし、故障したスポーツ選手が自殺をしたり立ち直れなくなったりする事もあると聞く。彼の故障は治る余地があるのか一生治らないのか分からないけど、何も聞かない方がいいと思えた。


「おは…、ももか?来れたんや」


日曜をはさんで月曜日、私が出勤すると店のボーイは驚いていた。「来れたんや」というのは、その傷でよく出勤してきたなという意味。
ただでさえ稼ぎ時の土曜日に殴られて早退してしまったので土曜の給料は無いし、早退は罰金で次回の給料からいくらか引かれてしまう。当日欠勤や遅刻、無断欠勤も然り。


「来るに決まってるやん。当欠は罰金やろ」
「そうやけど。顔えぐいなあ」
「……」


自分でも鏡を見るたびにびっくりする。よくもまあ女の顔を拳で殴るやつが居たもんだ。あの時は私も頭に血がのぼって、アドレナリンが出ていたので痛みはそこまで感じなかったけど。
侑くんに手当をされてから今も相当痛い。売り物に傷をつけるなんてどういう神経してるんだ。


「でもそういうのが好きな男も居てるからな」
「…やろな。頭おかしいんちゃう」
「お客様の事は悪く言わない」
「そんなん思てへんくせに」


店に来る人達の事を「お客様」などという大層な存在だと思った事は無い。この人を相手にすれば何円、次の人で何円、今日の給料はいくらで、そのうちいくらがお父さんの借金に充てられるのか、そればっかりであった。

私たちは見た目が良ければ万々歳、たとえ外見が悪くても「身体に触る事ができる」事さえクリアすれば商品として成り立っている。
そんな中、もう顔も覚えていない母親はとんでもない美人だったらしく(だから駆け落ちしたのだろうか)、私はその遺伝子を受け継いでいる。自分の顔がそんなにいいものだと思った事はないけど。中学の時も高校の時もあまり友達はいなかったし、学校が終わればすぐに帰って家の手伝いをしていたし。


「…その顔、どしたん?」


お客さんの声で我に返った。気付けばすでに個室の中で、私は何人か目の男性を相手にしている。その人は私の顔を見て気の毒そうに言った。


「ボーっとしてたら転んでん。めっちゃイタイ」
「うわあ、かわいそ」


可哀想という感想は恐らく本音なんだろうけど、同時に興奮しているのかもしれない。スーツのジャケットをハンガーにかけ、下半身は知らない間に丸出しで、面積の少ない衣裳を着た私にぎゅうと抱き着いてくる。やからイタイって言うてるやん、顔だけやなくて身体も殴られたんやっつーの。

でもお客さんに向かってそんな言葉を発するわけにはいかないし、この傷の原因はこの人には関係のない事だし。
さっき話した内容では、家に居る奥さんが冷たいとか会社の上司のプレッシャーがとか、この人もこの人なりの何かを抱えてるんだなあと思うと乱暴には扱えなかった。これまでは誰を相手にしても適当だったのに。
侑くんが、故障してスポーツを辞めたなんて言うから。自分だけが不幸なのではなく、皆どこかに嫌なものを抱えてるんだなと分かってしまったから。

男性は私を抱きしめるのに満足したらしく、身体を離して今度は私の頬に口づけた。ちょうど殴られた痣のある位置だ。
傷跡を舐めるのが好きなのか、何度かちろちろと舌を這わせてだんだん身体のほうへ下がってくる。そして見つけた私の腕の傷、今はテーピングが巻かれている箇所を舐めようとした。


「ちょ、待って」
「え」


思わずお客さんを引き剥がそうとしてしまい、驚いた彼は怒るというより心配そうに動きを止めた。


「これは…このまんまにして欲しいねん。猫に引っかかれて…傷、イタイから」
「そうなん?大丈夫?」
「うん」
「ほんならソコは触らんとくわな」


ここは触って欲しくない。侑くんが手当してくれた場所だ。侑くんの手で巻かれたものだから。ほかの人に触られるのは何だか嫌だった、汚される気がして。


「…うん。触らんとって」


私のお願いを、その人はすんなりと受け入れてくれた。
風俗に来るお客さんなんかマトモじゃない・適当に扱っておけばいいという無神経さを、どこかに捨ててきてしまったらしい。それからの1時間、約束どおりに腕のテーピングに触れなかったお客さんを見て不思議な気分になってしまった。





その人との時間を終えたあとも何事もなく過ぎて、帰るために私服への着替えを行った。
服に腕を通すときに痛むけど、恐らく侑くんが過去に負った怪我に比べれば大したこと無いのだろうと思う。
身体に侑くんからの手当を受けたせいだろうか、こんなに彼のことを考えてしまうのは。着替えを終えてロッカールームを出ながらそんなことを考えていると、誰かの声が耳に入った。


「あんまりそういう事されるんは、困るんですけど…」


いつも受付で電話を受けたり、送りの車を手配している店のボーイの声だった。今も誰かと電話をしているらしいが、喋っている内容はあまり良い事では無さそうだ。
ボーイの後ろ姿を見ながら立ち止まっていると、さらに電話は続いた。


「顔に傷が入るんはちょっと…あなたにお金返すんも遅なりますやん?」


私のことだ。そして電話の相手はあの時私を殴った男。咄嗟にボーイからは姿が見えないように陰に隠れて聞き耳をたてた。
ほらみろ、やっぱり顔を殴るのは困るんじゃないか。稼げなくなったら借金だってなかなか返せない、私からお金を回収できなくて困るのは自分やんか、ざまあみろ。と、鼻を鳴らしたくなった時。


「…あ、返し終わってるんですか?」


次に聞こえてきた言葉でまわりの空気が冷たくなるのを感じた。身体が固まって息が吸えなくなったけれど、声が出てしまわないように両手で口を覆い隠す。

お父さんのお金、もう返済終わってるの?いつ?じゃあ今日とか、昨日とか先週とか、何も知らされずにずっと働いていたのは?前回もらった給料だって返済分が引かれていた。あの時の返済が最後?じゃ、ない。たぶん。きっと。


「いつから…はあ…うわ…いや、分かってます言いませんけど」


いずれバレるんと違いますか、と心配そうに言うボーイの背中は丸まっていた。いま知ったわクソッタレ、お前の後ろにおんねんぞ。その背中、蹴り飛ばしてやろうか。

…という反抗的ないつもの私は出てこなかった。もうここで働かなくていいのに働いてたんだ。私が気付くまでずっと働かせる予定なんだ。しかも給料から不正にお金を引いて、私がどこか遠い場所に逃げ出す余裕すら与えないように。

ふらふらと後ずさりして、かろうじて鞄を取り落とすこと無く音を立てずに店を出た。
エレベーターのボタン、押しても来ない。早くここから離れたい。非常階段を駆け下りながら取り出した携帯電話の、まだ一度も通話したことのない相手の名前を探し出す。だって今、私が助けを求められそうな相手はこの人しかいないのだ。


「侑くん…」


宮侑、と登録された名前を押して電話を発信する。しかしいくら鳴らしても応答がない。


「…出ろやアホ」


階段を下りきって道に出ると、夜の宗右衛門町は大いに賑わっていた。こんなところじゃまともに通話できやしない。
でも電話に出てくれやな私、どうなるか知らんで。変な気起こすなって言うたのアンタやろが。


「出ろ!!」


もう我慢できない。画面に出ている「宮侑」の文字に向かって怒鳴りつけた瞬間に、「発信中」から「通話中」へと切り替わった。


『もしもし?』
「!」


とっさに電話を耳に当てると、間違いなく侑くんの声が聞こえてきた。大学生のくせに悪ノリしない、やけに落ち着いた男の声。


「………」
『もし?…ももこで合ってるやんな?』
「わ、…私」


私はこの声に何を求めていたんだっけ。なんでもいいからとにかく助けて欲しかったんだっけ。

でも何から説明すればいいのか、そもそもこれは侑くんに全くの無関係だ。お父さんが借金をしたのは事実で、お父さんが居なくなって、代わりに私がお金を返していただけのことで。だから風俗なんかで働いていて、そこで偶然出会っただけの彼に私は何を話せばいいのか。
こんなこと普通の人に話したら絶対に引かれる。侑くんが私を見る目は絶対に変わってしまう。


「ごめん、やっぱ何でもないわ」
『は?』


そこで初めて侑くんの声が冷静さを欠いたけど、私は無理やり電話を切った。侑くんに電話をしたのは間違いだった。言えるわけないこんなの。


「ごめん…」


侑くんからのコールバックが来ているのを拒否して、携帯電話の電源を切った。
もう全部どうでもいい。全部から逃げたい。家の中に閉じこもって一生を終えたい。何も考えずに。