06
ふしあわせを数えるの



ももこへ、お父さんより。


最早これが父親の筆跡なのかどうか分からないが、家に残されていた手紙は今でも保管されている。
我が家はとても貧乏で、小さいころから娯楽なんてひとつも無かった。母親は私が物心つく前に他界したと聞く。父母ともに駆け落ちだったので親戚は居ない。私の戸籍はしっかりとあるので探そうと思えば探せるのだろうけど、きっと対面したところでプラス要素は望めない。


ごめんなさい。


手紙の最後、というか最初から最後まで謝罪の言葉しか書かれていないのだが、ひょろひょろの字でそのように書かれていた。

支援金を貰いながらなんとか通っていた高校の、3年目を間もなく終えて卒業しようとしていたころにこの手紙は机の上に置かれていた。手紙の上にはぶら下がった足、なんて事になっていたらドラマみたいなんだけど。そのような事は無く、家の中はいたって普通で、ただ父親の姿が忽然と消えているのみだった。


「しっかりやってるか?」


ちょうど接客を終えたところで控室に戻った時、世界で一番聞きたくない声が聞こえてくる。居なくなった父親にお金を貸していたという金融会社の男が椅子に座っていて、私の携帯電話を触っていた。


「…触らんとってくれる」
「なんやねんその言いぐさ、せっかく仕事紹介したったのに」
「うるさい」


と、私が彼に対してこのような態度をとるのはいつもの事だった。
出会った時から反抗的だった理由はただひとつ、逃げた父親の代わりに私が働いて返せと出合い頭に言われたからだ。高校卒業間近、大学に行くのは難しいとしてもしっかり働いて普通の未来を歩もうと思っていたのに。


「そろそろ1年か?お前ほんまに不運やったなあ」
「いいねん。お金返したらさっさと辞めたるわ、こんな事」
「俺の紹介が無かったらこんな良い仕事なんか見つからんかったやろ?」


良い仕事だなんて思ったことは無い。最初の頃は毎日毎日吐き気と戦っていたし、慣れた今でも仕事中とそうでない時の切り替えに必死だ。
それでも彼の言うとおり、こんな仕事でもなければ私が親のお金を返していく事なんか出来なかった。


「…なあ。お父さんのお金、あとなんぼ返したらええの?」


2週間ごとに訪れる給料日、私の手元にやってくるお金からは既に返済分が引かれていた。高卒で風俗なんかで働く私は残念ながら世間知らずで、もらっている給料明細が法的に問題ないのかどうかすら分からない。その返済額が正しいのかどうかすらも、分からないのだ。


「なんぼ?さあ。詳しい事は事務所行かな分からんわ」


それでも自分が1日何人のお客さんについて、お客さんが指名料をいくら払って、そのバックが自分へいくら入ってくるのか、そのくらいは分かっている。


「私やってアホと違うねん、自分が何人相手にしてるかぐらい計算してんで」
「で?」
「あんたのせいで今まで何回汚いもん触った思とんねん、ほんまはもう返し終わってんと違うの?」


最後の一言はほんの皮肉で言い放ったものだった、詳しい額も何もかも、何度聞いても「今は分からない」の一点張りでうんざりしていたのだ。


「はあ?」


しかし今日の彼は機嫌が悪かったのか、はたまた私の言い方がいつもより生意気だったのか。思い切り苛ついた彼は乱暴に立ち上がると、椅子がガランと転げるのも気にせずに、19歳の私の頬を張り飛ばした。


「……ったぁ」
「あんたのせい?俺のせいと違うやろ?お前の親父のせいちゃうんか?」


頬、思いっきり殴られた。拳じゃないのにじんじんする、頭がくらくらする。
こいつ本気で殴りやがったな、と切れた唇の端を抑えながら睨みつけると、今度は胸ぐらを掴まれた。あ、やばい怒らせたと思った時にはもう遅い。


「その顔なあ、たまたまキレーな顔立ちやったから活かせる場所選んでやってんねんぞ」
「いっ、たい」
「ブスやったらもっと酷い店飛ばすとこやったんやで、今からでも飛田行かしたろか?」
「いだっ、い、っや」


色んなところをを殴られた、それはもう色んなところ。最後に思い切り突き飛ばされてよろけた私は机の角に腕をぶつけて、がりっと右腕に傷が入ってしまった。


「次そんな事言いよったらほんまにシバくで」
「………」


今、充分しばいたくせに。怒りとか驚きとか恐怖とか色んなものが頭の中を回って、言葉が出てこない。たった今机の角で抉られた腕からは血がぽたぽたと流れていた。


「こいつ今日もう帰らせろや、客の前出しても萎えるやろ」
「え…はあ…はい」


店の若い男にそう告げると、そいつは倒した椅子を起こそうともせずに出て行った。

あのようにして、彼は私が元々父親と住んでいた家もぐちゃぐちゃにした記憶がある。
そりゃあ、勝手に借金を作ったお父さんの事は今でも許していない。けど、居なくなる前日まではとっても良いお父さんだった。お金がなくても楽しかったし、高校を出たら私も就職して働いて、いつか良い人と出会って結婚して、お父さんに一緒にバージンロードを歩かせてあげたいなあとか、思っていたのに。


「…帰る?」


気まずそうに一部始終を眺めていたボーイが言った。


「当たり前やろ」
「この時間、送り無いけど…」
「電車で帰るわ」


その顔で?と言いたげだったけど、それなら力ずくで止めに入れと言う気持ちを込めて睨み返すと彼は黙っていた。
服を着替えてロッカーに入れていた鞄を引っ掴み、「あれ、ももかちゃん?」と心配そうに声をかけてくる店の女の子を無視して、私はドアを蹴り開けた。このドアがあいつだったらいいのにと思いながら。


「…ほんま、ぶっ殺したんねん」


そんな勇気は出てこないしきっとそんな事はしないんだろうけど。絶対絶対ぶっ殺してやる、と時々考えてしまうのだった。

店と同じ通り沿いに大きなドンキホーテがあり、ふらふらとそこに立ち寄ると周りの人はぎょっとしていた。唇やら腕から血を流しているんだから当然だ。とりあえずこれらを消毒するものと、傷を隠すためのコンシーラーか何かを買わなくてはならない。

でも消毒液なんてどれが良いのかさっぱり分からなくて、傷だって包帯が良いのか湿布で良いのかも分からない。結局なにも手に取らないままふらふらと店内を歩いていると、背中から声がした。


「……ももこ…か?」


男の人だけど、嫌な声じゃない。ゆっくり振り向いてみれば周りよりもひと回り大きな男が立って、驚いた様子で私を見下ろしていた。


「…侑くん……」
「合ってるやんな?びびった」


侑くんが何に対してびっくりしたのかは分からない。色んな要素があり過ぎる。私も何故侑くんがここに居るのかと聞きたかったけど、別の声に遮られてしまった。


「侑ー、たこ焼き器安いんあったで」
「あー…」


少し向こうの陳列棚から別の男の子の声がした。侑くんは一瞬ちらりとそちらを見てからもう一度、私のほうへ向き直る。


「ちょお待っといて」
「え」
「ええからそこで」


そして私にここで待機するよう指示すると、呼ばれたほうへ歩いて行った。ぽかんとして彼の背中を眺めていると、侑くんと誰かの会話が聞こえてきた。


「侑ー?」
「それでええわ、それ買って行っといて」
「え?侑、タコパは?」
「不参加で」
「はあ!?お前目当ての子おんのに」
「治目当てやろ。すまんけど用事できた」


なんでやねんと慌てる男の子をなだめるためか、侑くんの「ゴメン、ゴメンって」と謝る声が聞こえる。やがてそれは聞こえなくなったので、説得できたようだ。
そして、ぼんやりそれらの会話を聞いていた私のところへ侑くんが大股で戻ってきた。


「…ほんで?」
「え…」


どうして侑くんが友人との予定を差し置いて戻ってきたのか?「ほんで?」とは私に何を聞きたがっているのか。そして私はどこからどう説明すれば良いのやら。
答えが見つからなくて黙り込んでいると、侑くんは大きな溜息をついた。


「はあ…何やねんもう。とりあえずコレ付けーや」


背負っていた大きなリュックサックをごそごそ漁り、中から出てきたのはマスクの袋だった。そこから一枚のマスクを引っ張り出して私に押し付け、「付けろ」と顎で指図される。これはつまり、マスクでせめて顔の傷は隠しておけということか。


「行くで」


傷に当たらないようにゆっくりマスクを装着すると、侑くんは傷ついていないほうの私の手を引いて歩き始めた。