05
センチメンタル・エイド



大学に行きたくて行ってるわけじゃないなんて、そんな言葉が出たのは自分でも驚きだ。

通っている大学の事をつまらないとは思わない。将来の為に必要な事を学べている非常に有意義な場所である。と、思いたい。思えない。
治を見る時以外は考えないようにしてきた事だったが、ももこの姿は自然と俺の本音を引き出した。何を言っても無理やり突っ込んでくる事はないだろうと思えたからかもしれない。


『19歳の宮治選手、素晴らしい活躍でした』


テレビでは東京オリンピックの出場を目指す治の姿が映っており、昨夜の国際試合で勝利に貢献したという事で朝のニュースに出演させられていた。眠そうな顔だ。


『やはり東京オリンピックを目指しているんでしょうか?』
『そうですね…』
『そのための大きな一歩になりましたね、今の喜びは誰に伝えたいでしょうか』


アナウンサーからのお決まりの質問を受け、治はちらりとカメラに目をやった。その後すぐ気まずそうに視線を下げる。メディアの前で堂々とするのが苦手なのは昔からだ。

双子の治が一番に感謝を伝えたい相手、なにがあってもすぐに連絡を寄越す相手は間違いなく俺である。
昨夜試合に勝利した後「観た?勝った」と、たったそれだけのメッセージが入っていた。俺は試合を最初から最後までテレビで観たし、きちんと返信をした。「おう、凄いやん」と。


『一番はやはり侑さんですか』
『んー…やっぱ親ですかね』


当たり触りの無い回答をして、治はその場を乗り切っていた。
治にこんな気まずい思いをさせている罪悪感から逃れるために、テレビの電源を落とす。そろそろ家を出なければ授業に間に合わない。このニュースを大学のやつらが観ていませんように。


「治くん凄かったやんかあ!」


しかし、学校の敷地に入るやいなや俺の周りには人だかりができてしまった。
俺がバレーボール日本代表である宮治との双子である事は既に知られている。稲荷崎から同じ大学に進んだやつが広めたのだろうとは思うけど。


「治くんめっちゃカッコよかったやん、オリンピック出たら応援行くわ」
「おー、ありがとう」
「こっちで試合ないんかなあ」
「どやろな」
「聞いといてくれん?府民体育館とかやったら応援行けるから」
「うん」


国際試合や実業団の試合は時々、大阪の体育館にて行われる。大阪市内のわりと中心部なので、応援に行くには便利な場所だ。

治から近日中の予定は聞いていないが、俺も出来るなら直接観にいきたい。なるべく大学のやつらを誘わずに。…そんな事を言ったらきっと、大学では一番の仲良しである鈴木は悲しむだろうなあ。と思っていたらちょうど鈴木がやって来た。


「侑、おはよ」
「ん」
「朝から人気者やなあ」
「人気なんは治やろ」


俺に寄ってくる奴らはもちろん友達ではあるけれど、双子の兄弟である治への興味が強い。
治は有望なバレーボール選手、かたや俺はただの大学生。昔はそこまで離れていなかった実力、比べられる事なんて無かったが今は大違いである。ああまた大きな溜息が出そうだ、そのための息を吸いそうになった時に鈴木が言った。


「ていうかな、お願いがあんねん」
「何」
「ミナミついてきてくれん?」
「はあ?」


溜息を吐くための息は疑問の声を出すのに使われた。ミナミはこの間行った風俗店がある町だ。あの周辺の雰囲気はあまり好きじゃない。


「あの店に学生証忘れてきてもうた…」
「アホやろ」
「そう言わんと」
「いや、ひとりで行ったらええやん」
「あんなとこ一人で歩かれへんわ」


ゼミのノートを見せてくれ、と頼み込んでくる時以上に鈴木は頭を下げてきた。
風俗に行ったのを知るのは恐らく俺だけなので、ほかの奴に「ついて来て」と頼むのは気が引けるのだろう。大学生がひとりでウロつくには確かに勇気の要る場所だ。
どうして学生証なんか忘れてくるんだ、コピーを取られた後で受け取り忘れたか?


「……今夜?」


未だに顔の前で両手を合わす鈴木に聞くと、彼は激しく頷いた。


「今夜。メシ奢る!」
「はあ…」


別にそこまで言ってないが、奢るというなら素直に奢られようではないか。
店の前まで行って鈴木が学生証を受け取るまでは恐らく数分間、そのくらいならビルの前にあったコンビニで時間を潰せばいい。晩飯は何を奢ってもらおうか。





全ての講義を受けた後、約束どおりに電車を乗り継いで難波までやって来た。ここに来るまでの地下鉄はいつの時間帯も、どの曜日も混みあっているのであまり乗りたくないのだが。

難波駅で降りてから歩いて5分ほど、賑やかな道頓堀ではやっぱり外国人観光客でごった返している。
その人混みをかき分けて、再びネオンの輝く夜の街へとやって来た。
カラオケや居酒屋の呼び込みは減り、キャバクラや風俗の案内所に立つ黒服の男達が必死に客を集めている。はあ、やっぱり苦手だ。


「はよしてやー」
「おう」
「そこのコンビニ入っとくから」
「ん!」


やっと目的のビルに到着し、鈴木はエレベーターに乗り込んで行った。
それを見届けてから向かいのビル1階にあるコンビニに行こうか、と振り向いた時だ。何やら口論する声が聞こえてきたのは。


「ちょおあかんって、離して」
「ええやん?1時間だけ」


あ、関わらないほうが良いやつだ。
一瞬にしてそう思えたのに、俺の行動は模範的ではなかったと思う。声のする方向、エレベーターホールの奥にある非常階段へと足を進めた。聞こえてきた口論の、女のほうの声に聞き覚えがあったから。


「店の外で会うんは禁止やねん」
「皆してるで、ミカちゃんもアイちゃんも」
「嘘言わんといて」
「3万なら給料より高いやろ?1時間3万あげるわ」
「やめてえや!」


1時間3万円という破格の交渉をするサラリーマンを突き飛ばしたのは、紛れもないももか…じゃなくてももこであった。
ももこはかなりの強さで男を押したらしく、体勢を崩したそいつは近くに居た俺に思い切りぶつかってきた。


「うおっ?」
「オッサン何してんの?」


相手は大人の男とはいえ、身長は俺のほうが高い。さらに自分で言うのもなんだけど柄は悪いほうだ。そんな俺に見下ろされた男は最初こそ驚いていたものの、俺が子どもだと分かった途端に咳払いで落ち着きを取り戻そうとした。


「何やねんお前?店のボーイちゃうやんな」
「はあ、通りがかりの大学生です」
「ほんならあっち行けや」


と、声を荒らげる男の向こうではももこがぽかんと口を開けてこちらを見ている。アンタこんな所で何してんの、ってところか。俺だって来る予定なんか無かったし、こんな気色の悪い会話など聞きたくなかった。


「いつまでおんねん、自分関係ないやろ」
「関係ありませんけど。買春の証人にはなれますわなあ」


1時間3万円で、何をしようとしたのかは聞かなくても分かる。もちろん俺の証言だけで明確な証拠にはならないので、握りしめていた携帯電話を顔の横で振って見せた。


「オッサン身分証のコピー取られてるやろ?顔写真付きの。この動画と店側のコピーがあったらアウトやで、あんた」


まあ動画なんて撮ってないのだが、ハッタリとしては充分な効果があったらしい。俺の言葉を聞いた瞬間にそいつは顔色が変わった。


「……誰やねん」
「通りがかりの大学生や言うてるやろ」


俺はきちんと自分の身分を答えたが、最後まで言い終える前に男は逃げ去ってしまった。
どうせならしっかりヒーローを演じてみたかったのだが仕方ない。居なくなった男の足音が聞こえなくなったところで、突っ立っている被害者の女に声をかけてみた。


「もっと本気で嫌がったら?」


ももこは居心地悪そうに唸り、俺とは目を合わせなかった。このビルの中には働いている店だってあるし、表はまだ人通りも多い。大声で助けを呼べば何とかなりそうなものだが。
俺は別に責めているわけでは無かったが、ももこは未だにばつの悪そうな顔で言った。


「…お客さんやもん。」
「客やからって何でも許すん、どうかと思うけどな」


そのように伝えたところで、エレベーターの到着する音がした。鈴木が4階から降りてきたようだ。


「侑ー、おまた…ってお前何しとんねん」
「何も。帰ろ」
「お!?お、おう」


ももこは黙り込んだままだったが、去り際になんとなく「アリガトウ」と口を動かしたかに見えた。はっきり言えよそういう台詞は、と呆れつつも俺が頷くのみで返すと、ももこは非常階段を登っていった。


「…今のってももかちゃん?」


カンカンカンと階段を登る音を聞きながら、鈴木が言った。


「せやなあ」
「仲ええの!?」
「いやいや」


仲がいいとか悪いとか、そういう関係じゃないし。たまたま風俗で俺と1時間を過ごし、たまたま家が近所なだけの女の子である。そして今、たまたま気まずい現場に遭遇した。
俺と彼女のあいだにはそれ以上の繋がりは無い、と思う。