04
どこか遠い夜明けまで



「知らん奴にそんなんされて、嫌なんちゃうの」


侑くんにそのように言われた時はよく分からなかった。何も考えていないから、我慢も何もない。でもふとした時に思い出すのは初めてあのお店に連れていかれたときの事で、今日からこんな仕事をさせられるのかと思うと信じられなかった。

しかし、そんなのはお客さんである侑くんには関係のない事である。
だからやっぱり「仕事中は何も考えない」と答えたけど、果たして信じてくれたかどうか。侑くんのような普通の人からすれば理解しがたい事だろうから。

あの侑くんという大学生は夜のお店に全く興味が無いと言っていた。偶然近くに住んでいるらしいけど、もうお店で会う事はないだろう。
どこの大学なのか聞き忘れてしまったけど、住んでいる場所からして大体の候補は挙げられる。恐らく他の場所で会う可能性は少ない。彼の遊び場が店の周辺でない限りは。


「なあなあ、日払いチョーダイ?」


ある日の営業終了後に聞こえて来たのは上記のような台詞で、同じお店で働く別の女の子のものだった。
彼女の言う「日払いチョーダイ」はその日に働いたぶんの給料のうち、いくらかを即日支払してほしいという意味だ。給料日よりも前に給料を得る事が出来るので良いかもしれないけど、もちろん給料日に貰える額はそのぶん減る。


「もう?一昨日給料日やったやん」
「家賃払って服買ったら無くなってもうてん、携帯停まってまうわ」
「服買う前に携帯払えや」
「携帯会社は待ってくれるけどお、服屋は待ってくれんやん」
「待たすな」
「待つほうが悪いんやもん」


…という彼女は携帯電話の料金滞納は当たり前のようで、なんだかなあと思う。一昨日のお給料だって本当に家賃と洋服代で消えたのか怪しいけれど私には関係ないので、私は黙ってそれらを聞き流す。
店のボーイは呆れつつも金庫から5,000円札を取り出して、その女の子に手渡した。


「ももかは日払い要る?」
「いらんよ」
「やんなあ、聞いてみただけ」


私がこうやって日払いの制度を使わずに、2週間ごとの給料日にまとめて受け取っている理由はいくつかある。
ひとつはまとめて大きなお金を受け取る方がお得な感じがする、というごく一般的な理由から。もうひとつは、例え日払いを貰ったとしても使い道が無いからだ。
そして店のボーイが「聞いてみただけ」と言ったのは、私にお金の使い道が無い事を知っているからである。


「ももかちゃんっていっつも何にお金つこてるん?貯金?借金?」
「内緒やし」
「なんで、1年も一緒に働いとんのに全然心開いてくれんやん」
「そんなん言われても…」


だって会話を広げようとしても、この子はいつも男の話しかしないのだ。私と話をしたって彼女は楽しめないだろう。キャンキャン声が苦手なボーイは金庫の鍵を閉めながら言った。


「ももかには色々あんねん。分かったらソレ持って周防町行けや」
「うわっ!アンタなんで私が周防町のホスト行ってるん知ってんの?」
「バレバレや」


呆れたボーイに追い出された女の子は、「お疲れ様でしたー」と軽やかにお店を出ていった。

この時間でも周辺のホストクラブは絶賛営業中である。風営法には関係なく。
「周防町」は道の名前で、飲食店が多く並ぶ通りのひとつだ。そこにお気に入りのホストが居ることは、控え室で楽しそうに話すのが聞こえるから皆が知っている。私には関係ないんだけど。興味もないし、興味があっても私が行く事はない。


「ももかはホスト通いなんか無理やもんなあ」
「ウン。」
「まー恨むんなら自分の親やな」
「…べつに恨んでへんし」


ホストに行けない事なんか、親のせいにしたこと無い。普通の19歳のように大学に行ったりお洒落なカフェとか居酒屋でアルバイトをする事なく、風俗点で働いている事も。親が悪いと思ってはいない。
一切恨んだことが無いのかと聞かれると、即答出来ないけれど。


「あ、送りの車きたで」


ドライバーからの電話が鳴り、ビルの下に車が着いたらしいので私も今日は退勤した。今ごろさっきの女の子はシャンパンでも卸しているのだろうか。一瞬で大きなお金が消えてしまうのに。私にはそんな使い方できない。





もう外はうっすら明るくなっている。時計を見れば5時になっていた。
普段は家まで真っ直ぐ送ってもらうけど、お腹が空いてしまったので家から一番近いコンビニで降ろしてもらい、何かを買って帰ることにした。

ところがコンビニに足を踏み入れた途端、ぴたりと足が止まった。こんな時間に会うとは思わなかった人物が、中をうろついているではないか?


「…なんでおんの?」
「なんで言われても」


なんと侑くんがヨーグルトの陳列されている場所に立っていたのだ。あまりに驚いたので、挨拶もなしに質問をぶつけてしまった。


「俺んちの近所のコンビニ、無くなってもーてん。こっち来るしか無いやん」
「そっか…フーン」


侑くんの家から二番目に近かったコンビニがここらしい。大阪は比較的コンビニが多いとはいえ、行き慣れた場所が無くなるのは不便である。
メイクが万全ではなく、明らかに仕事帰りの私を見た侑くんは感心したように言った。


「こんな時間までお疲れやなあ」
「べつに…侑くんこそ遅いやん。何してんの」
「俺は今起きたとこやで」
「はっや!」
「そうか?」


大した事ないで、と言う彼の様子からして早起きはいつもの事らしい。それにしたって5時頃に起きるなんて、早朝バイトでもしているのだろうか。見たところそんな感じじゃない。

侑くんの服装を見てみるとポケットから出ているイヤホンのコードを首にかけており、靴はランニングシューズを履いている。やっぱりバイトじゃなさそうだ。


「もしかして朝、走っとんの?」
「おう」
「うわあ…健康的」
「身体が勝手に起きるからな」
「ふうん…」


勝手に起きるからって、今は金曜日の営業終了後。つまり土曜日の朝5時だ。そんな時間にしっかり起きて運動までしているなんて、いわゆるリア充というものじゃないか。大学でスポーツ系のサークルでも入っているのだろうか。


「大学たのしい?」


何気なく聞いてみた質問に、侑くんはしばらく黙り込んでしまった。


「…別に。楽しないで」
「そうなん?」
「行きたくて行ってるわけちゃうし」
「……」


侑くんは顔を曇らせたように見えた。これ以上は聞かないほうが良さそうだ。何の問題もなく生きているように見える大学生でも、人に聞かれたくない悩みのひとつやふたつ持っているという事か。


「色々あんねんな」
「せやねん。察してくれてアリガトウ」
「侑くんもな」
「そうやっけ?」


とぼけているけど、恐らく彼も私への質問をキリのいいところで止めている。先日、答えにくいと感じた事を突っ込んでこなかったのは気のせいじゃないと思う。


「ほなまたね。えーと…ももかちゃん?」
「あー…うん。ごめんな、それ店の名前やねん」
「うん?」
「仕事の時以外は忘れたいから。ももこって覚えてほしいんやけど」


侑くんは付き合いで店に来ただけの、ただの大学生。本名を教えたところで何ら差し支えは無いだろう。
それに上記の言葉どおり、仕事以外のときは仕事のことはなるべく考えたくない。特に侑くんのような普通の人と居る時には思い出したくないのである。


「…ももこちゃん。わかった」
「チャンも要らんで」
「ももこ?」
「ん。」
「ふーん。覚えてたら次からそうするわ」


そう言うと、侑くんはやっとお目当てのヨーグルトを手に取ってレジに並んだ。私も小腹を満たすため、同じくヨーグルトとかパンを買って彼の後に並ぶ。この時間、私と侑くん以外に客は居ないようだった。


「じゃ」
「うっす」


コンビニからは家が反対方向のようで、侑くんは東方向へと歩いて行った。彼の背中が眩しく見えた理由はきっと、ちょうど朝日が昇ってきたせいだろう。