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ここはまだ地獄じゃない



顔が痛いし身体も痛いし、なにもかも嫌だしどうでもいい。ただゆっくりと眠って、最悪の場合目が覚めなくてもいい。
そんな気持ちで文字どおり死んだように眠っていたけれど、あいにく勝手に目は覚めた。

もともと出勤予定だった今日、はじめて無断で欠勤した私には当然お店からの着信履歴が残っていた。
でももう、どうでもいいんだ。お父さんの借りていたお金は返し終わっている、それを知らされないまま働いて、もらったお給料のうち毎月いくらかを返済分として渡していた。
きちんと金額を調べようとしなかった私だって悪いのだと思う。けど、あまりにも信じがたい事実に言葉も出ない。こんな事誰にも話せない。相談できる友達なんか居やしないのだ。


『生きてんの?』


店からの着信や連絡以外にきていた唯一のメッセージが、侑くんからのものであった。私が眠っているあいだに電話も来ていたらしく、何度かの不在着信のあとに一通だけ『生きてんの?』と来ている。

生きてるけど。死んだも同然だ。侑くんはふつうの大学生だし、たった一度お店に来たお客さんである。面倒な事に巻き込んではならない。それなのに私が一度取り乱して電話してしまったおかげで、彼を混乱させる事になってしまったのだ。


『生きてるよ』


私には何の問題もないのでどうか気にせずに居てくれと、遅めの返信を行った。
そして携帯電話をベッドに投げたとき、同時にバイブレーションが鳴り響く。またお店からの電話か、または金融会社からの電話かもしれない。
恐る恐る画面を見ると表示されたのはそのどちらでもなく、たった今メッセージを返した男からだった。


「もしもし…」
『遅いねんけど』


応答した途端に侑くんの、明らかに余裕のなさそうな声で余裕のない言葉。私に急ぎの用事でもあったのだろうか。でも心当たりはない。


「あ、侑くん?」
『俺の電話無視する女なんかそうそう居てないぞ』
「な…え?」
『お前、店逃げ出したんやって?』


私は言葉に詰まってしまい、侑くんも何も言わず、彼の歩いている足音だけがじゃりじゃりと聞こえてきた。侑くんが知るはずのない情報。一体どこで仕入れてきたのだ。


「……なんでそれ知って…」
『今どこおんねん』


侑くんは私の言葉を遮った。彼の強気な言葉のせいで最悪のパターンが頭に浮かぶ。私の居場所を聞くのは何故?誰かに頼まれたとか?


「…なに?私のこと探してるん?あそこに戻す気?」
『ああ?逆やアホ!場所教えろ』


ところが侑くんは更に強く、吠えるように言った。教えるまで絶対に切るなと命じられ、意味が分からないと思いつつも家に居ることを告げる。と、「そっち行く」と侑くんが乱暴に電話を切った。





侑くんは私の家の場所までは知らない。それに、まだ彼が誰かに言われて私の居場所を捜しているのではという疑いは晴れていなかったので、住宅街の中にある公演を指定した。

夜の公園は誰も居なくて、街灯だけが不気味に光っている。時折ちかちか点滅して安定しない街灯でさえ、見えてしまった。侑くんの顔が、最後に会った時と違うという事が。


「…どしたん、それ」


現れた侑くんはムスッとしていた。私がなかなか電話に出なかったせいもあるかも知れない。または顔に出来た立派な傷の痛みを耐えているせいで、ムスッとしているように見えたのかも。
とにかく侑くんは驚くことに殴られたような傷があり、乱暴に血を拭ったような形跡があった。


「喧嘩。」
「喧嘩て…どこで…誰と、ていうかあんた喧嘩するような人ちゃうやん」
「喧嘩ぐらいするわ」


侑くんは未だに不服そうな様子で、でも私への距離を一歩詰めた。おかげで更に鮮明に見える顔。まだうっすらと鼻血が出ているようにも見える。それを鬱陶しそうにすすりながら、侑くんが言った。


「お前、もうあの店クビらしいで」
「…え?」


目が点になるとはまさにこの事かと思う。侑くんがどこかで誰かと喧嘩して、こんな傷を負いましたというのを目の当たりにしただけでも驚きだというのに。
私が働いていたお店をクビになったという事を、なぜ当人である私よりも早く知っているのか。そしてなぜ侑くんが私に報告するのか。瞬きを繰り返す私から目を離し、侑くんはポケットを漁った。


「言質とったわ。録音しててん、賢いやろ?」


取り出されたのは侑くんの携帯電話で、流されたのは何かを録音していた音声だった。誰かと誰かの言い合う声とか、何かが壊れるような音が流れている。その声の主の両方ともを私は知っている。


「……それ…」


私はかすれた声しか出てこなかったけど、侑くんは顔を上げて携帯電話をポケットに仕舞い込んだ。

再生されたものから聞こえきた最後の声は「もうええわ、あいつはクビ」という台詞。でも、もうあそこで働かなくていいと言う解放感は出て来ない。とてつもなく恐ろしい事が起きたのだと知ってしまったから。


「…わたしのせいで殴られたん?」
「ちゃう」
「違わへん」
「ちゃうわ」


頑なに否定する姿はもう、肯定でしかない。なぜだか分からないけど侑くんが私のお店まで来て、そこで全部を知って、私のせいで殴られた。


「俺がひとりでやった事やし」


と言って、口内で出血したと思われる血を乱暴に吐いた。
今、もう目の前まで来ている侑くんは顔はもちろんの事、着ている服も乱れていて、一体どれくらい暴れ回ったのか分からない。
お父さんにお金を貸していたあの人は歳は中年だけれども、今まで散々喧嘩をしてきた悪人みたいな人だ。侑くんのほうが背が高いとはいえ、殴り合いになったらどちらも大怪我しそうなのに。


「…なんでそんな無茶すんの」
「自分でも分からん。カッとなってもうた」


ふらふらと歩きながら、侑くんは側にあるベンチへ腰を下ろした。「いてて」と顔が歪んでいる、きっと腰もどこかで打ったのだろう。


「……あほちゃう」
「アホにアホ言われんのだけは御免やな」


侑くんは呆れたように、力なく笑ってみせた。


「…ほんまにアホや」


赤の他人同然の、私の何に心動かされたのか知らないけれど。侑くんが私のせいで怪我をした。もうお役御免やん、フリーダムやな、と地面にうずくまる私の頭をぐしゃぐしゃ掻き回す。なんでだ。私の境遇をたまたま聞いて同情してしまったのか。


「…なあ、お前。家族おらんの」


私がひとしきり涙を流した後、侑くんが言った。


「おらんよ。あの人らに聞いたん?」
「ウン…まあ」


お金のことだけでなく、お母さんは早くに死んで、お父さんは蒸発してしまった事も知っているらしい。


「俺も今、ひとりやねん」


ぽつりと言う侑くんの言葉に、思わず顔を上げた。まさか侑くんも身寄りなく一人だったと言うのか。


「え…侑くんも…家族、おらんの」
「や、家族は元気やで。ひとり暮らしやからっちゅう意味」


言い方悪かったわ、と侑くんが苦笑いした。でも私は「なんだ良かった」と思った、侑くんにはちゃんと家族が居るのだ。


「けどなあ、暇やねん。大学行っとう間以外はな」
「……」


大学に行っている他は暇である事なんて、聞く人が聞けば贅沢な話かも知れない。でも侑くんにとっては違うのだろう。その暇な時間、本当なら「故障して辞めた」というスポーツをしたかったのかも知れないから。


「お前、俺んトコこおへん?」


侑くんは、単に暇だから私を誘ったわけではない。そんなの分かっているし充分に伝わってくるけれど、彼があまりにも言いにくそうに言うもんだから気付かないふりをした。

私は果たして侑くんの「暇」を埋められるのだろうか。私が行っても邪魔ではないのだろうか。そんなことが頭を過ぎりつつも暫くは、お詫びとお礼の言葉しか出て来そうにない。