09
アンタレスを撃て



昨夜のこと、突然変な電話が来た。無言電話とか非通知ではない。発信番号の表示はあったし、画面にはついこの間番号交換をした相手の名前が表示されていた。でも変だった。


「何してんねん…」


昨日から何度か電話をかけ直してみるも応答が無く、電源が切られていたり呼び出し音だけが延々と流れたりしていた。

普通の神経を持つ人間が風俗で働くわけなんか無い。言っちゃ悪いが精神的に問題があったり、会話が通じないような変な女が多いんじゃないか、という先入観を俺は持っている。
ももこは確かに初対面の時から普通では無かったが、それでも昨夜の電話はいつにも増して様子がおかしかった。


『生きてんの?』


縁起の悪い質問だなとは思いつつも、メッセージを送信してみる。既読にはならない。さてどうするか、頭をぐしゃぐしゃ掻いていると別の相手から電話が来た。


「おう、俺」
『おー。試合みた?』
「……あ。今日やっけ」
『愛が無いなあ』


治からの電話でやっとテレビの電源を入れると、先ほど終えたばかりのバレーボールの試合ハイライトが流れていた。治の試合は特別な事が無い限り必ずリアルタイムで観ていたのに、他の事に気を取られて忘れていた。


「あー、すまん…勝ってるやん」
『そ。ぼちぼち大阪行くわ』
「マジ?実家泊まるんか?」
『微妙やなあ… ホテル取ってくれる言うてるし。顔は出そ思うけど、泊まりはせんかもな』


関東でバレーボールをしている治が関西に戻ってくるのを、親は楽しみに待っている。しかし大阪から兵庫に行くのもあまり簡単じゃあ無いし、チームメイトと過ごしたり練習したりするんだろうし。


『ひさびさ飯でも食いにいこ』
「おー…」
『…お前なんか別の事考えとんな』
「あ?ああ」
『何』


治はああ見えて勘が鋭い。双子の俺の事だから余計に気付くのかもしれない、俺の様子がおかしい事に。


「よー分からんけど…女の子と連絡つかんなった」
『ざまあみろやん』
「いやいや笑い事ちゃうくて」
『ほー』


どうやら治は少し時間があるようなので、ここ最近の出来事を手短に話すことにした。友人にはなかなか言えないようなことでも治には包み隠さず言えてしまうのだ。
ももこと出会って何度か会話をし、この間怪我をしていた事や、昨日おかしな電話が来た事も。そしてその電話を一方的に切られてからというもの、連絡がつかなくなってしまった事。


「…って感じの子がおんねん」
『お前ほんまに風俗行って何もしてへんのか?』
「してへん言うてるやろ」
『堅いなあ』
「しばくぞ」


問題はそこじゃないというのに、やっぱり男はそれが気になってしまうのか。今話したいのは、ももこに何か起きたんじゃないかという事だ。また怪我をしたとか、客に襲われたとか何か。


『急に連絡取れんなるのってビビるやろ?』


俺が黙り込んでしまうと、治は静かにこう言った。


「…なに?」
『いやだから、ビビるやろって』
「当たり前やん」
『俺もビビったなあ、誰かさんが急に家出しよった時は』


わざとらしく話す昔話の「誰かさん」とは俺のことである。俺は一度だけ家出をした。家どころか、この世界の全部から逃げようとした事がある。


「…お前やったらせえへんかったか?」
『それは分からん』


高校三年生の春高バレーを終えた頃、俺は大きな怪我をした。命に別状はないと言われたって安心出来るわけも無く。選手として続けていくには難しいと言われた時に、俺は一度死んだようなものだった。


『あん時の侑はなあ、何考えとんのか分からんかったわ。死ぬんちゃうかなって思った』
「死ぬ予定やったわ」
『嘘つけ』
「うっさいな!途中で勇気が無くなったんじゃ」
『お決まりか』


一人前のバレーボール選手にもなれず、だからといって自分で自分の命を断つ勇気も無く、今でも時々途方に暮れる。
小学生の時から早起きをして続けたバレーのおかげで、俺は朝になると勝手に目が覚めてしまうのだ。起きたってすることも無く、行く場所も無いのに。

それを思い知らされた静かな朝には「やっぱりあの時死んでも良かった」と思ってしまう、しかしやはり勇気は無い。


『けど、その子にそういう勇気があったらヤバイでなあ』


ぴたりと息が止まったのは、治の言ったこの一言のせい。


「…なんでそれを今言う」
『お?』
「切るわ」
『お?おお、オイ突っ走るなや』
「じゃ!」


俺はももこの事をよく知らない。本当は脳天気な女なのかも知れないし、死ぬなんてことは考えないポジティブなやつかも知れないが、俺が知る限りそんなふうには見えなかった。怪我だらけの顔でふらふらとひとりで歩く姿を思い出すと、彼女に何かがあった時に助けてやれる人間なんか存在していないんじゃ?と感じる。だとしたら今日の電話、俺に何らかの助けを求めていたのだろうか?





電話をしてもメッセージを送っても一向に繋がらない。そうなれば俺が来る場所はここしか無かった。ももこの働く風俗店だ。


「いらっしゃいませー」


見覚えのある男が受付で俺を出迎える。こいつは俺のことなんか覚えていなさそうだ。


「ももか…さん、居てますか」
「ももか?すみません、今日休みでして」
「やすみ…」
「他の子でもよかったら」


そう言って男は、初めてここに来た時のように何人かの女の子のリストを見せた。


「…や、いいです。大丈夫です」


ここへ性欲処理をしに来たわけじゃない。「またどうぞ」と言う男に背を向け諦めて帰ろうとした時、ちょうど店に入ってきた誰かとぶつかった。


「うわ」
「あ、ごめんな」
「いや…すんません」


その相手は俺が見てもわかるくらい良いスーツを着た中年の男で、明らかに客では無さそうだ。経営者か何かだろうか。
ぶつかった事を互いに詫びて、エレベーターを使って一階に降りようと俺はボタンを押そうとした。


「ももこ、おらんなったって?」


が、それと同時に聞こえてきた会話のおかげで俺の手は止まった。ももこの名前が聞こえてきたからだ。しかも店で使う名前ではなく本名のほうが。
エレベーターの前からそっと離れて、店の中からは見えないように入口へと近付いていく。会話はどんどん漏れてきた。


「そうなんですよ、飛んだかもしれません」
「なんでやねん。俺が殴ったからか?」


暑くなんかないのに、額から何かが垂れてきた。冷や汗だ。あの傷はもしかしてこの男が負わせたのだろうか。


「いや殴ったんはたぶん大丈夫なんですけど。電話、聞かれてもうたかも…」


続いて気になったのは「電話」という単語で、一体どんな内容かは知らないがももこに聞かれたらまずい事を電話で話していたという。
そもそも従業員の女ごときに聞かれたらまずい事って、どんな内容だ。まだ俺が盗み聞きしていることに気づかない彼らは溜息を吐きながら話を続けていく。


「…探します?」
「しょーもな。ええわあんなガキ」
「え、ほんまですか」
「いずれ飛ぶやろ思ってたからな。まあ借金は全部返してもろてるし」


また気になるワード。ももこが誰かに借金をしていた?けど、もう返し終わっているなら問題ないのか?全く話が見えなくて、もう少し何か情報が出てこないかと身を乗り出しかけた時。


「あんな顔で接客なんか出来ひんやろ?何発殴ったか覚えてへんもん」


ぴりっと一瞬だけ古傷に痛みが走ったのは俺が変な体勢で聞いていたからじゃなく、ももこを殴ったという言葉に脳や身体が反応してしまったからだと思われる。
そして俺は治が心配していたように突っ走るタイプの人間だ。後先考えずに行動してしまうのは高校生の時に卒業したはずだが、人間そう簡単に変われるもんじゃない。
気づいた時には隠れていた身体を全てさらけ出して、再び店の入口に立っていた。


「…誰やお前?」


当然、さっきぶつかったばかりの大学生がまだこんな所に居ることは不思議だろう。それに俺はどう見ても「風俗を楽しみに来ました」という表情では無い。倍以上も歳の離れたスーツの男の前に立ち、敵意むき出しで睨みつけているような俺が客だなんて誰も思わないだろう。


「お前がやったんか?」


借金がどうとか、そのへんの事情は何も知らない。俺にはどうしようもない過去の事である。でもあの時会ったももこの数々の打撲は俺が手当をした、関係ないとは言わせない。誰が与えた傷なのかを知る権利くらいはあるはずだ。


「年上に向かってオマエ呼ばわりかい」
「お前がやったんかって言うてんねん。いま全部聞いたぞ」


俺はまた選択を誤ったかも知れないが、もしも何かあったら後で治に謝ればいい。ももことも連絡はつかないけれど、それもひとまず後回し。

だからこういう場所に来るのは嫌なのだ。社会の汚いものとか、普段見て見ぬふりされているものを目の当たりにさせられる。よく知らないがももこもきっと何かの被害者なのだ。俺の前で未だに笑う男を見れば分かることだった。


「お前ひとりが暴れて解決すんのか?」
「暴れへんよりマシやと思いますけど」


少なくとも俺は頭がすっきりするだろう、何も聞かなかった振りをして帰るよりはずっと。
また治に馬鹿だの何だの言われるなあと思いながら久しぶりに歯を食いしばると、すぐに血の味が滲んだ。