07


「お前、重いよ」


同じ大学に通う彼は冷たい声で言った。私は自分の気持ちが重いなんて感じたこともなかったのに。ただ彼の好きな人は私で、私達は何の障害もなくこのまま付き合って結婚するもんだと思っていたのに。


「もう別れよ。無理」


冗談みたいに軽々しく聞こえるその台詞は、彼の声とは裏腹にずしんと私の頭に響いた。


「何が駄目だったの?教えてくれたら直すから、別れたくないよ…」


だって別れてしまったら、私は何を支えとして頑張ればいいのか分からない。毎日大学へ通うのが苦じゃなかったのは彼に会えるからだし、アルバイトを頑張るのはデートのため。料理を頑張るのはお弁当を褒めてもらうため。
でもそのお弁当が彼の胃袋に入ることがなかったなんて、途中まで全く気付かなかった。


「それが重いんだよ。もうお前の友達とヤッちゃったし。あいつと付き合うから」


すがりつく私の手を簡単に払うと彼は歩き始めた、私の友達のところへ。その時目が合った彼女は私のことを感情の無い目で見ていたけれど、ほんの少しだけ目を細めたのが分かった。

二人で笑っていたんだなあ、私のことを。これまで私が貸したお金はあの子とのデートで消えていたのかな。すぐに二人は学校を辞め、聞くところによると彼女が妊娠したらしい。詳しく聞いてみれば妊娠の時期は、私が彼と付き合い始めた頃だった。
それを知った時に私の頭に浮かんだ言葉はたったひとつ。


「こんなもんか…」


一人暮らしの家に帰れば考え事ばかりで駄目になってしまいそう。とにかく何かに集中して気を紛らわせたい。遺書でも書いてどこかに飛び込むのもありかも知れない。

ふらふらと歩いていたら、目の前で突然明るい声が聞こえた。


「何してんの、お姉さん?」


顔を上げると、見たこともない整った顔でまるで、芸能人みたいな男が居た。そんな格好いい人が、泣き腫らしてぐしゃぐしゃの私に声をかけるとは何事か?


「やな事あったの?話聞こっか?」


しかし彼はすぐに私の様子を察知して、このように言った。
初対面のこの人ですらこんなに優しいのに、大学のあの彼ときたら。どうして世の中には酷い男が存在するんだと思い返すと、また涙が溢れてきた。


「可愛いのに泣いたら台無しだよ。俺の店おいで、特別でタダにしてあげる」


そうして私を連れていった男の名前が流星、ホストクラブのナンバー3。女の子の変化に敏感に反応し、女がどんな言葉を言われると喜ぶのか、または悲しむのか、全てを把握しきっている男。

特別扱いで初めて連れていかれたホストクラブは、一晩中居たにも関わらず確かに無料であった。
なんだ、ホストって嫌な人たちだと思っていたけど案外素敵な人じゃん。この人、チャラチャラして見えるけど私のことをよく見てくれて、分かってくれてるじゃん。私のことを可愛い、好き、特別だって言ってくれてるじゃん。

もっと会いたい、もっと私のことを見てほしい、ほかの誰にも取られたくない、でも2回目以降会いに行くにはお金がかかる。どうする?通うお金なんて持ってない。
そして気づいたら、私は流星に紹介されたキャバクラで働いていた。


「………んー」


頭が痛くて目が覚めると、見慣れた自分の部屋だった。セットした髪の毛もメイクもそのまま寝てしまったらしい。振られた時の夢を見てしまったせいで気分は最悪だ。

外はもう昼間で、寝すぎてしまったのか頭ががんがんする。今日は日曜日で仕事は休みだし、家でゆっくりしていようか。流星は何してるかな、と携帯電話を手に取ると、別の人からメッセージが入っていた。


『ももこちゃん、元気にしてる?最近来ないから心配してます』


それは同じ大学で仲良くなった友人からのものだった。
この子は私が失恋したことを知っていて、しばらく私のことをそっとしておいたほうが良いと考えていたのか、今までこのような連絡は来ていなかった。久しぶりにお客さんや流星以外の人からメッセージが来た気がする。


「……ありがとう、元気だよ…」


と、文章を打ち込む。
けど私は今「元気」と言えるのだろうか。毎晩お酒を飲んで、お客さんとご飯を食べて欲しいものは買ってもらえて、稼いだお金は流星の元へ。これって元気な状態なんだろうか。分かんない。
考えるのも面倒になってしまって、携帯電話を机に投げた。

しかし、またすぐにメッセージの通知音が鳴る。今度は誰だと画面を見ると、お客さんからだった。


『ももかちゃん、明日ご飯いきませんか?』


ご飯って事は、夜に合流してそのまま同伴となるわけだから売り上げになるし同伴バックがつく。うちの店はお客さんと同伴するごとに3000円貰えるのだ。ご飯を食べさせてもらえる上にお金がつくなんて、普通の生活だと信じられない。
でももうこんなの慣れっこだ。夏休み中これを繰り返して夜の世界の何たるかを学び、秋になり、私はもう立派なホステスなんだから。


『いいですよ!行きましょう〜』
『じゃあ明日、7時に』


やったあ、と明るいスタンプを送り付けて既読になったのを確認して終了。私の顔は全く明るくないんだけど。
お風呂に入ればサッパリするかも知れないな、と干してあるバスタオルの中から一枚選んだ時、見慣れないものが並んで干してあった。


「……ふ…く…ろ…う…だに」


なんだこれ。フクロウダニ、聞いたことがない単語だ。記憶をたどるが全く心当たりが無い…が、ぴんとひとりの男の顔が浮かんだ。

これは私が転んで怪我をした日に、木兎がくれたものだ。
突然私の前に現れて、なぜだか立て続けに会っていた男。ごちゃごちゃとした汚い街には似合わない真っ直ぐな目と、誰のことも疑わず騙したことの無いような正直な口を持つ男。

これまで木兎が私に向けて言った言葉はどれもこれも本心だったのかな。もし本心ならば、どんなに素晴らしい人なんだろうと思う。でも、この世にそんなに綺麗な人間は存在しないのだ。結局何かの利益がなければ、私と関わってくれないんだから。





シャワーを浴びて、考え事を吹き飛ばすように乱暴に頭を拭いていると、机に置いた携帯電話が震えているのが見えた。
誰からだろうと画面を見ると「流星」の文字が。慌てて電話に応答した。


「もしもし!」
『もしー?寝てた?』
「お風呂はいってた」
『ふーん』


私の答えに興味があるのか無いのか分からない声だったけど、こうしてまだ流星から電話をくれるのは嬉しい事だった。もう嫌われたと思っていたから。


「あの、流星今日、」
『あのさ、実は頼みがあるんだけど』


今日は互いに仕事が休みなので、どこかに行こうと誘いをかけようと思っていたら流星に遮られる。
とても軽い声だけど、少し棒読みの声だった。なんだか嫌な予感がした、この声は前にも聞いたことがある。以前、風俗嬢のアイちゃんをお店に呼ぶため営業電話をかけていた時の声。


「……なに?」
『来週、俺のバースデーじゃん?未収でいいからタワーして』


そして今回私への電話内容はこれだった。
ホストクラブもキャバクラも高級クラブだって、バースデーイベントは規模によってその人の価値を問われるものだ。先日の美麗ちゃんのバースデーにはたくさんのお客さんが来て、ケーキやプレゼントは当然のこと、高いお酒がじゃんじゃん降ろされていた。

流星のバースデーなら私も喜んで何か協力したい、その気持ちは山々だ。でもタワーっていうのはシャンパンタワーで、ホストクラブでのシャンパンは安くても1本3万円〜5万円くらいで、当然何本も必要で、そんなに派手に使えるお金なんて持ってない。
それを分かっている流星は先に「未収でいいよ」と言った。ツケでいいよ、と。


「……未収…」
『バースデーでタワーしてもらうの夢だったんだよね。でも他の女じゃなくてももかにしてもらいたいから』
「………」


それはまだ、彼の中で私が特別な事に変わりはないという意味で間違いない?その夢を叶えれば唯一無二の存在になれるのかな?その希望が浮かんだ時に、ちょうどよく木兎のよく通る声が脳内に響いた。
「そんな事しなくたって、お前のことを見てくれるやつは居るんじゃねえの」…ほんとにそんな人いるの?今私が断っても流星は怒らずに居てくれるのだろうか?ほんの少し勇気を出して口を開いた時、またもや先に流星の威圧するような声がした。


『いいよね?』
「……え、えーと…」
『何?』


しばらくの沈黙。電話越しで顔は見えないはずなのに、ぎらぎらと睨まれて一挙一動を見張られている気分だった。


「………分かった…」


だからイエス以外の答えを出した時にどんな攻撃を受けるのかが怖くて、このように答えるしかなかった。嫌われるのは嫌だ。全部を彼の思い通りすれば、彼は私から離れない。きっと。言うことを聞かなくては。


『ありがと!約束な!ちょー好きだよ』
「わ、わたしも」
『んじゃねー』


ぷつりと電話が切れた。
ほらね、好きって言ってくれた。これで良いんだと思う。流星はまだ私のことが好き。まだ私にはチャンスがある。まだ彼の気持ちは私にある。
でもそうやって安堵するには重すぎた。彼の思い通りになれるほどのお金は、持っていない。

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