06


「水商売する子なんか闇抱えてるに決まってんだろ」


夜久の言葉が頭の中で繰り返される。ぐるぐると何度か回った後は決まってももかが消え入りそうに、けれど願うように言った言葉が再生された。「木兎の普通が、皆の普通だったらいいのに」と。

あれはどういう意味で言ったのだろうか、理由を聞くことは出来なかった。彼女はすぐに涙を拭いて無理やり泣き止み、付いてくるなと言い残して行ってしまったから。


「…はあ……」


付いてくんなと言われたって、あそこまで毎日綺麗に仕上げている姿がぐしゃぐしゃになるまで泣くほどの事があったのに、放っておくのは難しかった。
でも「もう泣き止んでるから!」と俺がついて行くのを拒否するみたいに言われたから、それ以上深入りすることは出来なかったのである。


「おーい。木兎」


頬杖をついて昨夜のことを考えていると、黒尾が前の席に座ってきた。


「シューズ買えたのか昨日」
「えー…ああ…」


そう言えば昨日、俺はスポーツ用品店へシューズを買うためにあそこへ行った。…という設定になっている。帰りに黒尾の家へ誘われたけど、それを断ったのだ。
どうしてなのか分からないけど(シューズを買う予定も無かったし)、気付いたら断っていた。で、気付いたらあそこに居た。なんとなく彼女に会いたかったのかもしれない。会った結果は散々なものだったけど。


「……もしもし?」
「あ?」
「いつにも増してボーッとしてんな」


そう言って笑う黒尾にいつもなら文句の一つも言ってやるのだが、俺がボーッとしているのは事実だった。


「黒尾はさあ、もし女の子が…彼女が泣いてたら…どうする?」
「は?」


黒尾は切れ長の目をいっぱいに開いた。そしてしばらく俺の顔を観察したあと、教室の端で荷物を片付けている男に声をかけた。


「夜久!木兎がおかしい!」
「木兎はいつもおかしいだろうが」
「輪をかけておかしい!」
「お…俺は普通だっつーの」


二人そろって失礼な奴らだ。俺は断じておかしくない普通の男である。ついでに黒尾も夜久もちょっと変なだけで、面白味もない普通の野郎どもだ。今のところ俺の中ではももかだけが普通ではない、少し変わった世界の人だった。

…と頭では認識しているのに、俺の普通を押し付けたことになるのかな。彼女にとっての普通と俺の普通は違うんだから。


「…普通って、何だろな?」


俺が言うと、夜久は元々丸い目を更にいっぱいに見開いた。黒尾の仰天顔よりインパクトがでかい。


「ほらな、変だろ」
「確かに…」
「真面目に聞いてんの!いいか真面目に聞けよ真面目な質問だから」


俺はいつだって真面目に生きているつもりだが、こいつらは俺の話をちゃんと聞かないことが多いので今回はきちんと前置きした。それでも「へーい」とゆるい返事が返ってきたけど。


「もし彼女が泣いてたらどうするか、だっけ?」
「何だそれ。木兎彼女いねえだろ」
「俺の話じゃありません!真面目に答えて」
「んー…」


夜久も黒尾もこれまで恋人が全く居なかったわけじゃあるまい。悔しいけど二人ともそれなりにモテるのだ。過去の経験や想像でしばらく考え込んでいた二人は、ほぼ同じタイミングで言った。


「…とりあえず泣き止むまで待つ?」
「俺は謝る」
「謝んの?泣く理由聞いてからじゃね?」


泣き止むまで待ち理由を聞く、という回答は夜久のものだ。黒尾は夜久の意見に反対とまでは行かないようだけど、少しだけ首を振った。


「俺に対して何かしらの不満とかがあって泣くわけでしょ。とりあえず謝るよね」
「なるほど…」
「なるほど。」


たぶん黒尾が過去に女の子と喧嘩をした時、とりあえず謝ったら事なきを得たんだろうと思う。女子の扱いに慣れていそうだし、喧嘩のあとのフォローだって上手くやりそうだ。


「でも分かんねえよ?お前が誰の事話してんのか知らねえけど、時と場合によるからな」


と経験豊富な黒尾先生から言われたけれど、その「時と場合」ってのが特殊すぎるから困ってるんだよなあ。





だんだんと「ごちゃごちゃ」にも慣れてきた。この街のどこに何があるのかも把握できるようになってきた。どこに居れば彼女に会うことが出来るのかも、なんとなく予測がつく。約束しているわけでもないし、ここに来たって必ず会えるわけでもないのに。また目の前で誰かとキスをされるかも知れないし、お客さんと歩いているかも知れないけど。


「どうしよっかなあ…」


俺は一体何をしにここに来たのか自分でもよく分からなくて、まず何をすべきなのか迷っていた。あの子を探す?見つけたらどうする?声をかける?なんて言えばいい?
何ひとつ行動パターンが浮かばないので、ひとまずコンビニで立ち読みをするふりをしながら通りを眺める事にした。

暗くなるにつれて、歩いていく人たちはきらびやかな女性が増え始める。綺麗な人、可愛い人、スレンダーな人もグラマラスな人も、自分がどうすれば美しく見えるのかを分かっているんだろうなと思えた。その中に1人、ひときわ俺の目を引く女の子が現れた…ももかだ!


「おい、おい!ちょっ、ストップ」


コンビニの自動ドアをぶち破りそうな勢いで店を出て(少しだけ自動ドアに身体をぶつけた)、道を歩くももかに声をかけた。
俺の声に驚いた彼女はくるりと振り向き、目玉が飛び出そうになっていた。


「木兎!?何か用?」
「……え?いや…」


そういえば何をしに来たのか考えていない。心の中には言いたい事があるものの、俺が口を出すような問題じゃない気もするし。


「…何も無いなら行っていい?待ち合わせしてるんだけど」


痺れを切らせたももかがため息混じりに言った。今から誰かに会うようだ、誰とどこで何をするんだろうか。疑問符ばかりだったので思わず大声で聞いてしまった。


「待ち合わせって昨日のやつと!?」
「……?お客さんとだよ」
「なんだぁ…」


よかった。昨日の男に会うわけでは無いらしい。どんな人間なのかは知らないけど、あの少しの時間だけで嫌悪感を覚えてしまったから。


「昨日の事は忘れてよ。嫌なとこ見てせてごめんね」
「別に嫌だなんて思ってねえけど」


そう言うと、ももかは少しだけ驚いていた。でもそれを俺に悟られないようにしているのか、すぐにいつも通りの綺麗な顔に戻した。


「…あんたって私にGPSでも付けてるの?今日は何の用」
「今日は…あー、聞きたいことがあって」
「私に?」
「そう」


彼女は更に驚いた。偶然何度か鉢合わせただけの俺が、わざわざ質問をするために会いに来たなんておかしいと思うけど。


「あれってホントに彼氏?」


これを聞かないと納得できないのだ。その答えがイエスでもノーでもいいから。
どっちにしたってもう少し幸せそうな方向に動いたほうがいいはずだ。お節介だと思われるだろうがお節介は俺の長所だと木葉に言われたことがある。…あ、赤葦には短所だと言われたんだっけ、いいやもう遅い。


「そうだよ」


しかもももかの返事は、あまり良くないほうの答えだった。


「…俺はそんなふうに見えなかった」
「木兎から見てどうなのかは分かんないけど。彼氏だよ、デートもキスもエッチもしてるもん」


俺はぎょっとしたのを隠すことができなかった。女の子の口からそんな単語を聞くとは思わなかったもんで。涼しい顔をした彼女とは裏腹に俺はしどろもどろになった。


「…けど…」
「しんどい時はいつも相手してくれるし、流星も私に会いたい、好きだよって毎日連絡くれてる。それって彼氏じゃないの?」
「……そ…そう…だけど」


好きで好きで会いたくてたまらない彼女なら、あんなふうに泣かせるだろうか?


「昨日、ももかが泣いてるの…リューセイは無視して行っちゃっただろ」


そこで初めて、これまで強気であったももかの眼には動揺が見られた。でもそれはすぐに消えて、諭すように言った。


「私のせいで流星の大事なお客さん切れちゃったから喧嘩しただけだよ。私が代わりに働くって言ったら許してくれたもん」
「?……どういう意味?」


意味は理解できる。が、なんとも納得しがたい事だった。


「理解できないかもしれないけど。いっぱい働いて、流星に遣ってあげたらそのぶん相手してくれるの」
「…そういうもんなのか?」
「そうだよ」
「全然分かんねえ…」
「木兎には分からなくていい」


彼女の語気が強くなったのは俺のせいだろうか。怒らせるつもりは全く無いのに、ももかは敵意が剥き出しになったような目で鋭く俺を見上げた。カラーコンタクトで強調された大きな瞳と、本来彼女が持つ強い眼光のせいで、蛇に睨まれたように動けなくなる。威嚇されているような気分だ。


「私、流星が好き。誰にも取られたくないけどお金遣わなきゃ離れてっちゃうんだもん、」
「…彼氏なのに?」
「それが彼女だもん!だから邪魔しないで」


でも、それは威嚇ではなく虚勢なのだと分かってしまった。

「こんな事、気付かなきゃ良かった」と心底思った。最後まで鈍感な馬鹿で居られたなら俺は厄介事に足を突っ込まなくて済むだろうし、このまま歪んでる関係を信じる彼女を引っ張りあげようとは思わなかっただろう。
それ以上に残念なのは、どうすればこの子を納得させて明るい世界に引き戻すことが出来るのか、皆目検討がついていない事だ。


「お金なんか無くたって、そんな事しなくたって、お前のことを見てくれるやつは居るんじゃねえの」


だから根拠のないうわべの事しか伝えることが出来ず、彼女からは鼻で笑われてしまうのだった。


「…そんな人、居たら苦労しないよ」


そのままももかは俺の目を見もせずに「バイバイ」と軽く手を振り、どこかに行ってしまった。

やさしさ相反して毒