04


「カレシだよ」


そう言った時のあの人は誇らしそうでも照れくさそうでも嬉しそうでもなくて、ぼんやりとした表情をしていた。
彼氏と上手くいってないのかな。見た目が綺麗な女の子でも恋愛に悩むことがあるなんてなあ、と何の気なしに黒尾と夜久に話したのは昼休みのこと。


「綺麗な女の子って?」
「ああやっくんは居なかったのか…」
「いや夜久も見てるはず。コピーであのコンビニ寄った時」


あの日、俺たち3人は移転した大型スポーツ店のオープニングセールに行っていた。なかなかバレーボールの用品が豊富な店を探すのも大変で、そんなに遠くもないしメンバーズカードも持っているから。
そこで黒尾が講義のノートをコピーしたいと夜久に頼み、あのコンビニに寄ったのだった。


「ああ、木兎が立ち読みの邪魔してた子か」
「言い方。」
「なに、仲良くなったの?」


携帯電話のゲームアプリを開きながら夜久が言った。


「仲良くっつーか」
「ゲロぶっかけられたらしいぞ」
「うげ!汚ねえ」
「ご褒美じゃん。美人のゲロ」


すると夜久が心底軽蔑したような目で黒尾を見た。黒尾は本気で言ったわけじゃ無いんだろうけど「俺は無理」と夜久が首を振った。


「別にダイレクトにはぶっかけられてねえから。地面にべシャーッだよ」
「それでも無理」
「そうか…ていうかゲロの話じゃなくて!」


ゲロは確かにインパクトが強かったけど、俺が話していたのはあんなに綺麗な人でも思い通りに進まない事があるんだな、という事だ。改めて言い直すと、夜久は携帯電話の画面を見たまま言った。


「そりゃ誰でも悩みくらいあるよ、木兎と違って」
「俺も悩みはありますが!」
「水商売する子なんか闇抱えてるに決まってんだろ。普通はああいう仕事しない」


ああいう仕事、と苦々しい顔で言うところを見ると夜久も派手な女の人は苦手のようだ。
確かに夜久が今まで付き合った女の子(黒尾からのリーク)は清楚系が多いと聞くし。俺もどちらかと言うとそっちがタイプだ、そして出来れば巨乳の子。


「カレシ格好いい感じだったなあ…ジャニーズみたいな」
「ホストじゃね?」
「そうかも。そっち系」


黒尾みたいなツンツンの頭に、女子の好きそうな犬みたいにくりくりした目。背も一般的に見て高めだったし、世の中の女子が憧れるようなシチュエーションでの別れ際のキスだって軽々しくこなしていた。
すごいなあとは思うけど俺には無理だな。誰かに見られるのは恥ずかしいし、俺も目の前でそれを見た時は硬直してしまったし。


「あのへんで金が循環してるのかねえ」


ぽろりと黒尾が口にした。あのへん、つまりあの辺り、あの街でって事だろうか。


「…循環?」
「リーマンがキャバ嬢へ、キャバ嬢がホストへ貢ぐ、ホストはその金で良い服を買ってリーマンが儲かる。的な」


黒尾はとても賢い事を言っているように聞こえるけど、それはカッコつけて喋ってるからだろうな。しかしサラリーマンとキャバ嬢とホストの間にしかお金が巡らないなんて理不尽だ。


「俺たち学生には回って来ねえのか」
「俺たちは消費者だ…金を回せ…だな」
「ぶっは」
「コレ未だに黒尾のお気に入り。酸素のやつ」
「やめてください夜久くん」


でも貧乏な学生たちにとってはそんな話、現実味もないのですぐに別の話へとすり変わっていくのだった。





ごちゃごちゃしたところは苦手だというのに、こうしてまた夜の香りする街へ来てしまった。この間スポーツ店でシューズやら何やらを見たばかりだが、新作が入ったというDMが届いたもんだから。

生憎夜久も黒尾も先約があるらしく、今日は一人で歩いていた。元々買うつもりはなかったけれど、試し履きをすると欲しくなってしまったので、名残惜しいけどさっさと店を出てしまったのだ。


「あー腹減った…」


自慢じゃないけど人一倍代謝が良くて消化も早いから、すぐに空腹になってしまう。
家に帰り着くまで1時間くらい、我慢できるか俺…いや出来ないかも知れない。手頃な定食屋がないかどうかと立ち止まった時、背中に何かがぶつかった。


「ぶわ!」
「うお」


ぶつかったのは物ではなくて人だったらしい、悲鳴が聞こえてきた。急に立ち止まった俺が悪いよなあと振り向くと、またもやどこかで見た顔だ。


「あ。」


相手も俺と同じような反応で、目を丸くした。ここ最近、このあたりで見かける女の子だ。名前は何だったかなと記憶を辿っていたら、彼女のほうから俺の名を出した。


「えーと…ボクト。だっけ?」
「おお!よく覚えてたな」
「…あんたは覚えてないの、私の名前」
「うーん………」


まずい、俺から名前を聞いような気がするのに失礼だったかと思ったが、どうやらそんな事は気にしていないらしい。すぐに話題を変えられた。


「まあいいや。またスポーツ店?」
「すげえな、それも覚えてんのか」


スポーツ店に寄った話をした時には、彼女は相当酔っていたはずなのに。些細なこともきちんと覚えてるのは職業のせいだろうか。
その子は「まあね」と笑うと携帯電話に目をやり、時間を確認した。


「………ね。いま暇?」
「俺?暇……つうか腹減ったとこ」
「ご飯でもいく?」
「……え?」


突然の誘いで思考が止まる。女の子からご飯に誘われるなんて初めてだ。


「私もちょうど暇になったから。この前のお礼って事で私が出すよ」
「いや、けど」
「出す!行くよ」
「え」
「はーやーくっ」


いきなり腕をつかまれて…いや腕を組まれて、その子が歩き出した。つられて俺も進むしかなく、振りほどくわけにもいかないのでされるがままに歩いていった。正直に言おう、腕が彼女の胸に当たっていて超絶ラッキーである。


「…木兎って女の子と歩くの久しぶり?」
「はっ?」


ファミレスで名前を呼ばれるのを待ちながら、その子が言った。いまだに当然のごとく腕を組んでいる。


「べつに久しぶりじゃ…」
「ふうん。じゃあ単に緊張してるのね」


身体カタイよ、と悪戯っぽく指摘されて思わずドキリとした。だってよく知らない女の子にこんなに密着されるのは初めてだから、どのような体勢で居れば良いのか分からなくて。

しかも今日の彼女はメイクも既にばっちりで、髪型はセットされているけど前ほど派手ではない。男を魅了するために造り上げられた姿に、普通の大学生である俺は例外なく反応してしまうのだ。


「何食べる?」
「肉がいい。これ」
「200グラムでいいの?300にする?」
「……イイデスカ?」
「ふふ、いいよ。可愛いね」


まるで猫じゃらしで心臓をくすぐられるような感覚に襲われる。女の子から「可愛いね」と言われたのは初めてだ。そんなの言われたって嬉しくないと思っていたのに変な気分である。
店員を呼んで注文を済ませると、彼女は質問を続けた。


「木兎は学生だよね?いくつ?」
「19」
「じゃあ1年生?一緒だ」
「へえ…」


同い歳なのに、この子のほうが俺の何倍もの人生を歩んでいるような喋り方だ。しかも今日はやたらと鎖骨が綺麗に見えるトップスで、ハーフアップにされた毛先が彼女の鎖骨付近でちょろちょろ揺れるのが気になって仕方がない。ふりまいている香水のせいか、とても色っぽく見えた。


「今日はあんまり派手じゃないんだな」
「そうだね。今日会う予定だったお客さんは清楚系がタイプなの」
「お、おお…」
「ドタキャンされちったけどねー」


お水いる?と聞かれて、自分のグラスがいつの間にか空になっていることに気付いた。彼女は水を注いでからグラスの周りについた水滴をお搾りで拭き取ると、再び俺の前にそれを置いた。


「すげえ気が利くんだなお前」
「こういう仕事ですから。惚れちゃった?」
「馬鹿にすんな」
「はは、してないってば。怒らないで」


どうも会話や行動の主導権を握られているような気がする。今まで女の子と付き合ったりした中で俺が主導権を握れた回数なんか少ないんだけど。


「それより木兎は本当に私の名前、忘れちゃったの?」
「……んー…悪い。」
「凹むなあ………あ。」


ふいに窓から店前の通りを見て、彼女はぴたりと動きを止めた。何かを見つけたらしく、その何かを目で追っている。


「……なに?」
「あいつ…」


眉間にしわを寄せ、目を凝らしてその「何か」を、いや「誰か」の動きを見ている。俺もその方向を見てみると、綺麗な女の人と一緒にスーツの男が歩いていた。男の年齢は40代くらいだろうか。


「…サイアク。他の女と一緒だ」
「えっ?え?浮気?」
「違う。あれはうちの店の子じゃないから…他の店に行くつもりなんじゃないの」


どうも話が読めないので聞いてみると、たった今ドタキャンされた客があの男だそうだ。そして彼は別の店の女の子と楽しそうに腕を組んで歩いてる。


「……って事は?」
「知らなーい。もう来ないかもね、私のところには」
「え、それっていいの?」
「良くないっつーの。でも仕方ないの。顔も身体も喋りも良い子がいれば、みーんなそっちに流れちゃうんだもん」


彼らの姿が見えなくなると、その子は肩を落として背もたれに寄りかかった。
残念そうにストローでグラスをかきまぜて、氷がからんと音を立てる。その手先や指先がとても綺麗だったのと、お客さんを逃したアンニュイな表情に釘付けになってしまった。さっき外を歩いていた人より、目の前に座るこの子のほうが俺には充分魅力的だ。


「…お前も充分いけてるけど?」
「名前は覚えてないくせに」
「それは悪かったってば」
「あっはは、嘘だよ!木兎かーわいい」


俺のどこが可愛いんだよと思いつつも、満更でもない感じだ。自分でも驚く。


「でも素直過ぎるんじゃない?気をつけないと、そんなんじゃいつか傷つくよ」


彼女はそう言うと、ストローをくわえてジュースを飲んだ。それは、今発した言葉の意味を誤魔化すための動作に見える…ような気がする。深読みし過ぎかな。


「………俺は、そうは思わねえけど…」


俺はこれまで素直に生きてきて、特に損をした記憶が無いから。けれどそのような忠告をしてきたと言うことは、彼女は自分に心当たりがあるのかもしれない。


「お前はそうだったの?」


その心当たりをあまり抉り返さないように、けれど知りたい、そんな欲が口から出た。こういう所は少しだけ損だと思う、俺は何事もオブラートに包む事が出来ないのだ。


「……お前じゃなくて、ももかね。」


しかし俺の問いかけには答えることなく、ももかは笑ってジュースを飲み干した。

思捨誤入