03


「お前、重いよ」


そう言われて私が何も言い返せなくなっている間に、彼はどこかへ消えてしまった。大学生になって初めてできた彼氏は私の友だちと二股をかけていて、それを問い詰めた時に言われた言葉。こんなことを気にする私って重いのだろうか。

そして、後になって知ったのだ。友だちも私が彼と付き合っているのを知りながら密会していたのだと。私のことを笑いながら彼と二人で会っていたのだ、それを知った時に私の頭に浮かんだ言葉はたったひとつ。


「ももか、客呼びは?」


過去のことをぼんやり思い返していると、突然声をかけられた。
時計の針は21時。待機の椅子に座っている私に店のボーイが近づいてきて、本日の集客予定を聞いてきた。


「………ない。」
「まじか。美麗の客しか来てねえじゃん」


ボーイは店のホールへ目をやりながらため息をついた。だって今日は月曜日で、世の中のサラリーマンは飲み歩くような気分じゃないだろう。しかも給料日前の週に。

そんな状況でも安定して本指名のお客さんを呼んでいるのは我が店舗が誇るナンバーワンのホステス、美麗ちゃんだ。


「ヘルプつく?ボトル減らして来いよ」
「…無理。私今日テンション低いんだもん、それに美麗ちゃんのお客さん苦手だし」


今日来ているお客さんは、もちろん美麗ちゃんがナンバーワンである事を知っている。「ナンバーワンの女を指名する自分」が気に入っているんだ。ヘルプの女の子にはあまり飲ませてくれなくて、明らかに違う態度を取られるのは気に食わない。いつも美麗ちゃんがフォローしてくれるけど効果無し。

美麗ちゃんはいつも完璧な姿で出勤し、お客さんによって態度を変えて、相手の喜ぶことを簡単に言ってのける素晴らしい女の子。私より二歳ほど歳上なだけなのに頭が上がらない。


「美麗ちゃん凄いよね。お客さん何人持ってんの?」
「さあ?ま、美麗は15の時から夜だから。コレが上手いんじゃないの」


コレ、と言いながらボーイは手のひら転がしのポーズを取った。
そうだろう、それだ。聞くところによると彼女は15歳の時から水商売の世界にどっぷりで、酸いも甘いも経験してきたらしいから。経験が違う。失恋のショックを埋めるために夜の世界に飛び込んだだけの私とは。


「俺はいいけどもうすぐマネージャー来るし、客呼びしてるフリはしとけよ」


ボーイがそのように忠告してくれたので「ありがとう」と返し、私は電話をするために一旦非常階段へ出た。


携帯電話の電話帳なんか開かなくても発信したい相手はすぐに見つかる、いつも通話履歴の上位に居るからだ。耳元で鳴り響く呼び出し音は最近流行っている恋愛ソングで、先週電話した時から更に新しいものに変わっているらしい。


『はーいももかちゃん、もしもし』


曲を遮って軽快に応答した声は、甘い声で私の名前を呼んだ。


「ももかチャンだって。きもちわるー」
『嬉しいくせに。どしたの、仕事中だろ』
「今日ヒマなんだよね」
『ほー、不景気ですなあ』


そこで電話越しに金属音がしたので、お気に入りのジッポで煙草を吸い始めたのだろうと推測できた。

この男の名前は流星といって、同じくこのあたりで働くホストである。歳は私のふたつ上だったかな。6月ごろ、二股されていたのが発覚して失恋した夜、ふらふらと歩いていた私に声をかけてきたのが流星だ。


『早退すれば?俺ももうすぐ出勤だし』
「えー」
『ももかに会いたいなー』


一体どんな顔をして言っているのか知らないけど、「会いたい」と言われて嫌な気持ちになる女は居ないだろう。甘い声で甘い言葉を言われたら、くらりと気持ちが傾いてしまう。
たとえ呼ばれている名前が、私のほんとうの名前では無かったとしても。





「…おえっ」


飲み過ぎた。気持ち悪い。

たった2時間弱の間に頭ががんがんに痛むほど酔ってしまったようだ。
結局仕事を早退してそのまま流星の働く店で飲んだ私は、ひとりではまっすぐ歩けない状態となっていた。流星に支えられながら繁華街を歩くが、そろそろ彼も私から離れたそうにしている。


「ももか、ダイジョーブ?帰れる?」
「……むり。流星、連れて帰って」
「無理だよ、今からお客さん来るから」


流星はホストクラブのナンバー3で、私以外にも当然お客さんがいる。そんなの分かっているけれど、女はいつでも自分が一番でありたいのだ。目の前の男が私以外の女の話をするなんて気分が悪い。


「お客さんて誰。」
「前話した風俗の子。ブスの」
「……ふう〜ん」
「何怒ってんの?そいつが落とした金で今度ご飯行くじゃん。な!」


そう言って私の頭を撫でるものの、ムカつくもんはムカつく。流星は私のだもん。私が一番話しやすい、特別だって言ってくれるもん。それなのに今から、風俗で身体を売っているような女の相手をするんだ。その子がお金を持っているからって。

私がむくれ顔になっている事には気づいているようだけど、お店から一本離れた道に出ると流星は立ち止まった。


「ももか、今日はここまで。気をつけて帰って」
「……やだ。ちゅう」
「ちゅーしたら帰れる?」
「帰る…」
「かわいー。はい、ちゅう」


流星は頭を撫でながら顔を近づけてきて、私が目を閉じると同時に唇が触れた。

何度か軽く触れてから離れようとしたので、「まだ」と服を引っ張ると仕方ないなあと笑いながらもう一度。今度は深く、下唇をそのまま持っていかれそうになるほど吸い付かれた。気持ちいい、頭がとろとろに溶けてしまいそう。


「じゃ、また連絡する」


そんなうっとりした気分に浸っていたのに、流星はさらりと別れを告げてお店に戻ってしまった。

もっとキスしていたかった、このまま仕事なんか抜け出してもらってホテルにでも行きたかったのに…と歩き始めると、目の前にとても驚いた様子の男が立っていた。


「…やっぱり。びっくりした」


その人は私を見て口をあんぐりと開いていた。私を見て、というよりはたった今道端で激しくキスしていた事に驚いていたのかも。


「……誰?」
「あ、俺。ほらこの前さ…」


自分の顔を指さして説明する彼を見て、なんとなく見覚えがある気がした。そのアッシュグレーの髪を。


「あー…なんか…この前会ったような…」


しかし焦点を合わせて顔を見ようとすればするほど頭が痛くなって、胃袋から何かが逆流してくる。足元がおぼつかなくなった私の肩を掴んだ彼は、私の青白い顔を見てぎょっとした。


「大丈夫?ふらふらじゃん!」
「…気持ち悪い」
「えっ!」


耳元で大声を出されるもんだから、それが頭に響いて限界になってきた。もう我慢出来ない。


「吐く」
「えっ!?ちょ、待って…」
「うっ」


申し訳ない。
そう思った時にはすでに遅く、思い切りその場に戻してしまった。





「はい、水」
「……ごめん。」
「いや俺は大丈夫だけど…」


彼はどこかから水を買ってきてくれたようで、律儀に蓋を開けてから渡してくれた。ごくりと喉を鳴らして飲んだらまた吐き気がしてきたので、「うえ」と嘔吐くと少し楽になった。


「何してんのこんな所で」


そして、この男に質問をする余裕も出てきた。あまり夜にこのような場所を徘徊する人種とは思えない。


「駅前のスポーツ店行って、そこのファミレスで飯食ってた」
「…ああ、ファミレスね」


なるほどこの辺りにはバーや居酒屋もあるけれど、24時間営業のファミレスもある。酔いすぎた朝にはそこで味噌汁を頼んだりしているのだ。この人は単にファミレスで、大学の同期とご飯を食べていたらしい。よく食べそうな人だなと思ったけど、大量の食事を想像したらまた吐き気がしてきた。


「仕事でそんな飲むの大変だなあ」
「そうだね。…ま、今日は仕事で酔ったわけじゃないけど」
「今の彼氏?」


唐突に彼が言った。私は何度か瞬きしてしまった、こんな質問の仕方されたこと無くて。


「カレシだよ」


でも答える内容はどうせ同じだ。流星は、出会った直後から私の彼氏なんだから。


「へー!カッコイイ彼氏だな」
「でしょ。ナンバー3だから」
「ナンバー3か。三本の指って感じ?」
「?…まあ、そんな感じ」
「道の真ん中でキスかあ、ドラマみてぇだな。ラブラブじゃん」


彼は私たちを馬鹿にしているのではなくて、単純に「ドラマみたいでいいな」と思っているらしかった。なんだか、私とは住む世界の違う平和そうな人。悩みとかあるのかな。
これ以上お気楽な人と関わるのは自分に毒だと感じたので、まだ気分は悪いけど立ち上がった。


「って言うかもう大丈夫だから。ありがと」
「ほんとか?駅まで送るけど」
「いいよ。タクシー使う」
「おっけ!停めてくる」
「え」


私が顔を上げると「まだ座ってて」と言われてしまい、仕方なくその場にもう一度腰を下ろした。このあたりは頻繁にタクシーが通っているけど予約車などが多く、空車を見つけるのは難しい。
それを知ってか知らずか太い腕をぶんぶん振り上げながらタクシーを停めようとしているのが少しだけ面白かったし、変な気分だ。

やっとタクシーを停車させることに成功した彼は再びこちらに歩いてきて、私の手を取り立ち上がらせた。


「お姉さん、名前何ていうの」


そして名前を聞かれた。どうしようかな。この先会う可能性は低いと思うけど、万が一共通の知り合いが居て面倒な事になりたくない。
そんなわけで、いつもお店で使っている名前を名乗ることにした。


「……ももか」
「ももかね。俺は木兎!」
「ボクト?…変わった名前だね」
「よく言われる。じゃ、気を付けて」


そう言ってボクトという男はドライバーが待機していたのも気付かず、タクシーのドアを手動で開けてくれた。それを見たドライバーは運転席に戻って自動でドアを閉めようとした…が、先にボクトが手動で閉めた。

ストロベリー・ブレイクダウン