02


暖かな陽気のお陰なのか元々の体温が高いのか、すぐに眠くなってしまう身体との付き合いもそろそろ19年。授業が終わってからやっと意識がはっきりとしてきた。
そして、やばい事に気づいた。昨日買ったばかりの雑誌が俺の唾液でぐしょぐしょだ。


「うわ、きったねえ」


それを隠す前に黒尾鉄朗がやってきて、居眠りをしていた俺の失態を笑った。だってさっき昼食をとったばかりで、日当たりのいい席を選んでしまったんだから仕方がない。…しかし開かれたページは可哀想なことに、水分でしなしなになっていた。


「わー、超ぬれてる」
「気の毒に、木兎の唾液まみれになるより美人の所に行きたかったろうなぁ」
「うっせえよ!」


鞄の奥底に突っ込んでいたぐしゃぐしゃのポケットティッシュを探し当てて、濡れたページに押し当てた。どういう訳か昔から、あまり物を大切にできないのだ。大切にしているつもりなんだけど、ガサツなんだろうなあ。高校の時、ボールのカートを体育館の壁にぶつける度に後輩に怒られたっけ。

俺よりは確かに昨日出会ったあの人のほうが、この雑誌を大切に扱いそうだ。けど、彼女のほうが俺に譲ると言ってくれたんだし。


「うし。これでいいだろ」
「ぶはっ、このへん滲んで読めねえぞ」
「いいの!」


無理やり唾液を拭き取った雑誌を鞄に入れて立ち上がった。
今日の講義はこれでおしまい。俺は去年までと変わらずに、勉強の他はバレーボールに打ち込む生活を送っているのである。変わったことといえば音駒の黒尾と夜久が同じ大学に進み、やはりバレー部に入部してきた事くらいか。


「…あれ。」


数時間ぶっ続けで汗を流した後、黒尾が間抜けな声を上げた。俺も夜久もそれに反応して黒尾を見ると、どうやら鞄の中にあるはずの何かが見当たらない様子だ。


「どうした?」
「ありり…昨日コピーした本が無え」
「はッ!?俺が貸したやつ!」


ごめんごめんと平謝りする黒尾に怒りの声をぶつけたのは俺、ではなくて夜久のほう。
彼は俺や黒尾より小柄なのに、いつも沢山の本やノートを鞄に詰め込んでいる。尊敬するけど真似できない。だから俺も黒尾も夜久の持っている資料とか参考書とか、夜久の比較的綺麗なノートを目当てにしているのだ。

その大切なものが恐らく昨日のコンビニの、コピー機に置き去りになってしまったらしい。


「取りに行けよ」
「いやん。一緒に行こ?」
「俺用事あるから。明日絶対返せよな!」


黒尾に向けてそう言い放つと、大きな鞄を背負った夜久は大股で歩き勢いよく部屋のドアを閉めた。その音に飛び上がる他の部員たち、そして俺たち。やれやれ黒尾はまたあのコンビニに本を取りに行かなきゃならないのか、大変そうだな。


「じゃあ俺も帰ろっと」
「木兎待って」
「…なんだよ?」


まあ、なんとなく予想はできるんだけど。一応聞いてみよう、こいつが何を言おうとしているのか。


「一緒に取りに行きません?」


想像どおり猫なで声を出されたので、コーヒー牛乳で手を打つことにした。





賑やかなのは好きだけど、あまりごちゃごちゃしたのは好きじゃない。矛盾しているとは思いつつもこれが自分の性分なのである。

昨日どうしてこの「ごちゃごちゃ」に値する地域のコンビニに来たのかと言うと、俺たちの通っていた大きなスポーツ用品店がこの辺りに移転したのだ。だから恐らく、今後も足繁く通うはめになるだろう。
黒尾がコンビニの店員と「昨日コピー機の中に忘れ物を…」などと話しているのを聞きながら、俺はまた立ち読みで時間を潰すことにした。

…が、読みたかった本は昨日手に入れたし(涎まみれになっているけど。)携帯でゲームでもしながら待っておこうかな、とガラス越しに外を見た時。なんだか見覚えのある顔が道を歩いていて、そして、すっ転んだ。


「うわ」


その派手な転げかたに思わず声が出てしまった。…正直に言おう、転げかたが派手なのではなくその時に見えた下着が派手だったのだ。
ちょっとだけそれに見とれてしまった俺だったがすぐに我に返り、擦り傷を作ったらしいその人のところへ向かうためコンビニを出た。


「お姉さん、だいじょーぶ?」
「……えっ?」


見覚えがあるなと思ったらやはり昨日、俺に雑誌を譲ってくれた女の人だった。しかし昨日とは違い、髪の毛がセットされていなくてさらさらだ。メイクもまだ途中のようで顔が薄い。
ガッチガチに決めるよりこっちのほうが可愛いじゃん、なんて考えていると怪訝な顔で彼女が言った。


「見てないで、手貸してよ」
「あ、うん…ハイ」


女の人にこんなふうに指示されるなんて高校のマネージャー以来なもんで、思わず敬語になってしまった。自分から声をかけたのに無言で突っ立っていたんだから、そう言われるのも当然か。


「うわ…やだ最悪」


彼女は自分の脚に見事な擦り傷が出来ているのを発見し、顔を歪めた。しかし俺からは脚以外にも、肘の部分から出血しているのが確認できる。確かまだポケットティッシュが残っていたはずだと鞄を漁ると、1枚だけ残っていた。


「これあげる」
「…あ、どうも」
「そこも血出てるぞ」
「え?…うわぁ」


俺が教えてやるとようやく気付いたらしい肘の傷に、その人は肩を落とした。
授業中に居眠りをして涎なんか垂らさなければ、もう少しティッシュがあったんだけど。渡した1枚のティッシュで肘を抑えると、すぐに血が滲んでティッシュが使い物にならなくなったらしく、彼女はまた「もう」と眉を寄せた。よく分からないけど顔と身体で勝負する仕事なんだろうし、大変そうだ。

そこへ、やっと夜久のノートを回収したらしい黒尾がやって来た。


「おやおやナンパですか木兎クン」
「ちげーよ!絆創膏持ってねえ?」
「俺が持ってるわけねえだろ。夜久が持ってるんだから」
「お前、夜っ久んに頼りすぎだろ」


黒尾はいつも何かと夜久のものを借りているのだ、俺も人のことは言えないけど!俺の指摘を笑って受け流した黒尾は、お姉さんの出血に気づいた。そして、その人と初対面ではない事も。


「あれ、おねーさん昨日の人?」


と、黒尾が声をかけると彼女は「げっ」という顔をした。どうしたんだ、俺たちは昨日のあの短い間に嫌われるようなことをしただろうか?


「……あんまり見ないで素っぴんだから。サングラス忘れたの」


しかし、嫌われたわけでは無かったらしい。昨日と違いまだ顔も髪型も整っていない状況だったので、それを見られるのが嫌なのだそうだ。俺からすれば今も充分綺麗な状態だが、と彼女を眺めていると黒尾が俺を小突いた。


「木兎、ティッシュ持ってなかった?」
「もうあげたよ。1枚しか無かった」
「ぶっ、ヨダレ拭いたからか」
「うるせえな!言うなよ」


黒尾に見られただけでも恥ずかしいのに、こんな男が涎を垂らすほど爆睡していたなんて(しかも他人に見られる場所で)洩らされるのは屈辱だ。しかしその女の人は俺たちの会話なんて聞いておらず、手に付いた汚れなどをはらっていた。


「結構でてるけど大丈夫?」
「大丈夫。ありがと」
「あ!ちょ、待って」


今日の練習で、数枚持っていたうちのタオルが1枚だけ未使用なのを思い出した。再び鞄の中をひっくり返すと、梟谷のロゴが入ったタオルが出てきた。


「お姉さんコレあげる」
「…え?」
「綺麗なタオルだから。タオルなんていくらでも持ってるし」


高校の時に同じものを何枚か貰ったし、まあいいか。人助けだから仕方ない。


「確かに。オネーサン遠慮しないで、でもコイツの変な菌が移ったらゴメンネ」
「お前が言うなよ!」


黒尾が余計な茶々を入れるのはいつもの事だけど、いくら俺でも女の子の前で変な事ばかり言われるのはたまらない。さすがに黒尾は「悪かったって」と手を合わせた。


「ありが……あ!?やばいこんな時間」


タオルを受け取った彼女は俺の腕時計に印されていた時間が目に入ったらしい。ぐりんと目玉を広げると自分の携帯でもう一度時間を確認し始めた。


「ご出勤ですか?」
「髪の毛!セットの予約してんの。じゃーね!タオルありがと!」


そして渡したタオルを振りながら、さらさらの髪をなびかせて走っていったのだった。あんなヒールで走れるなんて女の子は器用だな。
俺たちはぽかんと口を開いたまま彼女を見送ったが、黒尾が少しだけ声を潜め顔を寄せてきた。


「…女ってさあ」
「ン?」
「やっぱりメイクしたほうが可愛いよな」


黒尾はあの人の背中を眺めながら言ったから、きっと昨日の顔と今の顔を比べての発言だろうと思う。こいつは少し派手な感じが好きみたいだから。


「そっか?」
「今の、カラコン入れる前だったろ」


俺はどちらかと言うと今のほうが良かった気がすると思ったが、昨日の彼女がどんな顔であったか詳しくは覚えていない。読んでいた雑誌のことで頭が一杯だったのだ。
だから「うーん」と唸るだけに留めると、黒尾はもうその話題には飽きたようだった。

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