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「…て事は、正々堂々カレシって事?」


夜久に言われてはっとした。
昨日なんとなくそういう流れになり、なんとなくそんなことを言われ、俺はもちろん「なんとなく」じゃなくてきちんと承諾したのだが全く実感が沸かない。どうやら俺とももこは付き合い始めたのだ、昨日から。


「たぶん…」
「たぶんって何だよ」
「まだ自信無い。絶対俺じゃなきゃ駄目ってわけじゃねえんだもん」


彼女にとって相手はきっと俺ではなくても良かったはずだ。偶然目の前に居た男が俺なだけで。俺以外の誰かがももこに言い寄っていたならそちらを穴埋めにしたんだと思う。
しかし、俺以外の誰かよりは俺のほうがももこを大切に思っている…と思う…んだけど。

その日も、翌日も俺たちは電話やメールで朝の挨拶とか寝る前の挨拶を交わす事はあまり無かった。
今更になってどの程度の距離感で接すればいいのか分からなくなってしまったのだ。でも会える時はできるかぎり会いたいと思っていた。と言うよりは、ももこを一人にするのはちょっとばかり不安なので。





金曜日の夜、前みたいにももこの家の最寄り駅まで会いに行ってみると彼女の姿は無かった。

ついさっき『着いた』という連絡が入っていたのにおかしいなと思いながら周辺を見渡すと、つばの広い帽子を深くかぶった女性が立っているのが見える。…多分あれだ。手に持った携帯電話のカバーがももこのものだから。何で変装みたいな事してるんだよ。


「…ももこ?」


そばまで近づいて喋りかけると、ももこは肩をびくりと震わせた。
ゆっくり顔を上げて(と言っても帽子のお陰であまり顔が見えないんだけど)相手が俺であるのを確認すると、安堵したように肩が落ちるのが見えた。


「なんつう帽子かぶってんだよ、分かんなかった」
「ごめん…」
「夜なんだし取ったら?」
「や、やだ。今は」


いつにも増して俯きがちな様子がとても怪しい。帽子をかぶる理由って何だろう。禿げた?そんなわけ無い。でも嫌なら無理やり引っぺがすのも良くないんだろうし。外にも出られないほどノーメイク?…というわけでも無さそうだ。


「…まあ、嫌ならいいけど…」
「……ごめん。あの…」


今日もどこかのファミレスで少しだけでも会話して帰ろうか、と歩き出すとももこはなかなか動かなかった。動こうとはしているけど、周りの目を気にしている様子だ。俺からすれば大きな帽子を被っているだけで結構目立つんだけど、どうやら目立ちたくないらしい。


「どした?」


仕方なくももこの顔が見えるところまで身体を曲げて、帽子に隠れた顔を覗き込んでみる。と、突然現れた俺の顔に一瞬びくりと震えた。やっぱりなんだかいつもと違う。


「…今日だけは怖いの」
「なにが」
「流星に見つかるのが」


リューセイって。この前俺が連絡先も、通話やメールの履歴も削除したじゃんか。それに何より、流星には住所などの情報は知られていないから大丈夫と言っていた。


「…流星はももこの家知らないんだろ?」


もしも知られているなら突然連絡を切るなんて危険過ぎるので冷やっとしたが、ももこは「うん」と頷いた。

それなら別に気にする事は無いんじゃないか。この駅周辺は住宅地ばかりだからわざわざ来る事は無いだろうし、働いていた店からも遠い。
俺にはあまり流星とばったり出くわす危険は無いかに思えた。けれども、ももこはまだ動かない。


「きょうは流星の誕生日なの。お店に行くよって約束してて…あの…いっぱいお金遣う約束。でもそのまま連絡取らなくなったから」
「……」
「…私の事探してたらどうしよう、って、思ったら」


ため息なんか吐いたら駄目なんだろうけど、思わずため息が出た。現実的に流星に見つかる要素があるかどうか、という問題では無かったのだ。


「…言えよそういう事は」
「……」
「そんなの知ってたら外で待ち合わせなんかしなかったよ」
「ごめん」


そういう世界のことは分からないけどももこに聞いたりテレビで見たり本で読んだり、なんとなくは知っている。理解はできなかったけど。遣ってもらうお金の額で自分の価値が決まるのだ。今夜、そのために利用される約束をしていたらしい。


「なんかあったら言えって言ったじゃんか。俺ってそんなに信用ないわけ?」
「………」


ももこの顔はつば広帽のせいで全く見えない。俺はただただ帽子のてっぺん部分だけを見下ろしていた。…ももこが顔を上げないのでずっと帽子のてっぺんしか見えない。やばい、ちょっと言い過ぎた?


「…いや説教したいわけじゃなくって…とにかくそういうの知らなかったから…ごめん」


なんか、考え無しに発言してしまう自分に嫌気が差してきた。もちろん何も考えてないわけじゃないけど!
ひとまず流星に見つかる事はない場所とはいえ人通りはあるし、今日はさっさと家に帰すほうが良さそうだ。


「家、近えの?」
「え…?」
「ももこん家。外が嫌ならそっちのほうが安心なんじゃね」


ももこはちょうど帽子の陰から俺の顔が見えるくらいまで顔を上げた。


「…歩いて10分かからないくらい」
「ん。じゃあ行こう」
「えっ、」
「俺が上がっても良いならだけど…嫌なら家まで送るだけにする」
「………」


もう一度ももこが顔を下げた。俺が家に上がり込んでやましい事を考えるのでは、と心配しているのだろうか。


「……べつに俺、何もしねえし。ももこが良いって言うまでは」


正直なところ、ももこに触りたい・もっと知りたい、という欲が全く無いと言えば嘘になる。
例え相手がももこでなくたって、女の子の家に上がれば俺の性欲は健全な若い男の平均値(もしくはそれ以上)まではぐんぐん上がるだろう。けどそれは俺の本能の話であって、理性はちゃんと働かせる自信はある。

しばらく反応を見せなかったももこだったが、「こっち」と言いながら静かに俺の右腕を握った。





ももこの言うとおり10分くらい歩くとワンルームマンションにたどり着いた。ちゃんとロビーにはセキュリティが付いているし、宅配ボックスが設置されている。俺が住んでる部屋より家賃が高そうだ。

8階の角部屋に到着するとももこが玄関の鍵を開けた。何も変な気持ちはないけど、ももこに気付かれないようにごくりと息を呑む。自慢じゃないけど一人暮らしの女の子の部屋に入るのは初めてだから。


「…お邪魔します」


中に入ると、とても普通の部屋が現れた。「普通」と言うのは「俺の頭の中にある想像どおりの女の子部屋」という意味。
極端に派手でもなく質素でもなく。しかし、じゅうたんやカーテンの色は暖色系だ。「これに座って」と出されたクッションはふかふかだったので、俺がこれに全体重を乗せていいものか悩んでしまい結局床にそのまま座った。

それから俺たちは会話がないままどのくらいの時間が流れただろうか。ももこに出してもらったコーヒーがぬるくなった頃、突然インターホンが鳴った。


「わ、」


俺もももこも同時に声を上げた。


「……誰だろう…」


ももこが呟いた。その言葉の裏には「まさか流星じゃないよね」という恐怖心がありそうだったので、そんな事は無いだろうと思いつつも俺は立ち上がった。


「俺、出てもいい?」
「………うん」


廊下にカメラと応答ボタンがあるのを教えてもらい、「はい」と押してみるとマンションロビーに運送会社の制服を着たおじさんが立っているのが映った。
「さくら様からのお荷物です」と彼は言う。そう言えばももこの苗字はさくらだったなぁと思い出し、実家からの仕送りか何かかと思いオートロックを解除した。

すぐにその人は8階まで上がってこれたようで、ぴんぽーんと今度は玄関からの音が鳴る。


「出てくる」
「…うん」


女の子宛に届いた荷物を代わりに受け取るなんて彼氏みたいだ。一応彼氏なんだけど…。

がちゃりとドアを開ければやっぱり緑色の制服を着た宅配員の人で、「さくらさんのお宅でしょうか」と言うので頷くと荷物を渡してくれた。宛名が女性の名前なのに俺が出ても怪しまないのかな?と思ったが玄関には女性ものの靴ばかりだったから信用されたのかも。


「…親からじゃねえの。宅急便」


差出人の苗字は「さくら」となっており、その後に女性の名前が続いていたので母親からの贈り物かと思われた。
ももこは俺が渡したダンボールを受け取り、じっと見つめながら焦点の合わない目でそれを見下ろす。


「そっか…そういえば…メール来てたかも。荷物送るねって」


彼女の様子からして、そのメールへの返事はしていないらしかった。いつごろ届いたメールなのか知らないが、きっと少し前のややこしい時期だったのだろう。

座り込んでべりべりとガムテープを剥がし、ダンボールを開ける背中はいつもより小さく見える。が、これを俺が手伝うのはなんだか違う気がしたので黙って見ていた。

やがて現れた中身を見たももこはすっかりしゃくりあげていて、親からの荷物とか手紙って不思議なパワーがあるもんだよなと思いながら俺はベランダのほうへと歩く。遮光カーテンの隙間からはいりこんでくる夕日が眩しくて思わず目を細めた。


「……何やってるんだろうね。何やってたんだろ…お母さんに言えないよ…こんなの…」


ももこは鼻水をすすりながら言った。「こんなの」とはこれまで過ごした約半年間の、「実は学校に行かずに色んな事をしてました」という事実だろう。親が知ったら悲しむに違いない。隠し事をされていた事も、隠されていた内容も。でも、全てをそのまま話す事が果たして正しいのかは分からない。


「…言わなくても良いじゃん。言うの辛いだろ」
「……けど、」
「言いたい事とか、吐き出したい事あったら代わりに俺が聞くし…」


親の代わりなんて務まるのか分かんないけど。俺だって自分の親の代わりが誰かに務まるとは思えないし。


「代わりで、いいの?」


いつの間にかももこは涙が止まり、今日初めてその目をしっかりと開いた状態で俺を見上げていた。

元彼の代わり、親の代わり、何かの代わりである状況の今、俺は胸を張って彼氏だとは言えない。ももこを無視して気持ちを伝える事だってしたくない。けど、「代わりでいいの?」などと質問されてしまったら答えは一つしかない。


「やだよ」


驚いた様子が無いところから察するに、俺が何と答えるかをももこは恐らく分かっていた。


「でも無理やり押し付けんのは良くないと思うから。だから今は代わりでもいい」


今は、の部分を強調したのがももこに伝わってしまっただろうか。
今はまだいい。流星のことをすぐに忘れろなんて思わないし、言えないし、出来るとも思わない。だから今は代わりでいいのだ。…代わりでいいというのは嘘で、ほんとうは「まだ代わりの役目しか出来ない自分」であるのを隠すための、紛らわすための言葉である。


「けど俺は…ももこの事は…誰かの代わりだと思ってないから」
「………」


瞬きもせず俺を見上げるももこの瞳が揺れる。あ、続きは言わないほうが良いかもしれない…と思った時にはもう遅くて、床に座るももこの目の前まで足を進めていた。


「少なくとも俺だけは、」
「……木兎、待って言わないで」


言わないで、と言うのが聞こえたのと同じタイミングで膝をつく。俺を押し返す素振りは無い。拒否しないならこのまま言う。「代わりでいいの?」というたったひとつの質問で、俺の感情を抑えていた蓋を取り払われたんだから。


「俺はそのままのももこが好き」


着飾らなくても派手じゃなくても、親に隠し事があっても過去に夜の仕事をしていても。俺の知らない場所で起きた過去の事なんか、俺がももこを好きになる事には関係の無いものだ。

ももこは母親からの贈り物で流した涙がやっと止まったところだったのに、また別の理由で泣き出してしまった。

張りつめた上を均すのは