13


朝日が昇るころ突然目の前に現れた人がとても眩しかったので、まだホテルのベッドで夢を見ているのかと錯覚した。
根拠はないけど自信だけは有り余っているであろう彼が私に近づいて来て、分厚い手のひらが肩に置かれる。その力はとても強く、身体全体を包まれているような優しさだ。本当はもう充分過ぎるほどに伝わっていたのに。


「…馬鹿な人って言われない?」
「よく言われる!悔しい事に!」
「やっぱり」


やっぱりこの人、馬鹿なんだ。「馬鹿」とよく言われてしまうほどに馬鹿正直なのだ。きっと木兎の周りが彼を馬鹿呼ばわりするのは褒め言葉なんだろう。

しばらく両肩に木兎の体温を感じながら呼吸だけをしていると、空は明るくなり車の音なども聞こえ始めた。どうやら1日が始まる。今日は火曜日で平日だ。


「学校は?」
「二限から」
「……朝からなんだ。ごめんね」
「別にそんな事…」


木兎の声は彼自身のお腹の音でかき消された。身体が大きいぶん胃袋も大きそうだしスポーツをしてるって言うから、朝ご飯を食べなければ授業は持たないだろう。
木兎が私の何かになってくれるなら、私も木兎の助けになる何かをしなくちゃいけない、のだと思う。今私に出来る事はあまり思い浮かばないけど、取り急ぎ胃袋を満たすための力になる事とした。


「朝ごはん食べにいこ」
「えっ?今から?」
「お腹空いてるんでしょう」


私が聞くと、木兎はぽりぽりと頬をかきながら頷いた。男の人ってこんなに可愛らしいものだっけ。





朝早い時間も開いているお店に入ると、ちらほらと早起きの人が見受けられた。
世の中の人は今から1日を開始するのに私は通常この時間に1日を終えている。しかも大抵はアルコールのせいで頭ががんがんに痛んで記憶も定かではない状態だ。

今日はそんな痛みよりももっと、頭の中に色んな感情が溢れてしまって破裂しそうな感じだった。それが破裂する事なく留められているのはこの人のお陰なんだと思う。たぶん、おそらく。


「ほんとに好きなもん食っていいの!?」


朝ごはんのメニューだから安いものばかりだと言うのに、木兎はきらきらと目を輝かせていた。余程お腹が空いているんだろうな、私なんかをあんな場所で待っていたんだから。


「いいよ。好きなだけ」
「いや、でも、でも…俺あんだけ威張っといていきなり飯食わしてもらうとか…超カッコ悪いじゃん」


ぶつぶつ言いながらもページをめくり、ご飯を大盛りにするかどうかを悩む彼の姿はひとつも格好悪くないと思う。
…前の私ならダサイなあ、変な人だなあと感じたのかも知れないが、こんなの可愛らしいもんじゃないか。誕生日に何十万円もするプレゼント、それも一晩で消えてしまうようなものをねだる事に比べれば。


「お願いだからいっぱい食べて。私のせいで寝てないんだからご飯くらい」
「でも、でもだなあ」


木兎はまだうんうん唸っていた。彼なりのポリシーのせいで心が揺らいでいるようだ。


「…木兎は私を埋めるための何かになってくれるんでしょ」
「うん。なる」
「じゃあこれが第一歩だと思ってよ。私は今、木兎がお腹いっぱい食べて元気になるところが見たい」


そうすればとりあえずはひとつ、木兎への恩返しをする事が出来るから。これから先彼がどれほど私に構ってくれて何を与えてくれるのかは分からないが、せめて一晩ぶんの罪滅ぼしをさせて貰いたいのだ。
そこまで伝えてしまったら木兎は拒否するだろうから言わないでおくけど。


「…お前、変なやつだな」
「あなたに言われたくない」
「へ!そーかよ」


じゃあ思いっきり食うから覚悟しろよな!と木兎はメニューの端から端まで見渡し始めた。本当に、あなたにだけは「変なやつ」なんて言われたくない。あなたのほうがよっぽど変だ。

「そんなに食べるの?」と思うほど大量のご飯を注文し、そのすべてを平らげるとさすがの彼もすぐには動けないようだった。しかしまだ二限目開始までは4時間以上もあるというので急ぐ必要は無いらしく、慌てる様子は特に無い。
そんな事よりたぶん、私に聞きたい事が沢山あるのだと思う。私も沢山ある。木兎に聞きたい事が。


「リューセイとはホントにもう終わった?」


でも私が何かを聞く前に、木兎から痛いところを突かれる。
実はまだ流星との仲がきれいさっぱり終わったという訳では無いのだ。私が彼の連絡をずっと無視しているだけだから。それを包み隠さず伝えると木兎は腕組みをして考え始めた。


「…や、まあ、よく考えたら俺がどうこう言える立場じゃねえんだけどさあ…あの女の子も知り合いなんだろ」
「……」


美麗ちゃんの事だろうな、確かに知り合いどころか同じお店で働いている女の子だ。
あの時の事を思い出すとどうしようもなく惨めな気持ちになるのと同時に、木兎に恥ずかしいところを見られてしまったという情けない気持ちも溢れてくる。流星が当たり前のように自分だけを好きなんだと勘違いしていたんだもん。


「…もういいの。流星とは連絡取らない」
「え、でも」
「家も知られてないし大丈夫。お店にだけは辞めますって電話するつもり」
「……わかった」


流星とは思い返せば甘い言葉を吐かれたのと同じくらいの喧嘩をしたし、湯水のようにお金を使っていた記憶しか無いのだ。全部無駄だったとまでは思わないけれど、この数か月間私は何を考えて何をしていたんだろうなと若干途方に暮れる。
もしも私がこの途方もない事実にたった一人で気付き我に返ってしまったなら、どうなっていたんだろう?そちらのほうが恐ろしい。


「…正直、まだ混乱してるけど」
「うん」
「………ほんとに正直なところ、今すっごく惨めな気持ちだけど」


私が話すのを木兎は反論せずに聞いていた。「惨めとか言うなよ!」なんて言われるもんだと思っていたけどあまりに静かに、私の目を見て聞いている。その木兎と目が合った時、心の底からこう思えた。


「私、木兎に会えて良かった」


これが私の素直な気持ちだったのだが、なぜか言葉にすると照れくさい。言ってから気付いて恥ずかしくなってしまったけど、木兎の目の色は変わらず真剣だった。


「俺も」


…やっぱりこの人に真っ正面から関わるのは、まだ私には早いみたいだ。どうして木兎が私と出会えたことを「良かった」と思えるのか、そんな要素見つからない。今朝まで知らない人の隣で寝ていた私には刺激が強すぎる。今日はそろそろ一人になりたい。


「…そろそろ行こう。木兎、ちょっと寝た方がいいよ」
「ん。…俺もそう思う」
「近くにネカフェあるから。お金出すからそこで寝て」
「え!?そこまでは…」
「いいから」


今日だけは彼にこれ以上の負担をかけてはならない気がして、半ば無理やり納得させた。なかなかの意地っ張りなんだな、私も彼も。

お店を出るとすっかり日が昇っており、通行人の数は増えていた。その人の波に埋もれながら、近くのインターネットカフェへと歩く。疲れているのか木兎は静かだったけど、ふと思い出したように言った。


「…なあ」
「ん?」
「…あの…ずっとタイミング逃してたんだけどさ?連絡先教えてくんねーかなって…」


何を言い出すのかと思ったらそんなこと。そう言えば木兎の連絡先を知らないのだった。それなのに今まで偶然に偶然が重なり、何度も出くわしていたのか。
もちろん承諾して電話番号を伝えると、メッセージアプリに新しい友人として木兎の名前と画像が出てきた。


「…木兎…光太郎」
「そ。それ俺」
「木兎って苗字だったんだね」
「そりゃそうだろ!下の名前だと思ってたのかよ」
「うん。珍しいなって思ってた。言わなかったっけ?」


ボクトっていう漢字もこんなふうに書くんだなあと感心した。同時に私は木兎のことを何も知らないなと気付く。きっと木兎も私のことなんて何も知らない。何も知らない相手のことを私たちはどうしてこんなに考えていられるのか不思議である。


「…あり?」


木兎も画面に私の名前が出てきたのを確認したらしく疑問の声をあげた。


「さくら……ももこ。」
「そう。それ私の本名」
「ほんみょう!?」
「ももかっていうのは源氏名なの」


言ってなかったっけ。言ってなかったか。だってお客さんと会っている最中とか、出勤前にしか会っていなかったんだから仕方ない。


「何だよお前!俺に商売用の名前教えてたってのか!」
「商売用って…だってこんなふうになるなんて思わなかったんだもん」


ごめんねと謝ると木兎はまだ少しむくれていた。何がそんなに嫌なんだか、ちゃんと教えたんだから良いだろうに。


「…ももこ」


ぼそ、と木兎が私を呼んだ。


「何?」
「…何もない!呼んだだけ!慣れるために」
「ふふ、そう」


私の本名に慣れるためにって、おかしい人だなあと思って思わず笑みがこぼれる。木兎ってほんとうに変な人だ。
私が笑っていると木兎がまた静かになったので、どうしたのかなと見上げれば彼はじっとこちらを見ていた。なんだか希少な生き物を見つけたかのように。


「……どうしたの?」


声をかけるとすぐに木兎は前を向いた。


「なんでもない…」
「ふーん」


背の高い木兎が真ん前を向いてしまうと確かな表情は見えないけど、悪いことは考えていないんだろうしまあいいか。
そうしているうちに駅前のインターネットカフェに到着し、運良く木兎もメンバーズカードを持っている系列店だったらしく安堵した。


「じゃあ、ここで」
「おう」
「起きて、ちゃんと学校着いたら教えてね」
「母ちゃんかよ。いいけど」
「だって私のせいで今日、」
「あーー分かった!俺は別にお前のせいなんて思ってねえけど。連絡しろってんならするから!そういう発言は金輪際ナシで」


木兎の太っとい指が私を指した。そんなに強く言われては首を縦に振るしかない。


「…はい。」
「ん。じゃあおやすみ、ももこ」


木兎はひらひら手を振って振り返ると、ビルの中に入って行った。

今、さらっと自然に私の名前を呼んだよね。今までもももかと呼ばれていたけどやっぱり何か胸の奥がむずがゆい。
きっと慣れない名前を呼ばれたからだろうなあと思いながら「おやすみ」の言葉を返したけど、すでに木兎の姿は見えなかった。…木兎光太郎、かあ。

かなしみからの蘇生法