12
赤葦と別れた後、向かう場所はただひとつであった。
「とりあえずあの辺行く」と赤葦に告げたところ「連絡先知らないんですか?」と呆れられたが、それは自分でも後悔している。聞くタイミングは過去に何回かあったのにそれをしようとしなかった。聞いたところで素直に教えくれたかはどうかは分からないけど。
だからももかの住む場所も連絡先も知らない俺は、これまで彼女と出会った場所を探して回るしか無かったのである。
「…腹減った。」
情けないことに空腹で足が止まる。赤葦とオムライスを食べたのは何時間前だったろうか、すっかり夜になり歓楽街のイルミネーションが点灯し始めた。
こうなるとヘアセットを終えた女の人が増え始め、ももかも同じようにしていたとすると判別しづらくなってしまう。何か手がかりが無いだろうかと思った時に赤葦の言葉が思い出される。「男とヤリまくってんじゃないか」?
どうしようもなく胸がちくちくするのはきっと、彼女を特別な人として捉えているからなのだろう。…または単純に俺はももかの置かれる状況に同情しているだけなのか。
どちらにしてもももかの事を必要以上に構う理由としては充分じゃないだろうか。そんなの後から考えればいいんだし。
わざとそのような事で頭の中を満たしながら、あまり足を踏み入れた事の無い道へと入る。
飲み屋のネオンとはまた違う雰囲気の看板が建ち並び、ひとりで歩く俺でさえもその空気だけで下半身が疼いてしまうようだった。
寄り添って歩く男女、待ち合わせをしている女の子、それに声をかける男、そのままホテルへ入っていく二人。これからあの二人はどんな行為を繰り広げるのかと息を呑んだ時、その息は一気に吐き出されそうになった。
「ももかちゃんですか?」
誰か知らない男の声がももかの名前を呼んだ。思わず向こうからは見えない位置に身を隠す俺。
「うん。あなたはアオキさん?」
「そうそう」
ももかの声だ。こんなところで男と待ち合わせ。まさか本当に赤葦の言う通りだったのかよとショックを受ける暇はない、このまま目の前のホテルに入ってしまうに決まってる。
「ももか!」
もう相手の男にどう思われようが関係ない。道に飛び出しながら名前を呼ぶと、まさにホテルのロビーへ入るところだったももかの足が止まった…ような気がしたが、そのまま振り返ることなく中に入ってしまったではないか。
慌てて追いかけると二人で受付みたいなところに居て、男がももかを先に部屋へ行くよう促しているようだった。そうは行かない。
俺も続けて自動ドアをくぐりロビーに入ってももかを追いかけようとすると、ホテルのスタッフが立ちはだかった。
「すみません。お一人でのご利用はご遠慮頂いてまして」
「俺は利用しません!あそこの…」
あそこの女の子と話がしたい、と言おうとしたら既にももかはエレベーターで上がってしまっていた。
「…あのう…」
スタッフは訝しげに俺を見た。明らかに俺は別の男に女を取られた負け組に見えるだろうけど、今はそんな事言ってる場合じゃない。
「今の女の子、俺の友だちなんで!そういうの辞めてもらえませんか!」
「……はあ?」
「連れて帰るっつってんの!」
ももかと待ち合わせをしていた男に向かって言い放つが、そいつは首を傾げるのみだった。俺がやってる事はそんなにおかしい事か?好きだった彼氏以外のやつと簡単に夜を迎えようとする女の子を引き止める事が。
俺は絶対に間違っていない。それなのに先ほどから俺の前を動かないスタッフは、大きなため息をついた。
「…申し訳ないですけど、それ以上は営業妨害で通報しますよ」
「……は?何でだよ…」
営業妨害だなんて心外だ。言い返してやろうと手を出しかけた時、運良く受付の電話が鳴る。そのおかげで俺の頭は冷静さを取り戻すことが出来、取り返しのつかないことにならずに済んだのだった。
しかし、それ以上の動きを見せなくなった俺を見て男はエレベーターに乗り込んでいく。それを追いかけることはもちろん出来ず、試合に負けた時なんかとは違う惨めな気持ちに襲われながら外に出た。それとともに、半ばやけくそになって固い決意が芽生えたのだ。
◇
もしも隣に黒尾とか夜久が居るなら「張り込み捜査みたいでアガる」なんて言うんだろうなと思いながら、眠気と空腹と暇に耐えながら過ごした時間は8時間くらい。
朝の4時ごろ、ホテルの中からは始発で帰ろうとする人の影がちらほら見える。はたまた朝まで飲み明かしたカップルは今からホテルに駆け込んだり。
ももかがいつになったら出てくるのかは分からなかったけど、火曜日の今日は2限目からだし大丈夫。俺は体力があるほうだし、と言い聞かせるけどやっぱり外で時間を潰すのはかなりの労力だった。
そろそろ限界かもしれない、と立ちながらうとうとしていると(自分でも器用だとは思う)、話し声が聞こえた。
これまで何組かの男女の声を聞いたけど、俺の眠気を吹き飛ばすことの出来る声の主はただ1人だ。
一気に目が冴えてももかの声が聞こえた方向を覗き見ると、ホテルの真ん前で男と別れたようだった。最悪の場合尾行しなきゃならないかと思っていたから都合がいい。さらにももかは男と別れた後、俺のいる方向へと歩いてきたのだ。
もう邪魔者は居ないだろうと確信し、俺は道路の真ん中を陣取った。
ももかは下を向いて歩いているから前方に居る俺の存在に気づかない。が、さすがにぶつかりそうになれば気付いたらしく反射的に顔を上げた時、やっとその目を見ることが出来た。
「……ぼ…」
「おはよ。」
まずは朝の挨拶からってわけじゃないけど、もう朝日で明るくなり始めているので少しの皮肉を込めて言った。ももかは目を見開いて俺を見上げている。無理もないけど。
しばらく言葉も出ないようだったので何かを話し出すまで待っていると、ももかは黙って俺を避け歩き出してしまった。ここに来て無視なのか、この俺を。
「待てよ!」
今が朝の4時過ぎだとかなんだとか時間帯のことは無視して叫ぶと、ももかは足を止めた。
「………何か用?」
まだ数歩しか離れていないので小さな声でも聞き取れると思ったのだろうか。それとも声を出す気力もないのだろうか?ももかはゆっくりと振り向いたけれど斜め下を向いたままであった。
「お前何やってんだよこんなところで」
「それはこっちの台詞だし」
「俺の台詞だよ!」
やや食い気味に言ってやると、やっとももかの視線が俺を捕らえる。さっきまで驚きの表情だったその目には「不快」の二文字しか浮かんでいない。
「……何?好きにしろって言わなかった?私の勝手でしょ」
まだ俺のことを敵みたいに認識されているのが悲しいが、そこはぐっと堪える。言い合いになったら前みたいになるだけだ。
ももかは俺の事を睨んでいたがすぐに顔を逸らして、けれど足は動かなさなかった。
「彼氏は?」
あの時あそこで目にしてしまった男とはどうなったのか、まずは自分の説得はちゃんと届いていたのかを確かめる。
「知らないよ。捨てられたんじゃないの……昨日からずっと無視してるもん」
ももかは吐き捨てるように言ったがそれは俺にとって朗報だった。第一段階クリアである。クリアと言ってもたった今知らない男と過ごしていた事実は消せないのだが、次の質問だ。
「……仕事は?」
「サボったけどそれが何?」
これも攻撃的な答えだったけど、とても好都合ではないだろうか。
「…分かった。じゃあ丁度いい」
「はあ?」
俺が一歩ずつ近づくと、ももかは警戒こそしなかったが眉間のしわは深くなっていった。でも本当に丁度いい機会ではないか。この世界から足を洗うには。
「そのまま夜の仕事辞めろよ」
「………え…?」
深くなっていたももかのしわが一気に伸びて、久しく見なかったまん丸い目の形になった。説得完了までもう少しか?しかしそう簡単には行かず、再びももかは疑問を浮かべる。
「……こんな時間まで、そんな事言うために待ってたの」
眠そうな顔をしている俺をとても馬鹿らしくて呆れる奴だと思っているに違いない。でも彼女の言う通りだったから否定することも無い。正しい事は正しいと貫くのが俺なんだから。
「そうだよ。悪いか?おかげで腹が減ってるし一睡もしてねえぞ俺は」
「…………」
ここまでやってるんだからいい加減素直に受け取ってくれよ、俺の考えていることを。
けれどももかは大きく息を吸ったので、また強気に言い返してくるらしい。
「…仕事辞めたら…どうなるの?学校もサボりっぱなしだよ。彼氏には別の本命が居てピエロみたいじゃん。これで仕事辞めたら私何も残らないよ」
「そんな事ないだろ」
「あるよ!」
ももかの高い声に驚いて、近くの木で眠っていたらしい鳥がばさばさと羽ばたいて行った。
彼女の言い分はとてもよく分かるし全部否定せずに聞き入れたいのは山々だ。そうすれば楽なんだろうから。
でもそれじゃあ何も変わらないからこうやって俺は身を削っている。俺が削った分を埋めてくれなきゃフェアじゃないだろ。
「…言わせてもらうけど俺だってただの学生でお金も無いし彼女居ねえし、お前と違って見た目にも恵まれてない」
「…何言ってんの……?」
「俺たちは何も無い同士だろって事」
「………」
ももかはそこからしばらく何も言わなかった。考え事をしているのか、過去を思い返しているのか。けれど俺に向けていた鋭い視線はなりを潜めて、やがて自嘲するように呟いた。
「……なんか…どうしようもないね。何も無いんだね私たち」
それは自分、または俺への当てつけで言った事かも知れないが。
何も無いってことはむしろ、要らないものとか余計なもので溢れていた今までよりも良い事だ。
「…何も無いなら作ればいいだろ」
「え?」
ももかは不思議そうに俺を見上げた。
「俺がお前の何かになる。何かは分かんねえけど…ももかが楽になるための何か」
何をどうするのが適切なのかは分からないけど、少なくとも絶対に今よりは良くしてやれると確信する。自分の気持ちを押し付けることになるのかも知れないが、どこかで見ている神様だって「構わない」と言うはずだ。だって、何も無い者同士で寄り添う事の何がいけないと言うのだ。
ももかはまたも黙り込んだ。拒否されるのかなと思ったがその表情は先程よりも穏やかで、それが少しだけ俺の心にも春めいた空気を舞いこませた。秋なのに。…もうすぐ冬なのに。なんだか凄く暖かくなってきた気がする。
「………ちょっと…考える…」
下を向いてももかが呟いた。俺も「うん」と返すと彼女は顔を上げて、今度はしっかり俺の目を見る。そしてもう一度。
「私、ちゃんと考える」
もう少しだ。もう少し、俺が彼女の何かを埋められるまで。
ぼくらのイーブン