10
「木兎、終わったぞー」
月曜日。もう11月だというのに、嘘みたいにはつらつとした天気だ。
昨日のことが全部夢であったかのような明るい声が室内に響いている。ここに居る全員、腹の底では何を考えてる分からないっていうのか?どうも信じられない。そんなのおかしい。俺が間違っているのかももかが間違っているのか分からない。
「オラ木兎。行くぞ」
「いてっ」
黒尾が参考書の角で俺の頭をつついた。痛いところで突きやがってと少々腹が立ったが、すでにこの教室内は生徒の入れ替えが行われており俺は邪魔になっていたらしい。ここは信じられないほど平和だ。
けど、昨日のあれは現実なのだ。今もどこかで誰かが誰かを騙し、浮気をしたり不倫をしたり、世界はそんなに綺麗じゃない。
正直言ってそんなのドラマの世界だと思っていた、または俺には関係の無い遠い場所で起きている事。
「そんな顔するくらいなら、追いかければ良かったんだよ」
昼休みはいつも三人で過ごしているので食堂のテーブルをひとつ陣取っているが、俺の浮かない顔を見て黒尾はため息をついた。夜久も会話には参加しないけど頷いた。
「…だって俺、赤の他人じゃん」
「じゃあ、どこからが知人なわけ?」
「知るか」
他人と知人の境界線なんて分からないけど、面と向かって「赤の他人」と言われてしまったのだから俺は彼女から見て他人なんだろう。俺から見ればもう、他人とは言い難いけど。普段こんな小難しい事を考えないもんだから頭が痛い。
「その子が傷つくのは嫌だなって思ったら、それはもう他人じゃないだろ」
しばらく我関せずな様子だった夜久が言った。
「………そうかな?」
「俺はそう思うってだけだよ。個人的にはあの子に恨みも好意も無いけど…他人の為にそこまで怒れるお前を尊敬するわ」
そう言うと夜久は食堂のトレーを持って立ち上がった。後はもう好きにしろよ、と言い残して。
「他人の為か」
他人って何なんだろうなあ。そりゃああの子の名前しか知らないけど。住んでる場所も何もかも謎のままだけど。あのままじゃ絶対に駄目なんだ。彼女から見た俺がいくら滑稽であろうとも、俺は俺が正しいと感じた事をすれば良いんじゃないのか。
「がんばれ、赤の他人さん」
夜久の後を追って立ち上がった黒尾も去り際に背中を叩いて行った。相変わらずずるい奴だな。
◇
今まで自分が楽しいと思える世界しか見た事がなくて、高校時代に付き合った女の子も普通の子。俺の女の子との関わりなんてその程度のものだ。
バレー部のマネージャーはそういう対象じゃなかったし、大学に進学してからも講義や色んなことに追われていた。だから突然出会った女の子との運命的(とまでは言えないか?)な再会や、その子が会うたびに明るい顔や暗い顔など色んな表情をしてみせるのも、慣れた様子で俺の身体に触れるのも、俺の心をくすぐった。
彼氏は凄いやつで、彼氏の為なら何でもできるよって顔をして、まあ幸せなら良いのかなって思っていたけど。全然幸せじゃないじゃん。
「………はあ」
どうも一人で考え込むのは苦手だ。大学に居れば夜久や黒尾が色々と相手をしてくれるし、高校の時はバレー部員が世話を焼いてくれていた。「頑張れ」と一人で放り出されるのは初めてなのだ、情けないことに。
こんな時赤葦なら、「ややこしい事に首つっこまない方が良いのでは?」と言うだろう。俺の人生史上最大にややこしい。
今、頭の中を一杯にしているのが水商売の女の子だなんて信じられない。自分とは住む世界が違うと思っていた部類の子だ。でも話してみるとそのへんの女の子よりも脆くて、それを隠すために着飾っているかのような、張りぼての自分を演じているような。
「何かと思えばそんな事ですか」
さっきの俺以上に大きなため息をついたのは我が自慢の後輩、赤葦京治だ。結局最後にはこいつの助言を聞きたくなってしまって、受験戦争と春高予選を戦う高校三年生の赤葦を呼び出してしまった。
「ややこしい事に首つっこまないほうが良いのでは?」
そして、俺の予想と一言一句同じことを言った。さすがというかなんと言うか。
「…やっぱりそう思う?」
「分かってるならいちいち呼び出さないで貰えませんかね…」
「だってさあ」
「俺よりも頼れる友人が居るでしょう」
頼れる友人は二人とも、あとは俺の判断に委ねるといった状況だ。大学生にもなって女の子の扱い方、仲良くなり方に悩む俺の世話なんか焼きたくないだろうし。
「……けど、また特殊な人を好きになっちゃったんですね」
「そうなの。それなのよ」
「奪っちゃえばいいんじゃないすか」
かしゃん、と手元で音がした。
食べていたオムライスのスプーンを皿の上に落っことしたのだ。だって赤葦が、赤葦の口から、そんな。
「………なんて?」
「奪ったらいいんですよ」
赤葦は涼しい顔で復唱した。俺がびっくりして眉をぴくぴく動かすのを見て「ふ」と笑みを漏らすと、赤葦もオムライスの続きを食べ始めた。
「……いつの間にお前、そんな大胆な」
「好きな子にはいつでも大胆なんで」
「うわあ」
「その顔やめてもらえません?」
いやいやだって、まだ中学校を出たばかりの可愛い後輩だと思っていた赤葦がいつの間にか2年生になり副主将、気付けば3年生になり主将、俺に向かって野性的アドバイスをしてくるなんて。
悔しいやら誇らしいやらでまたもや手が止まった俺に「食わないんですか」と無表情で指摘をしてきた。食うに決まってるだろ俺の奢りなんだからな。
冷めないうちにとがっついていると、赤葦は既に食べ終えたようで口元を拭きながら言った。
「どうせ俺が何言ったって、木兎さんの頭にはその人が居るんでしょ。しかも彼氏に二股かけられてるんでしょ。奪うとか奪わないは置いといて、ショックで自殺でもしないように見張ったほうが良いんじゃないですか?」
思わずぶはっと吹き出した。一気に違う次元の物騒な話になってしまったから。
「………じ、じさつ!?それはヤベェ!」
「あくまで例えですからね?最悪の場合って意味ですからね。あと米が飛んでくるんで飲み込んでから喋ってください」
「いや、自殺…いやいや、それは」
全く無いとは言い切れない気がする。漫画とかドラマとかで、何かにストレスを抱えて自殺したり失恋して自殺したりするのを見た事があるし。
その時は「恋愛が上手くいかないくらいで」と思っていたけど、ももかの状況は結構残酷だ。第三者の俺だって何度も耳を疑ってしまったし。
「自殺は無いにしても、そういう心の傷ってなかなか埋まらないと思います」
赤葦は俺の口から発射された米粒を払いながら言った。
「…お前なんなの、恋愛上級者…」
「そういう訳じゃないですが、心配なら会いに行ったほうが良いんじゃないですか」
「う、うん」
「心の傷を身体で埋めようとしてるかも」
「!?」
今度はかろうじて吐き出さなかったけど、それってどういう意味だ。身体で埋めるということはつまり、良くない意味だよな?
「男とヤリまくってるかも。って意味です」
せっかく米が飛ばないように口を閉じて噛んでいたのに、また赤葦の顔面に吹いてしまった。
その手は世界を熾せるか