09
とりあえず、外に出ないと。
ひとりきりで部屋に閉じこもっていたら嫌な事ばかり考える。いったいホストクラブで誕生日にシャンパンタワーをするなんて、いくらかかるの?でもそのイベントで私がそれをすれば流星の売上は上がる、私への評価も上がる、自慢の彼女だと思ってもらえる。
あといくら必要なんだろうか、私のささやかな貯金と、娘は変なバイトなどせず勉学に励んでいると思い込んでいる親からの仕送りと、お客さんから貰えるお金と、給料と、あと何を足せば彼に満足してもらえるんだろう。
休みの日にも出歩く場所は、私の働く店のある近辺だった。けれど流星もあの近所に住んでいるから、もしかしたら出会ってしまうかもしれない。面と向かってバースデーイベントの話なんかされたら、私はもう断れない。彼にずぶずぶと嵌っていく。もう抜け出せないところまで来ているのに、さらに深く。
だから今日は、お店に向かうのとは逆方向の電車に乗った。そちらならまかり間違って流星や知り合いに会うことも無いだろうと思って。
この選択は幸だったのか不幸だったのか、この時の私にはまだ分からない。
◇
日曜日、つまりお店が休みの日、私はごくごく普通の女の子になる。
完成までに時間のかかる派手なメイクはせずに、無理なミニスカートなんか着ずに、大学にちゃんと通っていた頃の状態となる。正直言ってこのほうが落ち着くのだ。錆びたお面をつけているような見栄を張るよりも。
でも、この「普通の私」で勝負したって好きな人は振り向いてくれなかった。私の友達と浮気をして、その子を孕ませ、一緒に退学していったのだ。
それならばと私は自分を変えて、どうすれば男の人が私を見てくれるのか研究して、あの姿を作り上げた。流星はその私を可愛い、好きと言ってくれるし、いつも猫なで声で優しく接してくれる。そう、こんなふうに。
「すんげえ可愛いな、その服」
ぴたりと足が止まった。
これは流星の声にそっくり。そっくりどころじゃない、ほんの数時間前に電話で聞いた流星の声そのものだ。まさかこんなところに来ているのかと声のする方向を向くと、人混みが邪魔で見えない。空耳?そんはずはない。いつも彼が私を褒める時の声を聞き間違うわけはない。
何人かの人間の頭の向こうに明るめの茶髪、最近染め直した流星の髪色が見えた。やっぱり居るんだ!何してるんだろう、もうすぐ見える…と思った時に、誰かに腕を引っ張られた。
「いっ………!」
すごい握力と腕を引く力で思わず悲鳴が出て、誰なんだと顔を上げれば流星ではない別の男の顔があった。
「……ぼ…木兎?」
「何で居るんだよ、お前…」
「へ?」
何で居るんだよ、はこっちの台詞だ。私がどこで何をしようと勝手だし、木兎のほうこそいつもと違うこの駅前で何をしていると言うのか。
そんなことより流星が今そこに居たんだから、何をしているのかとても気になる。誰のことを褒めていたのか、お客さんとのデート中なのか。
「離して、流星が今…」
「離せない」
「は?離してよ」
「い…嫌だ、無理」
背伸びをして前を見ようとしてみたけど、背の高い木兎が目の前にいるので邪魔だ。何度か左右に動いたところ木兎も私に合わせて左右に動いたので、わざと通せんぼをしているのだと分かった。
「……なんなの?」
苛々して木兎の顔を睨みあげる。女慣れしていない彼は「う…」と弱気な声を出した。と、動きを止めた木兎の肩越しについに流星が見えた!
「あ、流星…」
私が声を出した時、木兎がまた邪魔をしようとしたけどもう遅い。
見えてしまったんだから。いつも格好いい自慢の彼氏が、私の働く店のナンバーワンと寄り添って歩いているのを。
「…………みれいちゃん」
その瞬間に雑音がすべて消えた。
どうして美麗ちゃんが流星と一緒に居るんだろう。だんだんその二人の姿以外は霞んで見え始める。そして二人の会話しか耳に入ってこなくなった。
こんなに周りには人が居るのに、驚くほど鮮明に聞こえてきたのだ。
「誕生日何が欲しい?」
「べつにー、美麗が居れば何でも」
「嘘つきぃ」
「プレゼントはお客さんに貰うしなあ」
流星の誕生日の話をしているようだ。美麗ちゃんも流星へのプレゼントを渡そうとしているって事は、私たちは同じホストを指名する者同士だったって事だろうか?
「ももかちゃんにも何か買わせるの?」
「アイツに余裕があればって感じかな」
「あんまり意地悪しちゃ駄目よ、病んでお店休まれたら困るんだけど」
ひやりと身体が冷えた。頭の中にいくつかのシナリオが浮かぶ。
「………」
「ももか、行こ?もう行くぞ」
木兎が私を呼んでいる気がしたけど、その声は頭に入らない。
そんな事より今、流星と美麗ちゃんが何を話すのかが気になる。私の話をしている。私が流星のお店に通っているのを美麗ちゃんが知っている?どうして、いつ?
そして、脳内に浮かんだシナリオのうち一番最悪なものが流れ始めた。
「ももかは世間知らずだし、俺が頼んだらハイハイ聞いてくれるんだよね。そのうち風俗行ってくれるかもね」
そしたらガッツリ稼いでもらってパーっと金遣わせなきゃ、と、流星はあの綺麗な顔でにこやかに笑った。その隣には見目麗しい女の子が腕をしっかりと組んで、CM女優も顔負けの可愛らしい笑顔で流星を見つめてる。
…これは何かのドッキリだ。きっとそうだ。そうだよね?
「………ももか……」
「…何それ」
遠ざかる二人を見ながら私の足は張り付いたように動かなかった。追いかけるべきなのか、いや、追いかけても意味は無いのか、誰に聞けばいいんだろう。
そんな時、となりに木兎が居ることをやっと思い出した。私は無表情のまま木兎に聞いた。
「何あれ」
「……お、俺もさっき見つけて、そしたらお前が居るからビックリして」
しかし木兎からはまともな答えが返ってこない。それが余計に私を冷静にさせた。
「……美麗ちゃん、私が…流星と付き合ってること、知ってたんだ…」
そして今目の前で起きたことを言葉にして、自分の頭に理解させようと声に出す。
「…美麗ちゃんがホントの彼女なんだ」
おそらく私は呪文でも唱えているかのように淡々と呟いていたのだろう、木兎が私の肩を揺らした。
「な、もうやめろよ。あいつと付き合うの」
「……でも…でも…」
「あんな事言う奴おかしいだろ」
いつもの元気な声ではなく、低く強い声で私を説得しようとしているらしい。
でも、木兎に何が分かるんだろう。木兎は美麗ちゃんと会ったこともないし、流星と話したこともないくせに、今の会話だけを見て流星を「おかしい」と決めつけるなんて、そっちのほうがおかしいじゃんか。
「…わかんないよ…嘘かもしれないじゃん、美麗ちゃんに嘘ついてるのかも」
「まだそんな事言ってんのかよ」
「木兎には分かんないよ!関係ないんだから黙ってて!」
初めて私は声を荒らげた。力任せに声を出せば何かが覆るのでは、と思ったから。
肩に置かれた木兎の手を振り払って睨み付けると、木兎はたじろぎながらももう一度私の肩を掴んだ。力が強い、さっきよりも。
「俺は関係ないけど…でも知ってる子が騙されんのは見てらんねえから」
「知ってる子?赤の他人じゃん。私とあんたは他人!何にもない!ほっといてよ」
「嫌だ」
「は?何で!?」
木兎はいつも綺麗なことばっかり言う。「そうだったらいいな」という理想的なことばかり口にする。それをそのまま行動に移せる人間なんて居ないのに。根拠の無いことを何も知らない人に言われるのは腹が立つ。
「……それは…よく…分からないけど」
ほら、やっぱり分からないんだ。
「意味分かんない。そういう所がムカつく。自分の周りには綺麗なものしか無いと思ってる!みんな何考えてるのか分かんないのにさ!」
「それはお前の周りだけだろ」
「じゃあ木兎もそうだよ」
「俺は違う!」
ぐっと木兎の手に力が入り、私の肩に痛みが走る。肩を握り潰されそうな力だが、その痛み以上に私の頭はごちゃごちゃになっていたので感覚が麻痺していた。
何でそんな事、私に向かって目を逸らさずに言ってのけるのか。たった今、盛大な事実を突きつけられた私に向かって。
「……嘘つき。信じないから」
きっと木兎も私を良い気にさせて、陰で笑うつもりに決まってる。馬鹿な女が男に騙されて風俗落ちしそうになったのを、話のネタにするんだ。世の中そんな人間ばっかりだ。
指の一本一本に力の込められた木兎の手を引き剥がし、身体を離すと互いに少しだけよろめいた。
私は自分の頭が混乱しているのをどのように落ち着かせれば良いか分からず、木兎の身体を力任せに押してやった。彼は後ろの壁にぶつかって、それでも私に何か声をかけようとしていたみたいだけど、もうそんな声掛けは要らない。とにかく目の前から消えて欲しい。
「…分かったよ…勝手にしろよ。知らねえからな、どうなっても」
数秒間の睨み合いが続いた後、木兎が視線を外した。その目が何故か悲しそうだったことに私は気づけなかった、自分の事で頭がいっぱいだったから。
泣き虫うさぎは嘘を吐く