08


日曜日の朝、遅めの起床。寝転んだまま大あくびをして思い切り伸びをすると、右手にごつんと何かが当たった。ベッドの脚だ。
ここは黒尾鉄朗の部屋で、俺は時々黒尾家に世話になっている。話し込んで帰るのが面倒臭くなったり、こいつの家の方が大学に近いという理由で。


「んあー、おはよ」
「はよ」


俺が黒尾のベッドにパンチ(わざとではない!)をしたお陰で揺れたのか、黒尾も目が覚めたようだ。
気だるそうに起き上がったこいつの頭は既にいつもの髪型になっている。実際目の当たりにするまで信用できなかったが、これはセットじゃなくて寝ぐせと言うのは本当だったのだ。


「…首いてえ。寝違えたんだけど!」
「知るか。つーか俺は木兎の寝言がうるさかったんですけど」
「それはスマン」


昨日は遅くまで身体を動かして、さらにこの部屋で話が弾みまくって疲れていたらしい。盛大に寝言を発していたようだ。…どんな寝言だったんだろ?


「なあ黒尾、寝言って何言っ」
「ッあー!うるせえぞお前ら!」


俺の言葉を遮って叫んだのは夜久衛輔だった。今日は俺だけでなく夜久も泊まっていて、同じく地べたに敷いた布団で寝ていた。しかし俺と黒尾の声が大きいせいで、こちらも起きてしまったらしい。


「ごめん夜っ久ん」
「夜久がこんな時間まで寝るなんて珍しいな」
「仕方ねえだろ。木兎の寝言がうるさくて寝付けなかったんだよ」


やっぱり俺は他人の睡眠を妨げるほどの寝言だったらしい。


「俺どんな寝言だった?」
「単にむにゃむにゃ言ってた。」
「えー」
「あー腹減った…何か食いに行かね?」


黒尾の提案に俺も夜久も賛成した。黒尾の母親には昨夜の風呂とか布団の用意とか諸々してもらってるから、食べ物まで世話になるわけには行かない。今日は日曜日だし主婦も休みたいだろうから。主婦の気持ちとか分かんないけど。





「何食おっかな」


もう昼時で、大きな街に出ると人でごった返していた。わざわざ人の多い場所に来る大切な理由は無いが、大学生になった俺たちはとにかく行動範囲を広げたいのだ。


「んー…回転寿司。とか」
「回らない寿司がいいな」
「いつかはなー」


そんな大層なものを食べられる日が来るんだろうか、真面目に生きて働けば。なんて考えていると目の前にちょうど立派な店構えの回らない寿司屋が。
値段の違いはどうなんだろうなぁと、店の中を覗き込めないかどうか立ち止まってみた。


「木兎ー、そんなに寿司が食いてえの?」
「いーや………、あり?」


その時、がらっと店の戸を開けて出てきた人物に見覚えが。女の子を連れている。誰だったっけ?そいつは俺たちには目もくれず、連れの女の子と手を繋いで歩きだした。

…誰だ。もうすぐ出てくる、名前がすぐそこまで来てる。


「美味しかったあ、流星ありがとー」


連れている女の子がうきうきした様子で言った。そうだ!流星だ。


「……あれ…?」


流星といったらあの子の、ももかのカレシだっていう男だ。何で別の女の子と歩いてるんだろう、それも手を繋いで?まるであの二人が付き合っているみたいだ。
しかも今出てきた寿司屋は俺たちには手がでないような、回らない寿司を食べられる店。デートってやつか?彼女以外と。浮気ってやつ?


「木兎、何をさっきからブツブツと」
「…黒尾、夜久。ちょっと付き合って」
「あ?どこに」
「尾行!」
「は?」


二人の返事を聞く前に俺は歩き始めた。前を歩く流星と女の子との一定の距離を保ちながら。後ろから黒尾と夜久も追いかけてきて、突然寿司屋の前から消えた俺を不思議がっていた。


「どうしたんだよ木兎…」
「アレ!あいつ、ももかの彼氏」


前の二人に聞こえないように、黒尾と夜久に指さしながら説明した。黒尾はなんとなく察したらしいが、夜久はまだちんぷんかんぷんのようだ。


「あの、隣の女の子がももか?」
「あれは別の子!」
「じゃあアレは誰だよ」
「それを尾行して調べんの!」
「何で木兎が」
「何でもっ」


何でかなんて自分でも分からない。けど、ももかが色んなものを捨ててでも一緒に居たいっていう男が、こんなところで別の女の子を連れているなんてとても嫌な予感がした。ホストが女の子と遊び歩くのは普通かも知れないけど、なんとなく嫌な予感が。

しばらく二人の背中を追いかけていると、ある場所で立ち止まった。灰皿の置いてある喫煙スペースだ。
煙草くさいのは苦手だけど、不自然じゃない程度に近づいて会話が聞こえる場所までたどり着いた。


「もうお腹いっぱい、苦しいー」


女の子のほうが、そう言いながらお腹を押さえてけらけらと笑った。ものすごい美人だ。黒尾も「おお…」と見とれている。夜久は煙草がすごく苦手らしく、鼻をつまんでいた。


「流星、もうすぐ誕生日だね」
「そうそう。そしたら俺ら同い歳」
「オッサンだネ」
「んじゃ美麗はババアな」
「ちょっとー」


とても和気あいあいとした会話だ。女の子のほうは「ミレイ」と呼ばれている、あの顔にぴったりの名前だな。


「木兎、腹減ったんだけど」
「……しー」
「…んだよ…後で説明しろよな」
「分かってる…」


素直に静かになってくれる黒尾と夜久に感謝しながら、聞き耳を立てる。喫煙スペースなのに煙草の一本も取り出さない俺達は不自然かもしれないが、二人寄り添って喋っている彼らには気付かれていなさそうだ。


「バースデーイベントやるの?」
「もち。ももかも呼ぶ」
「ももかちゃん呼ぶの!?かわいそぉ」


二人の口からももかの名前が出たのを聞いて、思わず声が出るのを堪えた。けれど身体が動いていたらしい、無意識に一歩前に出ようとした俺を黒尾が止めた。


「木兎…」
「…しずかに…」


ごくりと息を呑む。黒尾もももかの名前を聞いてなんとなく察してくれたようだった。


「けどももかちゃんも、そこそこ客呼んでるから稼ぎ良いと思うよ。私ほどじゃないけど」
「そりゃ美麗に適う女は居ねえわな」
「ふふ。私もお祝い行ってあげよっか?盛大にシャンパン降ろすよん」


あまりこういう業界の話は分からないけど、ももかが話していた事と合わせれば理解できた。
お客さんが自分に遣う金額が、高額であればあるほど評価される。誕生日にお祝いをすると言うのはつまり大金を遣うということだ。

この女の子も流星にお金を注ぎ込もうとしてるのか?と思ったけれど、流星はミレイという子の申し出を拒否した。


「来なくていいっつの!彼女に働いてるとこ見られんの嫌だわ」
「ももかちゃんだって彼女じゃーん」
「あいつはイロカノだって。ホントの彼女に金遣わせるわけねーじゃん」


ぴりりと何かが破れる音がした。
その音は耳で感じたのではなくて、たぶん、俺の頭の中で響いたんだと思う。だから口で伝えなくては、隣に居る黒尾と夜久に。頭の中が真っ赤に燃えて今にも身体中で感情を表現してしまいそうだと言うことを。


「………やばい。」
「あ?」
「やばい…」
「木兎?」
「やべ、俺、やばいかも」
「おい?」


ちゃんとした言葉は出てこなかったが最低限の事は伝えられただろう。この俺の声を聞いてくれれば。


「黒尾、俺の腕思いっ切りつかんで」
「………はい?」
「じゃねえとココで乱闘する」


きっと俺の声は相当震えていて、俺の顔は相当青かったのだろう。ぎょっとした黒尾はまだ状況を呑み込めていない夜久にも声をかけて、二人して俺をそこから引き離した。

なんだ今の、なんだあいつ、なんだそれ。あの会話だと、女の子のほうもももかの事を知っていた。ももかが流星と付き合っていることも。けれど今の様子だと、あのミレイという子が流星の本当の彼女だ。

訳が分からなくなってきた。ただひとつ分かるのは、ももかがこの事を知ったらひどいショックを受けるだろうという事。

仕組まれた日常の中で