黒尾鉄朗


音駒高等学校バレー部の部室は、あまり綺麗ではない。女子マネージャーがせっせと掃除をしてくれることもなく(そもそもマネージャーは存在しない)、部員が率先して雑巾がけをすることもなく。主将も主将で特に綺麗好きという訳ではなく。だからいつもドアを開ければなんとも言えない香りが漂ってくる。

しかし夜久衛輔が本日ドアを開けてみると、いつもと違うなあと感じた。


「はよーす」
「はよ…お?」


中には主将の黒尾鉄朗がただ一人居て、なんと部室内のごみを集めているところだった。
夜久はぎょっとして、黒尾に高熱でも出ているのか、どこかから操り人形みたいな糸が垂れているのではないかと様子を伺ったがどうやら違う。


「何ですか夜久くん、その顔は」
「お前こそ何だよ、その所業は」
「所業って失礼な…」


黒尾は大きなごみ袋を置き、マスクを外すと肺に酸素を取り込んだ。
普段マスクなんかしないくせに、こんな息苦しそうな事をしてまで掃除に徹するとはどうも変だ。夜久は鞄をロッカーに入れて着替えを始める前に、このおかしな行動について聞いた。


「何で急に掃除なんか?しかも一人で」
「…んんー。聞いてくれる?」
「あ?…あー、んー、いや。なんとなく分かったからいいわ」
「聞けよ」
「嫌だね」


頭の中にぴんとひとつの可能性を見出した夜久は首を振って拒否したが、どうせ同じ室内に滞在するのだ。勝手に黒尾が喋り出すと嫌でも耳に入ってくる。仕方が無いので着替えながらそれを聞くことにした。


「実は昨日、すみれがさ…」


すみれというのは黒尾鉄朗の恋人で、夜久もよく知る人物であった。同じクラスの女の子である。
黒尾が前々から彼女に好意を持っていて、一ヶ月ほど前にふたりは交際をスタートさせた。惚気話がやっと落ち着いてきた頃かと感じていたのに。夜久はこっそりとため息をついた。


「……って言われて。」
「おう。悪い聞いてなかったわ」
「てめえ!」
「もう一回言って」
「…だからさ、昨日すみれがさあ…」


夜久が話を聞いていなかったのを怒るのもそこそこに、黒尾は再び話し始めた。彼にとって恋人の話を何度も口にするのは苦ではないのだ。

今度こそ黒尾の話に耳を傾けると、どうやら彼女である白石すみれは綺麗好きらしい。部室がすごい事になってるんだよと笑い話をしていたところ、「それは主将が綺麗にするべきでは?」と指摘を受けたらしい。

だから普段掃除なんかしないのに、彼女に良いところを見せようと張り切っているのだそうだ。


「ちょろい男だな」


ため息とともに夜久は言ったが、これも黒尾にはあまり聞こえていないようだ。聞こえていたとしても、ちょろくて上等だと考えているのだから。


「けど、いくら掃除したって白石がこの成果を見る事は無いんだろ」


夜久の言うとおり、男子バレー部の部室に部外者の女子が入ることは出来ない。と言うことは万が一この部屋が新築なみに綺麗になったとしても、それをすみれが見る事は無い。


「それが問題なんだよ。まさかこんな男臭い汚ねえ場所に連れてくるわけにも行かねえし」
「…言っとくけど男臭くて汚ない代表はお前だからな?」
「それは彼女が居ない僻みですか?」


やんややんやと騒ぎながらも黒尾は考えていた、自分の成果を彼女に見せて「どうだ俺もこんな事が出来るんだぞ」と胸を張りたいと。

夜久はそんな事はどうでも良くて、しかしどんな理由であれ部室が清潔になるのは嬉しいことであった。
大きな男が小さくかがんで隅々まで掃き掃除をし、ごみを広い、窓拭きをしているのを黙って見ているのは気が引ける。夜久もなにかを思い立ったようで、無造作に投げられていた雑巾を拾った。


「え、やっくん何すんの」
「俺もやる」
「えっ!?」
「部室は綺麗な方が良いだろ」
「……惚れそうなんだけど」
「黙れよマジで」


そして、黒尾の惚気話を聞きながら窓を拭いたり壁を拭いたりしているうちに部員が集まり始めた。

新たな部員が部室に入ってくる度に「二人して何やってるんですか」と騒いでいたが、最上級生が掃除をしているのに後輩が何もしないわけには行かない。結局その日はみんな集まると、部室にとどまらず体育館や倉庫、用具のケアで朝練は終わってしまった。





着替えてから教室に向かうと、すでにすみれは席に座っていた。しかし、彼女だけでなくクラスの何人もが黒尾と夜久の姿を見て口をあんぐり開けていた。


「…ふたりとも…顔、真っ黒なんだけど」


やっと声を出したすみれの言葉にはっとして、差し出された手鏡を見てみるとさあ大変。互いに顔のあちこちが、それに制服のそこかしこが汚れていた。


「…きったね」
「つーかお前言えよ、俺の顔に何か付いてんならよ!」
「夜っ久んこそ俺の顔が汚れてんの気づいてたくせに」
「まあまあ…」


朝のホームルームが始まる前から声量の大きな二人を前に、クラスメートたちは苦笑い。

すみれは鞄からティッシュやらハンカチを取り出して、それぞれを黒尾と夜久に使うよう言った。いくら女の子とはいえ、さっとこれが出てくるなんて良くできた女の子だと夜久は思った。当然ながら黒尾も同じ事を感じていた。


「夜久はトイレで洗ってきてくださーい」
「ヤですー」
「は?そのティッシュあれだぞ?俺がすみれにあげたやつだぞ?それ使うの?」
「駅で配ってたヤツじゃねえかよ」
「すみれ、なんか夜久に優しすぎね?」


ハンカチで顔を拭きながら黒尾が訴えた。同じクラスで同じ部活、そして実は夜久のほうがすみれと知り合ったのは早かったので、黒尾は何かと夜久の存在を意識している。
夜久はそんな黒尾にうんざりしていた、すみれには特に恋愛感情など抱いていないから。


「ていうか、なんで汚れてるの?」


すみれも黒尾と夜久への接し方の差なんてどうでも良かったのか、そもそもどうして汚れを纏って教室に来たのかを聞いた。


「…それが、朝行ったらこいつ…」
「わーーー夜久!ちょっ恥ずかしい」
「え?何?」
「なんだよお前うるせえな!白石にイイカッコしたかったんだろうが!」


そこで、夜久はあっと息をのんだ。これって言っちゃいけない事というか、黙っておくほうが良かったかもしれない。


「…私にイイカッコって?」
「いや…」


黒尾はとても言いづらい事であったが、すみれに言われて初めて部室の掃除に手をつけたことを告白した。それを夜久やほかの部員が手伝ったことも。
夜久はそれを「本当は不言実行にしておきたかったのかな」と思いながら少しの申し訳なさに襲われた。


「…と、言うわけで…情けない話なんですケド」


黒尾が話し終えるとすみれは首をかしげた。今の話のどこが情けなかったのか理解出来ていないようである。


「掃除は苦手って言ってなかった?」
「…え、うん。でもすみれが…綺麗好きじゃん?率先してやれって言われたから」


そのように答えると、これは少し失敗だったかなと感じてしまった。黒尾自ら掃除役を買って出たわけでなく、「すみれに言われたから掃除をした」と思われる可能性がある。まさにその通りなのだが。
それでもすみれは自分の言葉が彼を動かし、掃除を行った事にとても満足しているらしい。


「なんか感動した。苦手なのに掃除頑張ったんだね」


と、目を輝かせながら黒尾を褒めたのだった。


「…それ感動するトコ?」
「夜久ー水を差さないでくださーい」
「感動っていうか感激したよ!毎日頑張れ!」
「ま、毎日…」


自分の部屋ならまだしも、男だらけの汗臭い部室を毎日自分で掃除するのは御免だ。
夜久は引きつった笑いのみをすみれに返し、あとは黒尾に任せようと彼を見上げたが、どうも目の前の彼女の輝きに放心しているようにしか見えない。


「…最高じゃね?綺麗好きで褒め上手の彼女。おまけにかわいい」


すみれが自分の席に戻るのを見送りながら、黒尾が夜久に耳打ちした。綺麗好きで褒め上手で可愛い彼女が最高だ、というのはもちろん同意見だが。


「じゃあ毎日掃除頼むわ」


そんなに素晴らしい彼女に褒められるのはさぞ光栄な事だろう。毎日するならお前ひとりで頑張ってくれ。
夜久が黒尾の背中を叩くと途端に黒尾は背中を丸くした。


「…夜久くん。当番制にしません?」
「………」


すみれはまだ見栄っ張りの主将の本来の姿を知らないのだろうか。付き合って一ヶ月だから無理もない。

もちろん自分が毎日掃除をするのは御免被りたいが当番制なら、と夜久は了承した。黒尾が彼女と上手くいっているうちは、部室が綺麗に保たれるだろうから。

必要十分痛み分け

なな様より、お惚気がえぐい黒尾・というリクエストでした。あまり上手に惚気を書けずに申し訳なさ一杯ですが、とにかく夜久との会話は書いてて楽しかったです…黒尾って掃除嫌いそうだなぁと感じたところから生まれました(笑)ありがとうございました!