白布賢二郎
就職し、やっと仕事もなんとなく覚えて要領を得始めたかなと思い始めたころ。
休む暇もなく次は新入社員の入社時期となってしまった。私がこの会社に入ってからいつの間にか1年が経過していたのだ。
本社での研修を終え、うちの支社には六名の新入社員がやって来た。男性四名、女性二名。よかった女の子もいる、私の時は同期の女の子が居なかったから苦労したものだった。
新入社員がやってきてから二週間が経った頃に歓迎会と称する飲み会が行われるのは毎年のことらしい。金曜日の夜、主任が予約していたらしいお店に集まっての乾杯が行われた。
「白布賢二郎です。宮城県出身です」
と、手短な自己紹介が印象的だった彼は端のほうに座っていた。飲酒はしているもののあまり進んでいないらしく、もしかしてお酒が苦手なんじゃないかと心配になる。先輩たちは皆んな、車を運転する人以外にはお酒を勧めていたし。
ちょうど私の隣の女の子がお手洗いに立ったので、少し声をかけてみようかなあと彼の方を見ると目が合った。
「あ」
思わず声をあげたがそれは白布くんには届いておらず、がやがやとした居酒屋の空気にかき消される。
見たところ目が虚ろなわけでもないしお酒が苦手とか、弱いとか、そういう感じでは無いのかも。突然女の先輩が出しゃばるのも微妙だよなあと思い、その時は彼に近づくのをやめておいた。
◇
それから1時間ちょっとが経過し、一次会はお開きとなる。この後別のお店に行くかどうかと話している人もいたけど、私は明日、家の用事があるので帰宅する事になっていた。
「白石さん行かないの?」
「あ…はい。明日の朝、母の買い物に付き合わなきゃいけないので」
これは嘘ではなく本当の事で、免許を持っていない母の代わりに車を出す約束をしている。
しかし、ありのままを伝えたのだが先輩は納得しなかったようだ。「ちょっとくらい行けないの?」と食い下がってくる。まずいなあ、そろそろ終電なんだけど。
「すみません、俺、明日は午前中に荷物が届くのでここで失礼します」
そこへ、新入社員の白布くんは涼し気な顔で言った。彼は宮城県から出てきて一人暮らしで、何かの荷物が届くらしい。
「そっか。じゃあまた月曜な、これからよろしくな!」
「いてっ、はい」
少し酔っ払った先輩が強めに彼の背中を叩き、白布くんは「いてっ」と言った。
大人しい顔をしているくせに普通の男の子みたいな声出せるんだな、と失礼なことを考えつつ自分が帰るための策を必死に練る私。すでに他の先輩たちや二次会参加が可能な新入社員たちは、次のお店に向かって歩き出していた。
「先輩、私も帰りたいんですけど」
「白石さんも荷物届くの?」
「いや、届きませんけど!」
「えー」
「あの、終電がですね…」
ここから駅まで歩いて五分ちょっと。少しだけお酒を飲んだ私の足だともう少しかかるかもしれない。余裕を持って行動したい派の私はだんだん苛々し始めてしまったんだけど、まさか先輩に苛々をぶつけるわけにも行かず。
困り果てていたところに、突然助け舟がやって来た。
「あの、すみません」
会話に割って入ったのは白布くんだ。まだ帰ってなかったのか、と思うほど彼の存在が頭から消えていた。
「俺、越してきたばかりでここから駅までの道分かんないんです」
「え?なんだ、方向音痴?」
「まあ、そうですね…恥ずかしながら」
全く恥ずかしそうな顔をせずに白布くんが答えた。しっかりしていそうなのに、方向音痴だなんて意外だ。
「だから白石さんも電車なら、一緒に駅まで行ってもらえると助かるんですけど」
白布くんは私の顔をちらりと見てから先輩に言った。
さすがに新天地に越してきたばかりの彼を放り出すのは悪いと思ったのか、先輩は納得したらしい。私を連れて行くのは辞めて、えへんと胸を張った。
「そうかー。白石!本日最後の仕事を振ってやろう!駅まで送ってやれ」
「え、ええ」
「あれ?皆もう居ないじゃん!」
そして、すでに全員次の店を目指して遠くまで行ったことに気づいたようだ。先輩は「じゃあまた」と手を振り、よろめきながら走って行った。大丈夫かなあ。
「あの人、大丈夫ですかね」
白布くんも同じことを思ったらしく、先輩の背中を見ながら苦笑いした。
「大丈夫だと思う。男の人だし」
「それもそうですね。じゃあ帰りますか」
そして、振り返りすたすたと歩き始めた。そういえば私も終電があるんだった、と彼の後ろを追いかける。
しかし白布くんが駅に向かって真っ直ぐに歩いて行くので、なにか違和感を感じた……駅までの道が分からないって言ってなかったっけ?
「…白布くん」
「はい」
「道、分かるの?」
「はい。すぐそこじゃないですか」
「あれ?……でも、さっき…」
確かに言っていた、道が分からないから送ってほしいと。どうやらあれは嘘だったらしい。私が帰りたがっているのを感じ取った白布くんが機転をきかせてくれたのだ。
「…ありがとう」
「べつにいいですよ」
それから特に会話もせず歩き続けること五分、駅に到着した。
ここはいくつかの出口があるんだけど、こちら側から入るのは初めてなので路線の場所が分からない。案内板を見ながら探していると白布くんが呆れたように言った。
「方向音痴ですか?」
「いや…駅のこっち側、あんまり来たことなくて…」
「あっちですよJRは」
「え?あ、ほんとだ」
これの指差す方向には確かにJR線と書かれており、終電まではまだ10分弱ほど余裕を持つことが出来た。白布くんてこの辺りに来たばかりなのに、えらく詳しいんだな。
「詳しいね白布くん」
「俺もJRなので」
「へえ……あれ、ていうか何で私がJRだって知ってんの」
「どうしてでしょうね」
ふんわりした回答をしながら白布くんがICカードをかざし、改札を抜けた。私もそれに続き、いくつかある路線のうち自分の乗るべき路線のホームへ向かう。
白布くんはどの路線なのかなと様子を伺っていると、同じ方向に進んでいるようだ。
「…もしかして同じ路線?」
「正解です」
ホームへの階段を登りながら、白布くんも同じ電車に乗るのだと知った。電車で彼の姿を見たことがあったっけな?まだ二週間だし、朝は人が多いから気付いていなかった。
「どこの駅なの」
「白石さんのふたつ向こうですよ。いつも大慌てで乗ってきますよね?」
「…え。」
さっと血の気が引いた。彼の言う通り私は毎朝ぎりぎりに家を出て、大急ぎで駅まで早歩きをし、ダッシュで階段を登って電車に乗り込んでいる。セットした髪も化粧した顔も、たぶん電車に乗るまでに崩れているだろう。乗車してから鏡を取り出して、髪型だけは手ぐしで整えているのだ。
今朝なんか特にひどくて、風で髪が大変なことになっていたのを慌てて直した記憶がある。それも見られていたのだとすると、かなり恥ずかしい。
「毎朝笑わせてもらってます」
「……わ、笑っ…?」
ていうか、毎朝?驚いて顔がひきつった私を見て、彼は到着した電車に乗りながら「今朝もそんな顔してましたね」と笑った。
なんという事だ。恥ずかしくてどこかに消えたい。しかしここは最終電車の中なのでどこにも逃げ場はない。次からもう少し早く起きるかなあ。
その時、電車が突然揺れた。一日ヒールを履いて疲れきっていたのと飲酒をしていたおかげで私は踏ん張ることができずによろめいてしまった。
「わっ」
近くに吊革も無いもんで、電車の揺れのまま私の身体はぐらりと傾き視界はスローモーションになった。
ああお酒を飲んで電車内でずっこけるなんてお嫁に行けない。…と諦めかけて目を閉じた瞬間、誰かが私の腕をつかんだ。
「大丈夫ですか?」
誰かが、というか一緒に乗っていた白布くんが、とっさに私の腕をつかんで助けてくれたらしい。まあ、その顔は救世主のそれではなくて明らかに呆れ顔だったけど。
「…大丈夫…です」
「酔ってます?」
「いや…まあ、ちょっとだけ?たぶん」
体勢を直しながら、自分の酔いのまわり具合を確認した。そんなに視界は揺れてないし、頭もくらくらしないから大丈夫だろう。
すると白布くんが再び私の腕をつかんだ。いきなりどうしたのかと白布くんを見ると、そのまま私の手を彼の腕へと持っていく。
どうやら、掴んでおけという意味だ。
「降りるまで捕まってて下さい」
「え、悪いよ」
「尻餅ついても助けませんよ」
「う、」
もしも次に電車が揺れて私が転けそうになった時、また白布くんが上手く腕をつかんでくれるとは限らない。
となると私は派手に転んで尻餅をつき、最悪の場合、角度によってはスカートの中を晒してしまう。それはいけない。仕方なく私は白布くんの腕を頼ることにした。
しかし、彼の腕をつかむとそれまで普通に会話をしていたのが途切れてしまった。何故って、細身に見える白布くんの腕が思ったよりもがっしりしていたからだ。ひとつ歳下の新入社員の男の子、としか思っていなかったのに。彼は今日、何度も私を助けてくれた男性なのだ。
「そろそろ着きますよ」
そこで白布くんが、間もなく私の降車駅に着くことを教えてくれた。いつの間にか白布くんの腕をつかんだまま数駅過ぎていたらしい。
もう離さなきゃいけないのか、なんて少し残念に思ってしまった。それが私の手にも伝わってしまったようで、白布くんの腕をつかむ手にぎゅううと力が入る。
「白石さん、力が強いんですが。」
「あっ、ごめ…」
何やってるんだ私は。新入社員の彼にいきなり迷惑かけて、先輩としてしっかりしなければ。これから白布くんに仕事を教えることもあるんだし。
やがて電車が減速を始めた。この手を離すのが名残惜しく感じてしまったけど、ゆっくり力を抜いて「ありがと」と告げると白布くんは「いいえ」と顔色を変えずに答えた。ああ、私だけ舞い上がっているみたいだ。
電車が完全に停車し「ドアが開きます」のアナウンスと同時に私は鞄を持ち直す。すると、耳元で白布くんが言った。
「ここまでです。残念ですけど」
「……え」
いま、残念って言った?聞き返したくて彼の顔を見上げると、白布くんは私の顔を見て少しだけ笑ったような気がした。
「……白布く…」
「早く行って」
しかし、白布くんは私の背中を押して電車を降りるように促した。そりゃそうだ、これは終電なんだから降りなきゃ帰れない。
人の波に従って電車を降り、新たに人が乗り込んでいく電車の中の白布くんを探す。彼は先程よりも少しだけ奥に居て、降りる私の姿を追っていたのかしっかりと目が合った。途端にどくりと私の心が波打つ。
(おやすみなさい)
動き始めた電車の中で白布くんが口パクしたのを見て、私の酔いは本日最高潮に達してしまったらしい。頭がくらくらして顔が火照って、まだ肌寒い夜の気温に晒されてもなかなか冷めない。
ああ、もう、だめだ。
月曜日からちゃんと早起きしなければ。
ハングオーバー注意報
綾瀬まぉさまより、白布くんと歳上社会人設定・というリクエストでした。付き合ってる設定がいいかな、と思ったんですが「いや待てよ…悪くないぞ…」というシチュエーションが浮かんで(笑) 白布好きのまぉさんに気に入って頂ければ幸いです。ありがとうございました!