赤葦京治


すみれがこのあたりに引っ越してきたのは確か幼稚園に入る前か、そのくらいの頃。
すみれの両親が我が家の隣に一軒家を購入し、お隣さんとなった俺達は同い年だった事もありいつも一緒に遊んでいた。小学校や中学校も同じ公立に通い、小学校の時のスイミングスクールも同じ。この関係は誰がどう見ても「幼馴染み」である。


「けーじー」


インターホンを使わずに玄関のドアを開けたのはすみれで、ちょうど俺も家を出るところだったので玄関で鉢合わせた。「おはよう」と声をかけると「おはよう」と返ってくるのを聞きながら靴紐を結び、俺たちは一緒に出発した。

毎朝このように朝早く一緒に登校する理由は、俺はもちろんバレー部の朝練があるからだ。すみれはというと中学のときからテニスを始めて、梟谷学園のテニス部に入ったので同じく朝練のためである。


「もうすぐ練習試合なんだって?」
「うん。音駒とだけど」
「ああ、いつものとこね!」


学校までの道のりでは部活のことや勉強のこと、互いの家や兄弟のことなどを話す。

会話なんか無くても苦ではない関係だが、すみれはお喋りなほうなので何かしらの会話をしている事が多い。彼女の声をBGMに登校するのも悪くない。楽しい話や明るい話題が多いので、聞いていて飽きないのだ。木兎さんほどうるさくないし。

ところが突然ある日の夜、このようなメッセージが届いた。


『明日は先に行っといて』


今までも同じ事はあった。テニス部の朝練が無い日や、逆に俺の朝練が無い日なんかは前日までにそれを知らせるようにしている。

だから同じような理由だと思って『分かった』と返信したのに翌日の朝、家を出て駅まで歩いているとすみれがひとりで立っていた。


「すみれ?何してんの」
「あ、京治おはよう」


同じ時間に登校するなら『先に行っといて』なんてメッセージを寄越してくるのはおかしい。
しかし、俺と会っても顔色ひとつ変えずに朝の挨拶をしてくるところからすると、何か俺に知られてはならない事情があるようにも見えない。


「先輩に、一緒に学校行こって誘われて」
「先輩?」
「そう。あ、きた」


すみれが俺の背後からやってくる誰かに気づいたらしく手を挙げた。
このへんに住んでる先輩が居たのか。そう思いながら俺も振り返ったがその瞬間に「振り返らなければ良かった」と後悔した。

先輩って、男かよ。


「おはようございます」
「おう白石、おはよ……誰?」


「先輩」は明らかに俺を見て邪魔だなあという顔をしたが、恐らくすみれは気づいておらず素直に「幼馴染みです」と答えた。

すみれの良いところ、そして悪いところは相手の気持ちをあまり読み取れないところだ。だから俺が今とても気まずい状況だと言うことも、「先輩」が自分に対してどんな感情を持っているのかも気付いていないらしい。


「どうも、テニス部3年のササキです」
「どうもです」
「こっちは赤葦京治。家が隣なんですよー。あ、電車来るから行きましょう!」


すみれが何も考えずに改札へと誘導を始めてくれて助かった。
ササキ先輩はご親切に「3年」という部分を強調して自己紹介してくれた。そしてすみれが俺のことを「家が隣」と説明したおかげで俺とササキ先輩は一瞬にして互いを嫌悪し始めてしまったのである。

すみれは幸せなことに何も気付いていない。俺にとっては非常に不幸せだ、彼女が引っ越してきたその日からずっと好きでいるのを気付かれないのは。挙句、ほかの男と一緒に登校するために俺に『先に行っといて』などと送られてくるのは。

ササキ先輩には悪いが二人きりにはさせるまい。学校の最寄り駅に到着するまでおよそ15分間、先輩とすみれがどの程度親密なのかを伺わせてもらう。


「幼馴染みくんは何部?」
「バレー部です」
「ああ…どおりで…」


と、言いながらササキ先輩は俺の身長を気にしていた。
しかし身長が高いことなんて俺が偶然生まれ持ったアドバンテージなんだから(バレーの世界では胸を張れないし)先輩に対しての勝ち負け要素にはならない。この人だって日本男子の平均身長は越えていそうだから。


「京治はバレー部のスタメンなんですよ!昔から背が高くて、私一回も追い越せなかったんですよね」


それに、俺が何かを言わなくても何故だかすみれが俺のプレゼンテーションをしてくれた。もちろん先輩の顔が引きつっていることには気付かない。
少しだけ申し訳ない気持ちと、自分の鼻が高くなる気持ちが交差して俺は今変な顔になっていると思う。


「俺は別に凄くないよ。何かすみません」
「いや別に……白石、昨日言ってた雑誌持ってきてくれた?」
「あ、はい」


昨日言ってた雑誌って何だよ、と先輩を見るとバッチリ目が合ったので意図的である事を理解した。雑誌の受け渡しなんて混みあっている電車内じゃなくても出来るんだから。

すみれは鞄の中からテニスの雑誌らしきものを取り出すと先輩に渡し、先輩はそれを受け取ってぱらぱらとめくった。


「さんきゅー。今日帰りに何か奢るわ」
「え、いいですよそんな」
「貸してくれるお礼だよ。何がいい?」


こいつやりやがった、俺は眉がぴくりと動くのを感じた。


「えーと、じゃあシュークリームがいいです」
「可愛いなー。おっけー」


そのうち電車は梟谷に到着し、駅で木兎さんやほかのバレー部員と出会ったことで俺たちは別行動になってしまった。
いつも同じ時間にテニス部の女の子たちも来るのでここで別れるのだが、今日は女の子が居ない。すみれは先輩とふたりきりだ。

俺たちの10メートルほど前を歩くササキ先輩とすみれを見ながら苦々しい気持ちで歩く俺を、木兎さんは不思議そうに眺めていた。


「赤葦、寝不足か?」
「違います。機嫌が悪いだけです」
「寝不足よりタチ悪いな」


そりゃあ機嫌も悪くなる。10年かけても「幼馴染み」の域から抜け出せない俺の前で、いとも簡単にすみれを女扱いするササキ先輩を見て正気を保てるはずはない。

彼に恨みはないけれど、…いや、恨みならたった今出来た。

うかうかしてるとすみれがササキ先輩に取られてしまう。ササキ先輩だけじゃなく、もしかしたら他にも彼女に気がある男が居るかもしれない。家が隣でいつでもすみれの様子を伺えているから安心しきっていたが、それもそろそろ限界のようだ。





こんな時、どんな手順を踏んでいけばいいのか全く分からない俺は、どうにかすみれの部屋に行けないかと考えを巡らせた。

両親の迷惑になるから、夜になって互いの家を行き来する事はしていない。が、どうしても今日本当にササキ先輩にシュークリームを奢られたのか、それだけで終わったのか、どこかにデートまがいな事をしていないのかが気になってしまった。
電話やメールではなくて直接聞かないと気が済まない、何か白石家へ行く用事は無いものか。

そんな時救世主は現れた、うちの母親だ。


「京治、ごめん回覧板まわしといて」


常日頃、反抗もせず真面目に暮らしている自分の行いを神様は見ていたのかもしれない。母親から回覧板を受け取って外に出、すぐ隣の白石家のインターホンを押すとおばさんが出てきた。


「あら京治くん、こんばんは」
「こんばんは。回覧板です」
「ああ、ありがとうね〜」
「……すみれは帰ってますか?」
「え?」


おばさんの反応を見て、まずいと思った。俺は今までおばさんに、こんな質問を投げたことが無いからだ。そして、すみれに何の用がある設定にするのかを考えていなかった。


「帰ってるけど、どうしたの?」
「えーと…学校に忘れ物してたんで持ってきました」
「あら!またあの子ったらゴメンなさいね、私今バタバタしてて。届けてやって〜」
「お邪魔します」


はあ、すみれが普段から忘れっぽい女の子で良かった。見事俺は忘れ物を届けるという嘘をつき、すみれの家に入ることに成功したのだ。

最後にすみれの部屋に入ったのはいつだったかな、確か中学のころだ。
高校生になってからはリビングにお邪魔して夕食を共にすることはあれど、互いの部屋までは入っていない。だから階段を一段のぼる事に俺の体温も上昇していくような気分だった。

すみれの部屋のドアをノックすると、中から「はーい」と聞こえてきた。
開くのを待つほうが良いかと思っていたがなかなか開かない。俺は自分でドアノブを回した。


「なにー………え!?京治」
「入っていい?」
「もう入ってるじゃん!どうしたの」


静かにドアを閉めて部屋の中を見渡すと、あまり中学の時から変わっていないようだ。しかし所々に、ちょっとしたメイク道具とか雑誌とか女性らしいものを発見してしまい何とも言えない気持ちになる。

俺の知らない間に女の子らしくなる術を覚えて、俺以外の男をも魅了する子になってしまったのだ。


「今朝の先輩と…」
「え?ササキ先輩?」
「帰りにどこか行った?」


俺は座りもせずに質問した。すみれも、勉強机の椅子から立ち上がったその場で首を傾げている。


「どこかって?シュークリーム食べに行ったけど」
「どこに?」
「へ?」
「すみれ、ササキ先輩の事好きなの?」


今の俺はあまりにも不格好ではないか?きっと第三者が見ていたなら頭を抱えていただろう。俺本人ですらこの質問をした直後に頭を抱えたくなった。


「好きっていうのは…?」
「……ササキ先輩を、男として見てるのかどうかって事」


落ち着け俺、落ち着け。
なんとか心を鎮めた俺は声色を抑えて質問の仕方を変えた。…質問の「仕方」を変えただけで内容はとても余裕のないものであるが。


「…? 何言ってんの?ササキ先輩は男の人だよ、当たり前じゃん」


そういう意味じゃない。俺は一歩ずつ足を進めてすみれに近づいた。すみれは俺に警戒心が無いようで特に動きはせず、目の前に立っても表情を変えずに見上げてきた。

今日この同じような角度でササキ先輩に上目遣いをしたんだろうか。そう考えた途端に我慢出来なくなった。


「じゃあ俺の事は」
「……ちょっと意味が分からないんだけど、どうしたの?」
「すみれは俺のことを男として見てるのかって意味だよ」
「…え?なに、そ……」


すみれは言葉が途切れ途切れになった。突然伸びてきた俺の手が肩に置かれ、小学校で大喧嘩をした時以来の剣幕で俺に迫られているからだと思われる。


「…京治は幼馴染み、だよ…ね?」
「そうだね」


幼馴染みってなんて残酷なんだろう、どんな風に一歩踏み超えればいいのか分からない。幼馴染み専用のルールブックがあればいいのに。


「でも、幼馴染みで終わる気は無いよ」


それなら俺はルールに則り、今みたいに驚きで固まった女の子を無理やり抱きしめることなんかしないのに。彼女の反応を無視して自分の感情をぶつけることなんか。


「…ごめん。そういう事だから」
「どういう事…」
「もう分かったんだろ、その顔は」
「………」


ゆっくりと身体を離すと、やはり固まったままのすみれの眼球が俺を見上げていた。その顔は先ほどのような疑問は浮かんでいなくて、確信を持って戸惑っている。

こんなふうに困惑させてしまって、この子を好きでいる資格なんて無いのかもしれないけど。俺の目の前で先輩と会話し、その先輩がすみれを狙っているのを見せつけられた日にはこうする他に道が無かった。


「明日、俺は一緒に登校したいけどどうする?」


部屋から出る前、未だ無言のすみれに聞いてみると彼女は顔を伏せ「分かんない」と小さく呟くのが聞こえた。


「…だよな。ごめん。ひとりで行くよ」
「…ちょっと考える」
「やめて。考えるとか言われたら期待する」
「ごめん…」
「謝るなよ俺が悪かったんだから。…俺のほうこそ今朝は邪魔してごめん」


百人に聞けば百人とも俺の暴走を責めるだろうに、すみれに謝られるとより一層自分の情けなさが目立った。
このまま俺がすべて悪かったことにして終わらせて部屋を出たい。そう思ってドアノブに手を掛けて退出しようとしたのに、去り際にすみれがぽつりぽつりと話し始めた。


「…ササキ先輩と二人で居るよりは、京治と二人で居るほうが好きだなって思うから。ちゃんと考える。メールする」


そう言って、彼女は部屋のドアを閉めた。

期待するからやめろと言ったのに最後の言葉は俺の期待を煽るものでしか無くて、今夜はとてもじゃないが眠れない。俺の今夜の行動は正しかったのかどうか、判断してくれる基準も無く。

閉められた部屋のドアにかけられた『すみれ』というネームプレートを見つめながらしばらく突っ立っていた。これを小学校の時、彫刻刀を使って一生懸命作ってあげた事を思い返しながら。

運命線からふわりと欠落

匿名希望様より、幼馴染夢主が他の男に取られそうになるのを掻っ攫う・というリクエストでした。まず、掻っ攫えてなくて申し訳ありません…赤葦くんが少し葛藤し過ぎてしまいましたが、きっと結果はハッピーなんです。夢主はこれから赤葦くんを男として意識していく、という設定なのです…。ありがとうございました!