白布賢二郎
私の鞄の中には本来あるべきではないもの、つまり他人の財布が入っていた。
他人と言っても持ち主は白布賢二郎で、放課後なにかの拍子に「持ってて」と渡された時に鞄に入れてそのまま持ち帰ってしまったのだ。
幸い私も彼も寮に入っているので、物理的距離は遠くない。しかし男子寮と女子寮、という越えられない壁がある。
いつもなら朝練で返せばいいかと思うんだけど、こんな時に限って明日の練習は休みなのだ。しかも明日は土曜日で授業も無く、会うタイミングがなかなか難しい。
『持ってきて』
と、賢二郎からのメッセージ。まあ私が返し忘れてたんだから仕方ないけど今は夜の9時だし、基本的に女子は男子寮に入ることは出来ない。逆もしかり。
だからどのように持っていけば良いものか悩んでいたが、考えてみれば夜間入口にいる警備のおじさんに頼めばいいのだ。
「あの、これ117号室に届けてもらえませんか。白布賢二郎の部屋です」
「んー?あ、…あーちょっと待ってね」
そこでちょうど良く電話が鳴ってしまったらしく、警備のおじさんは受電を始めた。「…はい、はい。ええ」と私の顔を時折ちらちら見ながら話しているので、ちょっとすぐに終わる雰囲気ではないようだ。
このまま待っておこうかなと思ったけれど、おじさんは窓口の中から手を出して、ある方向を指さした。そして口パクで「いいよ」と。
そんなに勝手に入っていいのかと焦ったけれど、おじさんの手元にある「出入者名簿」に日付と時間・名前を書くように指で指示されたのでそれだけ記入して、初めての男子寮内を探検することとなった。
しかし117号室は簡単に見つかった。
ちょうど誰にも会わずに辿り着けたので面倒な事にもならなくて、賢二郎の部屋のドアをノックする。
「はい」という声とともにガタ、と椅子をずらす音。勉強でもしていたのかな?間もなくドアが開き、お風呂上がりの賢二郎が現れた。
「……すみれ?ここまで来たのかよ」
「うん。用務員さんか警備員さんが忙しそうで、入っていいよって」
「そう……」
賢二郎は肩越しに部屋の中を振り返り、私を入れても問題ないと判断したのか中に誘導してくれた。寮とはいえ彼氏の部屋に入るなんて初めてなもんで、私もさっきお風呂を出たばかりだしもう少しまともな状態で来ればよかったと後悔。
「これ、財布」
「ありがと。そこ座って、あのー…そう、そのクッションのとこ」
彼の指差すクッション(座布団とも言えそうなくらい潰れているけど太一が潰したんだろうか)に座り、賢二郎も勉強机の椅子に置いたクッションを床に投げてその上に座った。
少し大きめのTシャツ姿なのは、これが寝間着だからだろうか。いつもよりルーズな雰囲気に少しどきどきする。
「それ、部屋着?」
ほぼ同じ事を考えていたらしい賢二郎が言った。私の姿を眼球だけ動かして観察している。
そうだよ、と答えると彼の整った顔は大いに歪んだ。
「そんなだらしねぇカッコで男子寮に来る度胸がすげえな」
「……はい?」
「まあすみれの貧相な身体なんか誰も気にしないだろうけど」
がーん。
そんなの仕方ない。賢二郎の財布は入口で預けるつもりだったから、ここまで入ってくる予定なんか無かったんだし。私だって風呂上がりのだらけた格好で彼氏に会うなんて御免だ。
「…お目汚し失礼しました帰ります!」
「待て」
だこら立ち上がって帰ろうとしたのに賢二郎に引き止められた。
腕を掴もうとしたらしいが少し間に合わなかったようで、服を引っ張られて伸びそう。しかし彼はお構い無しで続ける。
「誰にも会ってない?ここに来るまで」
「………??」
「会ってないか?」
「……会ってない、けど」
「ふーん…」
やっと服を離したかと思うと、今度は私の手首を。…と思えばルームウェアからのぞく脚に手を置かれて思わず身震いした。賢二郎の手が想像よりもひんやりしてて。
「…じゃあこの服を見たのは、俺だけ」
「……そうだけど…?」
ふーん、と言いながら私の脚を撫でる手にびくりとする。賢二郎の手が冷たいんじゃなくて私の体温が上がってるんだ。
視線を落とした彼のまつ毛が美しく揺れるのをいつもならじっくり眺めるのに、今はそんな余裕が無い。脚なんか触られるのは初めてなのだから。
「け、賢二郎」
「うっさい黙れ動くな縛るぞ」
「え」
「黙って」
そのまま少し体重をかけられて、脚に触れていないほうの手が頬にあてがわれる。あれやっぱり賢二郎の手も熱いな、と感じた時にはキスされていた。
いつもより少しだけ長く唇同士が触れ合っている。息が苦しくなってきて肩をたたくと、やっと顔が離れた。
「…隣に声、聞こえないようにして」
「な…なにするの?」
「俺がしたい事をしたいようにする」
「なに!?」
「う、る、さ、い」
そしてもう一度顔を近づけてくる賢二郎。こうして人目を気にせずキスできるのはとても嬉しいのだが、息が苦しくなるほどの事は未体験だ。
口の端から吐息が漏れ、少しの隙間から酸素を欲する音がする。私が逃げようとすると、離れられないように賢二郎は私の後頭部を押さえつけた。
唇が付いては離れ、付いては離れるリップ音。そのうち賢二郎が軽く下唇を吸い上げて、またちゅっと音を立てて離す。
このままこれを続けると私の知らない世界に飛んでしまいそうだ。
「…賢二郎、だめだよ、」
「………」
「私たちまだ高校生だよ、だめ」
「………ちっ」
「舌打ち!」
どういう事だと舌打ち行為を非難しようと思ったが、それは私に対してではない事にすぐに気付いた。
「分かってるよ…」
そう吐き捨てると、賢二郎は私の頭を抑えていた手をゆるめた。
そして、彼が触っていたせいでくしゃくしゃになった私の髪をその手で撫でて直してくれるものだから別人みたいでぎょっとする。
「し、しないの?」
「しねえよ。心の準備してないし」
「心の準備…?」
「悪いけど俺だって初めてだから」
「………あ、そっか」
大人になるための行為を高校生、あるいは中学生で済ませる人はこの時代少なくない。
けれど私達にとっては互いに未知の世界で、そこへ踏み出すにはそれなりの用意が必要だ。私はもちろん、賢二郎も。
「つまり心の準備ができたら高校生とか関係なく襲うから」
「!!」
「そのカッコで来いよ。その時も」
賢二郎は私のルームウェアに視線をやりながら言った。ついさっき「そんなカッコで出歩くなんて信じられない」みたいなことを言われたのに。
「…だらしない服って言ってたじゃん、」
「だらしない服なんか俺以外に見せんなって意味だよ分かんねえのかお前は」
「……ああ…」
私が納得して言うと、賢二郎はわざとらしく溜息をつく。(彼のわざとらしい行為のうち半分は照れ隠しだ)
そして次に「ん」と私に向けて手を差し出した。
「ん?」
「ん!!」
聞き返すともう一度、手をずいっと突き出してくる。というより広げている。
「…ん?」
「……だから!こっち来いって意味だよ分かれよ言わせんな!」
「ひっ、はい」
恫喝の一歩手前みたいな口調なもんで、びっくりした反動で彼の胸に飛び込んだ。
普通ならこんなの男の人に言われたら怖いんだけど、飛び込んだ賢二郎の胸からはどくんどくんと心臓の音が聞こえてくるので安心した。しかし。
「…もうちょい分かりやすくしてくれないと」
「俺は普通。すみれがおかしい」
「えー…」
「だからすみれは絶対に他の男じゃ無理だね。死んでも無理。俺と別れたら結婚出来ない」
ふん、と鼻で笑いながら賢二郎が言った。
これも普通なら頭にくる台詞。でもどうして私が頭に来ないのかと言えば、何も答えない私の様子を彼はきちんと気にするからだ。
「ひどいよー、って言わねえの?」
たいてい言いすぎた時はこんな感じで顔色を伺ってくるので、今回もやっぱりそう来たかと思うと笑顔を隠せない。しかも、さっきの賢二郎の暴言はつまり、彼なりの束縛。
「……だって今の、絶対に私とは別れてやらないぞって事じゃないの」
その途端、賢二郎はこれまで必死に我慢していたであろう赤面顔を見せてくれた。私もそれが嬉しくなってついつい笑顔になってしまうと、賢二郎は更に顔を赤く、熱くさせたようだ。
その口からどんな可愛い言葉が出てくるのかなと耳をすませていたが、聞こえてきたのはきんきんに叫ぶ声だった。
「…前言撤回お前は俺が居なくても大丈夫だ好きにしろよ一生な!」
「えぇ!?」
「けっ」
じゃあもしも賢二郎と別れたら男遊びでもしてやろうか、と冗談めかして言ってみると「ぶっ殺すぞ」と凄まれたので、やっぱり私と別れる気は無いらしい。
彼の機嫌を取るために似たようなルームウェアを新たに買いに行こうかな。
あなたのだらしない彼女
みなな様より、白布の寮の部屋にお邪魔する・というリクエストでした。部屋でこっそりイチャイチャするのは相手が誰であってもドキドキ胸きゅんですね…!ありがとうございました!