10都会の喧騒から隔離された空間に、二人だけが放り込まれたような感覚だった。
周りはがやがやしているはずなのに自分の中だけ無音となり、自分だけの時間が止まりその一瞬であらゆる事が頭の中を駆け巡る。
誰にだってこういうことは、生きていれば何度か訪れるのだろう。俺にとっては、白鳥沢の合格発表の時以来の感覚。
「…うわ。言っちゃった……」
「………今の」
「本当はもう少し仲良くなってから言おうとしてたんだけどッ」
俺も、これからあわよくば電車で会う回数を重ね、電車の外でも会い、仲良くなっていきたいと思っていた。
勉強を教えて欲しいという申し出は思ってもないチャンスで、これを機に一気に距離を縮められるんじゃないかと。それなのに彼女は俺の一歩、二歩先を行った。
「白石さん…」
「き…急にごめ…」
「それ、俺の口から言いたかった」
「うぇ、へ?」
ペンを落っことしたまま机の上で拳を握る白石さんの手を、ぎこちないながらも覆うように握ってみる。
白石さんの視線が揺れた。
手が震えた。でもやめない。
「決勝で会った時の白石さんも、電車の中の白石さんも今の白石さんも好きだ」
「………!?」
「付き合ってくれる?」
白石さんはしばらく硬直していたが、こくこくと激しく頷いた。
その顔をじっと見ると、「すき」と小声でもう一度言われて、顔を伏せられた。
…今すぐ大声で「俺たち今日から付き合います!」と叫びたいのを抑えるには…勉強、しか無い。心を落ち着かせるには勉強しか。
「……勉強…」
「…す…し…しない、今、無理」
「…同意」
結局こんな状況で勉強なんか無理なのだった。
互いに参考書もノートも閉じてしまい、じっと机の上を眺めては相手の顔を見、目が合っては机に視線を落とすという不毛で熱い時間を過ごす。
おそらくその状態で数十分が過ぎた。
「勉強…しないと」
思い出したかのように白石さんが言った。
「ごめん。俺は今日無理だ」
「私もだけど……」
「…明日も明後日も週末も俺は空いてる」
「わた、私も」
「毎日勉強会でいいの?」
「…うん。でもテスト終わったら、ふつうのデートしようね…」
…誰がなんと言おうとも、今この北仙台の駅周辺で最も幸せな人物は俺だ。
飛び跳ねて喜びたい気持ちを必死に抑え、俺は何食わぬ顔で白石さんと並んでいつもの路線のいつもの車両に乗る。
いつもと違うのは、今日から手を繋いでいること。
◇
翌日、太一は言いつけどおりに朝練の時には何も言わずに昼休みになって白石さんの話を出してきた。
「お勉強会はどうだったよ?」
「…してない」
「は?何それ会わなかったの」
「会ったよ」
特大のおにぎりを頬張りつつ、太一が「何だそりゃ?」と言った。俺だって聞きたいというか、未だに信じられない。
でも太一には報告すべきかも知れない、役に立ったかどうかは別として色々と相談に乗ってくれたから。
「急だけど付き合うことになった。」
「ブッフォ」
「げ!!きったねえ!」
太一の口からいくつかの米粒が吐き出され、それは俺の顔面にも散ってきた。マジでイラつく。
…はずなのに、好きな子と両思いになれたという効果だろうか、思ったよりイライラが長引かなかった。
「つーか急展開にも程があるんだけど?お前つい昨日はさ、下の名前で呼ぶ呼ばない〜って話してたジャン」
「まだ下の名前では呼んでねえ」
「オイ!軽くステップ踏みやがって!」
「いいんだよ。今日から毎日放課後会うから」
「……マジスカ…」
そこで太一はおそらく週末も俺が彼女と過ごすであろう事を予測してか、俺に勉強を教わる時間が極端に減る事を悟ったらしい。
おもむろに机の中から教科書を出す。午前中の授業で出たプリントを広げる。
「昼休みだけ付き合ってくれません?」
「……いいよ。」
「サンキュ賢二郎!」
このテスト期間中、昼休みは太一へ、放課後と週末は白石さんへ勉強を教える結果となり、なんと三人揃って好成績を叩き出す事となった。
受験ならこうは行かないだろうが、付け焼き刃の恐ろしさを知った期末テストだった。
◇
「…でね、数学84点!クラス平均は70くらいだったのに!」
「おめでと、凄いじゃん」
「白布くんのお陰だー」
テストが返された翌日の朝。
朝練に合わせた時間の電車、つまり初めて出会った時の電車に揺られて俺たちはテストの結果を報告しあっていた。
「いくら俺が教えたって、教わる方が頑張らなきゃ意味ないだろ」
「ううん。教えてくれるのが他の人だったらこんなに頑張らなかったと思う」
「…何それ嬉しいんだけど」
「ふふ。…次はインターハイか」
この期末テストを乗り越えたとき、次に俺たちを待つ大きな壁はインターハイ。
今月末からいよいよ開始、宮城県代表として出場する白鳥沢は夏休みに入った瞬間に合宿を開始する。それはもう、休む暇などなく。
「なかなかゆっくり出来なくてゴメンね」
「どうして?」
「どうしてって…」
せっかく付き合ったのに俺はバレーボールざんまいで、テスト前と同じように朝の電車でしか会えないような日が続き、夏休みに入ればますます会えない。
こんな状況で白石さんは俺の事を好きで居続けてくれるのか。
「白布くんが出なきゃ白鳥沢は勝てないよ」
「え…」
「自分にも自信もちなよ、白鳥沢のセッター」
その瞬間、あの決勝の体育館で同じ事を言われたときと同じ感覚で、俺は落ちた。正確には落ちたのか昇ったのか分からないような感覚。
「ちょっと会えないくらいで変わんないよ。電車の中の白布くんもコートの中の白布くんも好きだよ」
そして今、決勝で白鳥沢に敗北した青葉城西のマネージャーとしてではなく恋人としての言葉を受けて、俺は改めて実感した。
「毎朝同じ電車に乗る女の子」だった白石すみれは今すでに俺の彼女で、なんとなくコンプレックスだなと感じている事すら見透かすほどに俺のことが好きである事を。
「…インターハイ、一回戦に勝ったら俺のお願い聞いてくれる?」
「え?聞く!一回勝つごとに聞くよ」
「…じゃあ一回目は、」
お互いに下の名前で呼ぼう。
白石さんは頷いた。
これで俺はますます負けてなんか居られない、負ければ互いに苗字でしか呼び合うことが出来ないのだから。
それから数週間後のインターハイ一回戦。白鳥沢学園バレー部は全国の舞台で勝利の味を噛み締めた。
もちろん試合の結果は電車の中ではなく、観客席から見守っていた白石さんへ向けてのブイサインでもって報告したのだ。
10.その約束を忘れないで