09


「いただきます」
「どうぞどうぞ」


窓際の席を取り待っていると、白石さんがやって来た。
彼女のお皿の上には結局チョコレートのドーナツが二種類乗っていた。やっぱり諦められなかったんだな。くそかわいい。


「…あのね。勉強の前に、ずっとちゃんと言いたかったんだけどね」


勉強道具を出してから、少し緊張の面持ちで白石さんが言った。


「何?」
「あの時……、ほんとに、ありがとう」


あの時。忘れもしない、俺と白石さんが初めて出会った時のこと。

俺はいつもの電車が少しだけ混んでいることに若干の苛立ちを覚えていたが、それが一気に冷めるような事が起きたのだった。
目の前で女の子が痴漢に遭う、という。


「いいよそんなの。偶然見えたんだし」
「白布くんにとってはそうかも知れないけど…」
「…思い出さなくていいんじゃない」
「………うん。」


何か話題を変えなくては。
白石さんも同じことを考えたらしく、少しだけ声のトーンを変えて続けた。


「でも、その上勉強見てもらうなんて私迷惑かけてばっかりだね」
「迷惑じゃないよ。俺の復習にもなるから」
「ありがと」
「……昨日は、及川と…及川さんと、勉強してたんだっけ」


及川徹の声かけでセッティングされる事になった勉強会だ。今だけは呼び捨ては控えよう。


「うん!及川さんは勉強が得意なの」


あれで勉強まで得意なのかよ、そしてその及川から他学年なのに教わっていた白石さん。
二人は付き合っては無いだろうが、やっぱり嫌な感情が生まれる。


「…ふたりで?」
「ううん。部活は無いけど昨日丁度ミーティングがあってその延長だったから結構いた。及川さんの彼女さんも途中から来たし」


彼女いるのかよ。とことん負けてる。


「あの人彼女いるんだ」
「モテるからね。背も高いし運動も勉強もできるし、実は優しいよ」


だから彼女さんは幸せだと思うよ〜、とにこやかに話す姿に少しの絶望をおぼえた。
白石さんの好きなタイプは及川徹?背が高いのもプラスポイントのように聞こえる。


「…白石さんは及川さんみたいな人が好きなんだ」
「えっ?」
「え?うわっ、ごめ…」


何聞いてるんだ俺。探りを入れるにしても下手過ぎる。太一に聞かれていたら軽く一発背中を叩かれるだろう。でも気になって気になってつい口から出てしまった。


「なんでそんな事聞くの?」
「ゴメン気にしないで」
「するよ!…及川さんは確かに凄いけど、そう言う対象じゃないかな」
「…………、そう」


やばい。これじゃあ勘のいい人相手なら俺の気持ちに気付いてしまう。

どうか白石さんが鈍感でありますようにと願いながら彼女の顔色を伺うと、肩肘ついてペンを頬に当てながらうーんと考え込んでいた。


「…白布くんて」
「え」


白石さんの大きな目がいきなり俺をとらえた。


「及川さんに憧れてたりするの?」


…しかし、その目には違うものが写っていたらしい。

俺が及川に憧れるって、そんな事あるわけ無い。
羨ましい事があるとすれば白石さんと同じ学校に通えていて白石さんがマネージャーである事。そして、


「身長とかは…高くていいなとは思うよ」
「…あ…そっか」


身長という言葉を口にしたところで白石さんは、俺の身長がバレーボールをやる上では恵まれていない事に気付いたようだ。


「もうそんなに伸びないだろうけど」
「でも白鳥沢のセッターだって言うのは凄い事だよ」
「うん。」


最悪の場合、俺じゃなくても務まるだろうけどね。と、言ったら白石さんはどんな顔するだろう。


「白布くんはもっと胸張っていいと思うよ?バレーもだけど。見ず知らずの私を満員電車の中で助けてくれるぐらいの勇気を持ってる」
「あれは勇気とかじゃ、」
「勇気じゃなくても優しさ?とか、度胸とか!とにかく白布くんは白布くんが思ってるよりずっと凄いの!」
「……う、うん」


俺が返事をすると、白石さんがはっと我に返った。椅子から少し腰を浮かせるほど興奮していたようで、ゆっくりと座り直す。


「………ごめん。うざいよね」


ぽつりと言った。うざいなんて、とんでも無い。


「うざくない。びっくりしたけど」
「引いたよね…」
「引いたんじゃなくて…俺たち電車の中でしか会ってないのに、そこまで言ってくれるなんて驚いたっていうか」
「………」


すごく嬉しいのに、胸が熱いのにそれを言葉で伝えられない俺の根性無し。
白石さんはたった今連ねた言葉たちを思い返して、次の言葉を考えているようだった。そして、こう言われた。


「おかしいかな?電車の中でしか会ってないのにこんな事言うの」


もはや勉強なんてそっちのけなのに、意味もなくペンを握りしめて白石さんが言葉を紡ぐ。

俺は、うつむき気味に話すその声を聞き逃さないように耳を澄ませる。その結果聞こえてきたのは、びっくりするような内容で。


「電車の中の白布くんしか知らなくても、充分素敵なんだよ」
「………え」


かたん、と白石さんの握るペンが机に置かれる音がした。


「……すき。」


そう言われた瞬間に俺の手元も狂ってしまい、かしゃんと床にボールペンが落ちた。


09.勉強なんてそっちのけ