グッドモーニング・ルルべ


きっかけはほんのくだらないこと。楽曲検索をしている時、誤って押した箇所が再生された。イヤホンをしたままだったので耳元で知らない曲が流れ始め、せっかくだからそれが自分の好きな雰囲気かどうか確かめる。が、残念ながら普段聴くようなものとは異なっていた。ゆったりとした、眠くなるようなリズムのインスト曲だったのだ。

これは外れだな、と思いイヤホンを外した。ちょうど教室に到着したのも理由である。入学当初は余計な人間関係を築きたくなかったので授業中以外はイヤホンやヘッドホンを離さなかったが、半年も経てば自然とクラスに打ち解けた。と言っても僕はおしゃべりが好きではないので、話しかけられない限りは挨拶程度しか口にしないが。


「おはよ」
「おはよう」


僕が鞄からノートや教科書を出していると、前の席の白石さんが登校してきた。挨拶に短く返しながら自分の作業を進めていく。と、彼女のスマホから突然音が流れ始めた。


「あ、やば」


そう呟くと、彼女は咄嗟に音量を小さくした。 どうやらイヤホンを引っこ抜いた拍子にスマホ本体から音が出てしまったようだ。
そんなに大音量ではなかったので何も気にすることはないけれど、その短い音だけで僕の耳はぴくりとした。たった今流れた音楽は、ちょうど僕が今朝「外れだな」と感じた曲だったから。


「今の曲……」


僕の好みに合わなかったものを聴いていたからって馬鹿にする気持ちはない。単に驚いたのでつい口から声が出ただけ。でも僕が反応したのをきっかけに、白石さんが勢いよく振り向いた。


「月島くん、こういうの聴くの!?」


しかも目をきらきらさせながら、僕の机に身を乗り出して。失礼ながら僕には何故彼女がこんなに熱心な様子なのか分からない。自分にとって今朝の曲は魅力的じゃなかったから。夜、眠りにつく前に流す程度なら丁度いいかもしれないけど。
しかし恐らくこの曲を気に入っているであろうこの子に否定的な言葉を述べるのは、さすがの僕も気が引けた。


「……聞いたことあるなって思っただけ」
「そうなんだ。ワルツって月島くんっぽくないもんね」


そうか、さっきはなんの意識もせずに聞いていたけれど、あの独特のテンポはワルツだったらしい。


「それって歌詞ないよね。なんの曲?」


好んでそれを聴くということは、何か有名な曲なのかもしれない。あまり興味はないけれど有名どころは名前くらい知っておきたい。そう思って聞いてみると、白石さんは気まずそうに笑った。


「ああ、曲を聴いてたっていうか……ちょっと動画を」
「動画?」
「バレエ見たことある? あ、こっちじゃないよ。踊るほう」


こっちじゃないよ、と言いながら白石さんはスパイクみたいな動きをした。はっきり言ってひどいフォームだがそれは今どうでもいい。スマホから聞こえた曲は動画内で流れていたものらしく、動画の中では舞台上で複数の人間がくるくる回ったり跳ねたりしていた。
こういうものに疎い僕にもさすがに分かる。クラシックバレエだ。だんだん動画がアップになっていき、踊っている人物の顔が認識できるようになる。髪型とかメイクのせいで分かりづらいけど、見覚えのある女の子が踊っていた。


「ココに映ってるのって」
「私私。へたくそだけど」


発表会か何かの動画なのだろう、本人はへたくそと言うけれど全く踊れない僕からすれば立派なものだった。そういえば白石さんは時々大きな荷物を抱えているし、その中に珍しい形の靴があるのを見たことがある。小さな画面の中で動き回る彼女は別人みたいに機敏で、しかし表情はちょっと緊張しているようにも見えた。同じ動きをしている中でも自然とこの子だけを目で追っていく。だってこの子のことしか知らないから。普段制服を着て僕の前に座る女の子が、こういうことをしてるんだっていうのは新鮮だった。そして、それを思いながら改めて耳を澄ますと、なんだか良い曲のような気がしてきた。


「月島くん、もういい?」
「えっ」


僕がよほど真剣に画面に見入っていたのだろう、遠慮ぎみに声をかけられた。顔を上げるといつもの彼女が居て、スマホをちょんちょんも指で突いている。……いつの間にか白石さんのスマホを僕が持ってしまっていた。


「……ごめん。もういい」
「もしこういうの好きなら音源貸そうか?」


こんな提案をされるほど、僕は興味津々に見えていたらしい。首を縦に振るかどうかは一瞬だけ迷った。動画を見ているうちに良いなと感じ始めたのは事実だが、僕が「良い」と感じたのは果たして曲に対してなのか? それが分からなくて、どうも乗り気にはなれず。最終的に「いいや」と遠慮してしまったけれど、白石さんは「あはは、そっかー」と大して悲しそうではなくてホッとした。

そのあとすぐに前を向いた彼女の後頭部を見ながら、今度は自分のスマホとイヤホンを取り出してみる。履歴から今朝誤って再生した例の曲を選び、改めて真剣に曲だけを聞いた。

三拍子の音楽が、教室内のざわめきから僕を別世界に連れていこうとゆるやかなテンポを刻んでいく。嫌な曲だとは思わないけど、ずっと聞いていたいとも思えない。それなのに僕はさっき、他人のスマホだというのも忘れて集中していた。どうしてだ? 目を閉じて聴覚を集中させてみると、まぶたの裏にさきほどの動画が流れだした。勝手にズームアップされるクラスメイトの姿。なめらかに、時には機敏に華やかな踊りを続けるのが見える。まぶたを開けるといつもの女子の後ろ姿がちょっぴり違って見えたので、やっぱり僕は曲が魅力的だと感じたわけじゃないようだ。