10


黒尾さんとふたりで歩くのは、とても久しぶりに感じる。そもそも最近は私が彼を避けていたのだ。このまま避け続けて黒尾さんを好きな気持ちが消えるまで待つことも考えた。それが自分の失敗のせいで、思わぬ交流の機会となってしまったわけだけど。
世の中はすっかり真夏となり、外に出ると夜でもむわっと暑さを感じる。おかげで一気に疲れを感じた。晩御飯、パスタじゃなくて冷たいものにしようかな。

でも晩御飯の心配をするのはまだ早い。黒尾さんと会社を出たはいいが無言の時間がとても長くて、私から話しだすべきなのか黒尾さんを待つべきなのか、今はそれで頭がいっぱいだ。


「ラーメン食べる?」


先に口を開いたのは黒尾さんだった。
てっきり居残っていた私への指摘とか、仕事の話をされると思っていた。さっきも「残るなって言ってんじゃん」と呆れられてしまったし。だからラーメンに誘われた瞬間は、咄嗟に言葉に詰まってしまった。


「え。ええと」
「……いやラーメンって気分じゃないか。ないよな、うん」


私が困った顔を隠せていなかったらしく、黒尾さんは誘いの言葉をかき消すように手を振った。
また私は先輩に向かって失礼なことを。失敗して落ち込んでいる私のために気を遣ってくれたというのに。家でゆっくりご飯を食べてる場合じゃない。


「いいえ。ラーメン食べます食べたいです、むしろお詫びに奢らせてください」
「え? いやそういう意味で言ったわけじゃ」
「私ほんとにとんでもないことを」
「違う違う。仕事のことはもう」


黒尾さんはまた否定するように手を振った。今こうして送ってくれているのもラーメンに誘ってくれたのも仕事の延長だと思っていたけれど。


「俺はちょっと、違う話をしたいわけで……」


仕事中のてきぱきした様子とは違い、尻すぼみな声。違う話と聞いて少しドキッとした。心当たりがあるからだ。
でも「ああ、私が最近あなたを避けてることですか」なんて言えないし、万が一まったく違う内容だったら最高の恥だから、なんのことか分からないふりをした。


「なんの……?」
「んー、うん。あのさ」


私がとぼけていることには気付いていないのか、彼にしては珍しくもごもごしている。でもようやく出てきた言葉は単刀直入であった。


「白石さん俺のこと避けてるよね」


一瞬、歩いていた足が止まりそうになる。ひゅっと心臓が跳ねたのを気取られないよう顔を背けて、声が上擦るのを隠しながら答えた。


「……なんのことでしょう」
「はい白々しい」
「避けてないですし今もこうして一緒にいますけどっ」
「今は今だよ。今のことじゃない」


並んで歩いていたはずの黒尾さんが、突然大股で前に出た。
これまでは私に合わせて歩いていたのだろう、黒尾さんのほうが歩幅が広いはずだから。しかしそのまま歩き去るのではなく、私の行く手を阻むようにして立ち止まった。もう顔をどちらに向けても隠れられない。真後ろを向かない限りは。


「……だって、それは……」
「やっぱり避けてる自覚はあるんだ」
「……」


図星なのがバレてしまった。避けなければやってられないくらい心に余裕がなかったんだから仕方ないのに。
だって、もしも私が会社の中で黒尾さんにひっついて回ったら迷惑なはず。他の仕事仲間や上司に見られてはいけないだろうし、黒尾さんを狙ってる女の子だって良い気はしないだろうし。他の女の子たちのほうが黒尾さんに相応しくて親しいんだろうし。
私がこの人を避ける理由や口実はいくらでもあるのだ。それなのに黒尾さんは素直に避けられてはくれない。でも、私を責めたり無理やり問いただすようなことはなく。


「仲良くなれてきたかなーって思ってた相手にあからさまに避けられるのは、俺だってショックなんですよ」


まるで独りごとのように黒尾さんが言った。それもちょっと悲しそうな声で。
好きな人にこんなことを思われていたと知って嬉しくないはずがない。でも残念ながら、私は私を好きじゃないし自信がない。彼の言葉を素直に受け止められなかった。


「……私もそう思ってました。黒尾さんと仲良くなれてきたのかなって」


ひとりで残って仕事をしていた日、営業先から戻ってきた黒尾さんがチョコレートをくれた。あの時から黒尾さんを気になりはじめて、顔を合わせるたびに親しくなれている気がして。


「黒尾さんが私のこと、ちょっと特別に思ってくれてるのかなって浮かれてて」


かわいいって言ってくれたことも夢のように嬉しかったし信じられなかった。でも黒尾さんを好きになればなるほど、自分が周りと比べて落ちぶれていることに気付くのだ。社歴の長い人からすれば、私の知っている黒尾さんなんてほんの一部分。しかも意識し始めてからというもの、女性人気があるのはすぐに分かった。


「でも冷静になって黒尾さんの周りを見た時、仕事ができて優秀な人ばっかり集まってました。女性も男性も、最近は水野さんも」
「水野……? ああ」
「だから……」


二年目のくせに新卒の後輩に嫉妬したり競争心を燃やす自分が嫌で嫌で、でも水野さんの優秀さや明るい性格が眩しくて、私は私って思おうとしたけど無理だった。


「せめて仕事でって思ったんです、けど」


と言うか、私じゃ無理だった。他の人と張り合って頑張ることから逃げる代わりに仕事に打ち込もうとしても空回り。それが今回の結果に繋がった。黒尾さんがミスを怒らず接してくれているのが信じられない。


「……ま、白石さんは仕事の面では正直まだまだって感じだよな」
「……はい」
「でも仕事じゃなくて今は別の話だから」


黒尾さんはもう一度「仕事のことじゃない」と話を戻した。女性としても仕事のこともまとめてコンプレックスだったので一緒に考えてしまってたけど、どうやら違う。本当に仕事の話は関係ないらしい。


「単刀直入に言うけど、白石さんに避けられるのは超悲しかった」
「……えっ」
「理由が分かんなくてしんどかったけど……嫌われて避けられてるなら諦めようと思った。俺は万人に好かれる男じゃないと思うし」


思わず顔を上げた。黒尾さんが万人に好かれる人じゃないなんて、そんなはずは無いから。
黒尾さんのような人を好いて憧れる人は沢山いるはず。現に社内の女性から好かれているのを聞いたことがある。格好いいって言われてる。そんな人が私ごときに避けられたからと言ってなぜ悲しんで、何を諦める必要が?


「でも違うみたいだからやっと言えそうだな」


私と目が合うと、黒尾さんは久しく見せなかった微笑みを見せてくれた。


「付き合いませんか?」


それから、やはり久しく聞けなかった優しい声色でこう言った。
あまりに優しい声と顔だったので、恋愛映画のスクリーンでも見ているのかなと錯覚した。黒尾さんが私にそんな気持ちを持ってくれるなんて思いもよらなくて。仕組まれた台本なんじゃないかと思ってしまって。こんな素敵な人が私の何を気に入ってくれたのか全然分からなかったから。


「……なんで」
「え、ごめん嫌?」
「なんでですかぁ……」
「えっ、え。あれ」


私と付き合っても何の利点もないはずなのに、なんで? 全然理解できなくて子どもみたいに泣いてしまい、黒尾さんがわたわたと慌て始めた。申し訳ない。でも我慢するなんて無理。困惑ももちろんあるけど、驚きと嬉しさで胸がいっぱいなんだもん。


「私、黒尾さん好きです……」


しゃくりあげて何回も詰まりながら言うと、黒尾さんはぱちぱちと目を丸くした。私が泣き出したから拒否されるって思っていたのかも。でもこんな素晴らしい申し出に首を横に振るはずはない。


「……うん。俺も好き」
「なんか、もう……凄すぎて信じられないです……」
「俺も確信したから言えたようなもんだよ」
「でも黒尾さんは私のこと、全然好きじゃないんだろうなと……思ってたので」
「ええ?」


何でそうなるのと黒尾さんは笑うけど、私からすれば黒尾さんが私を好きって思ってくれることのほうが「何で」って感じる。手の焼ける後輩、下手したら嫌われたっておかしくないくらい面倒な後輩だと自分でも思うから。だけど嫌な顔ひとつ見せずに、黒尾さんはポケットティッシュを取り出した。


「ほらほら道端だよ。涙拭いて」
「うう」


こういう時咄嗟にティッシュを出せる、それ以前にティッシュを持っているところも尊敬だ。たまたま道で配っていたのをポケットに入れていただけだとしても。
黒尾さんは一枚のティッシュを出すと顔に近付け、私がそれを受け取るまでは何もしなかった。無理やり涙を拭こうとしてこないところも、何もかもが私のハートをぎゅっと掴んでくる。


「どっか店入る?」


なるべくアイメイクが落ちないように気を付けながら……と言っても時すでに遅しかもしれないけれど、涙を拭いている時に黒尾さんが言った。
時間は夜、明日も仕事だけどお腹は空いてる。家に帰っても冷凍パスタしかない。好きな人と両想いになれた、そんなめでたい日にコンビニのご飯を買って帰るのは味気ない。しかも相手は黒尾さんだ。私の答えはただひとつ。


「……ラーメン食べたいです」


初めて黒尾さんと食べに行ったのもラーメン、さっき私に気を遣って誘ってくれたのもラーメン。この特別な日、特別な夕食はこれ以外に考えられない。
私の答えを聞くと、黒尾さんはまた驚いたように瞬きを繰り返した。おしゃれなお店とかバーとかの名前を出されるとでも思ったのだろうか。でもすぐに「いいねえ」と笑って、今夜もまたお気に入りのラーメン屋さんに連れていってくれた。