09


黒尾さんに迷惑をかけただけでなく、危うく会社全体へ迷惑をかけるところだった。それどころか先方にも。大変な情報漏えいに繋がることを犯した自分が許せないし、その原因が黒尾さんへの気持ちをこじらせた上での残業だったというのも最低だ。もう辞めたい、何もかも。


「白石さん、そんなに落ち込まないで。大事にはなってないんだから」


先輩である佐々木さんはそう言ってくれたし、後輩の水野さんも「私も同じミスやっちゃいそうだから気を付けないと」と、心なしか私をフォローしてくれていた。でも今は優しい言葉をかけられればかけられるほど辛い。黒尾さんも同じように優しく「気にしないで」と言ってくれるだろうか。
……いっそこっぴどく叱られるほうがいい。そうでもされなきゃ甘えてしまいそうだ。黒尾さんにも、仕事に対しても。

そして午前十一時、黒尾さんがT社から戻ってきた。朝一番に都外まで出向いた彼は疲れているはずなのに、帰社後すぐ課長のところへ報告に行くのが見えた。「いーえ、全然大丈夫でした」と談笑するのが聞こえる。よかった、少なくとも黒尾さんが相手から責められることはなかったようだ。


「詳しいことはあとでチャット飛ばしますね」
「よろしく。……あと、白石さんが結構気にしてるみたいだから、よかったら彼女にも教えてあげて」
「え。ああ……」


課長と黒尾さんはそのまま業務的な話をして終わるものと思っていたのに、なんと私の名前が聞こえてきた。しかも私が落ち込んでいるのがそんなに目立っていたのか、黒尾さんからフォローを入れてもらうよう課長が指示を出すのまで聞こえる。課長、ちょっと声が大きいんだよな。それに今回は黒尾さんからじゃなく、自分から謝罪に行くタイミングを伺っていたのに。


「白石さん、今だいじょーぶ?」


報告を終えるとすぐに黒尾さんがやってきて、ディスプレイの向こうから顔を覗かせてきた。まだ心の準備ができていないけど、謝るなら早く謝りたい。この一件が落ち着くまで仕事に集中できないだろうし。


「はいっ! 私はいつでも」
「じゃあちょっとこっち」


黒尾さんは手招きすると、会議室のほうへ歩いて行った。誰もいない部屋に連れていかれるってことは、もしかして怒られてしまうのかもしれない。人前で怒られないだけ万々歳だ。甘んじて受け入れなければならない。
佐々木さんに「行ってきます」と声をかけた時、私があまりにも不安な顔をしていたらしく「大丈夫だって」と笑われた。全然大丈夫な気がしないんですけど。


「……今回の件、本当に申し訳ありません!」


言われる前に言え! 促されてから謝罪するのでは遅い! というわけで、私は開口一番上記の言葉を叫んで頭を下げた。それはもう深々と。就活の最終面接の時よりも深く、勢いよく。黒尾さんが「顔上げて」と言ってくれるまでずっと頭を下げていた。
そして、私の顔も髪も予想以上にぐっしゃぐしゃになっていたせいか、黒尾さんは怖い顔ひとつせず笑った。


「あっハハ、そんな泣きそな顔するほどのことにはなってないよ」
「でも! 私本当にひどいミスして」
「確かに、あっちゃいけないミスだったよね」
「……すみませんでした」
「大丈夫。俺だって取り返しのつかない失敗したことあるよ」


黒尾さんは一番近くの椅子を引いて座り、私にも座るように合図した。でも私はすぐにそれに従うことができなかった。黒尾さんが仕事で失敗するなんて想像できなくて。


「……黒尾さんでもそんなことあるんですか」
「今でこそこんなだけど、俺だって新入社員の時代あったんだよ? 覚えることは多いしやること多いし大変だった」


確かに黒尾さんの部署はとても大変そうだ。もしも私が営業部なんかに配属されたら、使えない社員として早々に他部署に回されてしまうだろう。今は事務的な補佐ばかりなので何とかやれているけれど。……それでも今回のミスが起きてしまったのだけど。
でも黒尾さんは違う。きっと当初から、言われたことは何でもこなしてしまう優秀な人なんだって思っていたのに。彼の口からはほろ苦い思い出話が語られた。


「で、まあ色々頑張ってたらさ、頭が疲れてきて効率下がるわけ。ついでにパフォーマンスも下がるから、普段はしないミスをする」


まるで私のこと。黒尾さんも疲れたり、集中力が切れたりしたことが原因で良くないことが起きたんだ。


「だから遅くまでやるなって言ってたんだよ、俺は」


黒尾さんからの助言に、いちいちときめいていた自分が恥ずかしい。黒尾さんは私に同じ失敗をして欲しくないから注意してくれていたのに。優しくされたと思って浮かれて、勝手に距離を感じて落ち込んで、またミスをした。


「……ごめんなさい……」


口からは謝罪しか出てこない。それ以外に何を言っても自分が情けないだけだ。
黒尾さんは「もういいから」ってまた笑ってくれたけど、すぐに顎に手を当てて言った。


「でも、白石さんになんのお咎めも無いってのも良くないかな?」
「へ」


まるで罰とかお仕置を与えるような言葉だけど、口ぶりからして深刻な様子はない。目を丸くしていると、黒尾さんは笑顔と真剣な表情の混ざった様子で続けた。


「罰として仕事手伝って。ちょっと大変な内容だよ」
「え……私でいいんですか」
「私でいいっていうか、私のミスのカバーだから」
「うっ」
「まー気負わないで、あとで概要送るね」


最終的にはきっちりと自分の尻拭いをすることになった、と言ってもほぼ黒尾さんが謝罪してくれたことで収まっていたのだが。

後ほど届いた社内メールによると、今朝T社を訪問した時に別件の受注というか契約の話になったらしい。そのための資料作成をしなければならないのだと言う。黒尾さんは本来朝のうちにするべきだった仕事を済ませる必要があるので、午後まで手が付けられないそうだ。
やってやろう。名誉挽回、汚名返上、黒尾さんへのお詫びと恩返しを込めて。

私は仕事に取り組む時、視野がとっても狭くなる。自覚しているし先輩にも指摘されたことがある。でも簡単には直らなくて、集中するとそれしか出来なくなってしまうのだ。最近ようやく途中で取った電話の処理などを効率的にこなせるようになったけど、また自分の業務に戻ろうとすると「何をするんだったかな」と一から考える羽目になる。
だから今日も、黒尾さんから引き受けた仕事に集中しようとしたものの、定時までに終わらせるのは難しかった。


「もうちょっと……」


完成まではもう少し。でも全然苦じゃない。自分が引き起こした事態の延長だし、なにより黒尾さんに頼まれたことだから。
自業自得とはいえここ最近残業が多いな、と思いながら時計を見た時。突然背後から黒尾さんの声がした。


「……手伝ってとは言ったけど、時間内に終わらないなら事前に相談してくんない?」
「ぎゃっ!」


いつの間にか様子を見に来ていたらしい黒尾さんが、私と私のデスクを見下ろしていた。広げられた資料、作成途中のエクセルデータ、それらに交互に目をやってから大きな溜め息。


「残るなって言ってんじゃん」
「すみません……」
「白石さんは、頑張るのはいいけど頑張り方を考えたほうがいいな」
「はい……」
「残業するなって課長にも言われてるだろ」


黒尾さんの口調は昼間よりも少し厳しかった。当然かもしれない。今日中に終わらせたい一心で取り組んでいたけど、結局できなかった。途中で一度、黒尾さんから「大丈夫そう?」と進捗確認の連絡が来ていたというのに。その時は大丈夫って返したのに無理だった。


「それ、あとは明日でいいよ」
「……はい。ほんとにすみません」


私、今日は何回謝ればいいんだろう。出来損ないの自分にうんざりだ。佐々木さんも水野さんも定時後すぐに退社していったのに、私はひとりで何をしてるんだろう。好きな人に迷惑かけて怒られて情けない。転職を考えたほうがいいかもしれない。会社のためにも自分のためにも。

パソコンをシャットダウンして、机の上にあるものを全て引き出しに閉まって鍵をかける。筆記用具や水筒は鞄に入れて、スマホもポケットに突っ込んだ。早くここから消えたい一心で、皮肉にもこれらの作業はとても速い。すべての用意を終えて立ち上がり、黒尾さんにぺこりと頭を下げた。


「お疲れ様でした」
「え、おーい。ちょっと」


落ち込んでる顔を見られないように、さっさとエレベーターまで歩いて行こうと思ったんだけれども。一連の行動を眺めていた黒尾さんが慌てて私を呼び止めた。


「送ってくよ。今日残らせたのは俺のせいだし」


今日残ったのは私のせいだし、黒尾さんが朝から県外に出向かなきゃならなかったのも私のせいなのに。「自業自得なので大丈夫です」ってはっきり断って、ひとりで帰って冷凍パスタを食べるだけの惨めな夜を過ごす覚悟だってあるというのに。
私は黒尾さんの申し出を断ることができずに、ゆっくりと頷いた。だって私、嫉妬も失敗も落胆も沢山あるけれど、それ以上に黒尾さんのことが好きなんだもん。