08


この態度の変わりようには自分でも驚いているし、うんざりだ。黒尾さんが他の女子社員と仲良くしたり優しくするのを見て、機嫌を損ねるのは私の勝手。黒尾さんは何も悪くないのに、まるで責めるような態度をとってしまった。

仕事も中途半端、普段の態度もあんなんじゃあっという間に一年下の後輩に越されてしまう。水野さんは黒尾さんをひどく気に入っているようだし、歓迎会でアプローチとかしたらどうしよう。あんな可愛い子に迫られたら黒尾さんだって悪い気はしないはず。「ふたりでもう一件行きませんか?」とか、水野さんなら自然に彼を誘えちゃいそうだ。……自分で勝手に想像してるだけなのに、すごく嫌な気分になってきた。


「白石さん、質問いいですか?」


そんな折、水野さんが私に話しかけてきた。普段は佐々木さんが彼女の指導役なので、あまり私の出る幕はないんだけど。ちょうど水野さんのことで良くない気持ちになっていたので、私は慌てて体勢を整えた。


「は、はいっ。何でしょう」
「佐々木さんに教えてもらったコレで聞きたいことが……今、佐々木さん居なくって」


なるほど今は佐々木さんが席を外しているらしい。だから私に聞いてきたのか。


「私で分かることなら……」


水野さんがどこまで習っているのか分からないので、ひとつひとつ確認しながら聞いていった。
そして分かったのは、やはり水野さんは頭の回転も覚えるのも早いということ。同じ時期の私はまだこんな作業を教えてもらっていなかった。操作しているのを見たところ、パソコンの知識もあるしタイピングも私より早い。キーボードを弾く指先には薄いピンク色が施されていて、頬にも同じくピンク色。耳元からいくつかの意図的な後れ毛を垂らしており、完璧な女の子であった。
この子がもし、歓迎会の席で黒尾さんに迫ったとしたら? 勝ち目がない。やっぱり私も行くべきだろうか。でも、黒尾さんが他の人と仲良くしているのを見たくない。

暗いことばかり考えていくうちにだんだんと視線が下がっていき、いつの間にか私は自分の膝を睨んでいた。


「……白石さぁん」
「へっ」
「あ、起きてた……大丈夫ですか? なんだか疲れてそう」


すると、なんと水野さんに心配されてしまった。しかも寝てると思われてしまったらしい。確かに意識はちょっと別の世界に行っていたけど。


「疲れてない、っす……平気です」
「そーなんですね。そうだ! これ食べません?」


何故か後輩に対してぎこちない敬語しか話せない私と、リラックスした様子の水野さん。彼女が二段目の引き出しを開けると、そこには大量のお菓子が蓄えられている。その中からひとつ、ちいさなチョコレート菓子を私に差し出した。いつだったか黒尾さんが私にくれたチョコレート。の、シリーズの新作だ。


「これ……」
「新作ですよぉ! 期間限定の! 最近ずっと売り切れてたから、見つけた瞬間テンション上がっちゃって」
「そっそんな貴重なの貰えな、」
「いーんですよ。思わず鷲掴みで買っちゃいましたからぁ」


そう言って彼女は半ば強引にチョコレートを押し付けてきた。
明るくてハキハキしたテンション。私とは全然違ういわゆる「陽」の女の子。きっと話は合わないだろう。後輩としてでも少し扱いにくいし、内心馬鹿にされていたらどうしよう。こういう子ってどこかに裏があって、男の人に媚びることしか考えてないんじゃ?
……と思っていたんだけど。目の前の彼女は自分の気に入ったものを、手に入れるのに苦労したものをいとも簡単に私なんかに譲ってくれると言うのだ。


「……ありがとう。ございます」
「あっ。私こないだお菓子食べ過ぎって怒られちゃったんでぇ、佐々木さんには内緒にしてくださいね」
「え、フフッ、はい」


おまけに食べ過ぎて佐々木さんに怒られたなんて言うもんだから、不意打ちで少し吹いてしまった。

水野さんがくれたチョコレートは人気というだけあって美味しくて、甘かった。黒尾さんが私にくれたのと同じくらい印象的な味。水野さんからの仕事の質問は問題なく答えられたので、「ありがとうございましたあ」と後れ毛を揺らしながらお辞儀をされた。

彼女からは私に対しての敵意が感じられない。好意も感じないと思っていたけど、私が水野さんを深く知ろうとしなかっただけなのかもしれない。


「……くやしい」


くやしいくやしいくやしい。水野さんがチャラチャラへらへらしてるだけの女の子なら良かったのに。仕事もできるし可愛いし、おまけに意外と良い子だったなんて。ますます自分の小ささが目立ってしまうじゃんか。



それから約一週間、金曜日の夕方。黒尾さんとは相変わらず気まずい……というか私が彼を避けているので話す機会がないのだけど。黒尾さんもなんとなく私の異変に気付いているのかもしれなくて、特に話しかけて来ようとはしない。それがまた辛い。私が自分で撒いた種のくせに。

そんななか定時を迎えた社内では、慌ただしく退社用意をする人たちが目立っていた。今日は新卒さんたちの歓迎会なのである。


「じゃあ私たち行くねー」
「はい! また月曜日に」


佐々木さんと水野さんは連れ立って打刻をし、退社して行った。
お酒いいなあ、飲みたいな。でも私、そんなに強くないし会社の人と飲んでも緊張するし。行っても黒尾さんとは話せないだろうし。


「……いいよね。行かなくて」


未だに自分が、黒尾さんの中でちょっと特別な存在なのでは?なんて考えていたのが恥ずかしい。見れば見るほど黒尾さんは誰に対しても優しくて、しかもそれは男女問わない。私なんて数多くいる同僚のうちのひとりでしかないんだ。黒尾さんが私に向けた優しい笑顔も特別じゃない。そう思わなきゃやってられない。


「白石さん、今日は行かないの?」


だから、こうして私に話しかけてくれるのも、私がひとり寂しくパソコンに向かってるのが不憫だから仕方なく気にしてくれるだけなのだ。
優しい声に顔を上げると黒尾さんが立っており、既に鞄を持っている。このまま歓迎会に向かうようだ。


「……黒尾さん」
「歓迎会。行く組はそろそろ出なきゃ間に合わないよ」
「あ、私は……行かないので。まだ仕事が残ってて」


どうしよう、目を合わせられない。不自然に顔を背けて、私はじっとパソコンの画面を睨んだ。……仕事に打ち込むふりをして見つめた画面は、残念ながらデスクトップであった。


「そっか。あんまり無理しちゃ駄目だよ」


だけど黒尾さんは、それ以上何も言わずに去って行った。
足音が遠のくにつれて寂しくなって、私が振り向いた頃にはもうその姿はなくて。「そんなこと言わずに行こうよ」って誘って欲しかった、などと身勝手な気持ちが溢れてしまうのだった。黒尾さん、一度は近付けたと思ったのにまた一気に遠い存在になってしまった気がする。もともと近い人でもなかったけれど。


「……くそぅ。何か飲も」


せっかく残業するんだから、やるだけのことはやらなくちゃ。今日はなんとしても歓迎会を欠席するため、張り切って色んな仕事を引き受けて溜めておいたのだから。普段なら残業なんて嫌で嫌で仕方ないんだけど。

仕事のお供を買うため、私は自販機へと向かった。本当は外のコンビニに行きたかったけど、まだ黒尾さんや他の人が居たら気まずいから。そういえば自販機には新しい紅茶が入っていた。美味しそうだから試してみよう。
と、思いながらフロアを歩き、自販機の場所にまもなく着くぞという時に、目の前に大きな壁が現れた。


「ッわ!?」
「わっ。ごめん」


ぶうかりそうになったその真っ黒な壁は、黒いスーツの黒尾さんだった。てっきりもう行ってしまったのかと思って油断していた、心臓がバクバク言ってる。


「く……!? 黒尾さん、歓迎会は」
「行く行く、行くよもちろん」
「びっくりした……」
「ごめんごめん……白石さん最近疲れてるっしょ? なのに残して行くの悪いなと思って」


ドキ、とまた淡い期待が胸に浮かぶ。私と関わらないあいだも、私のことを気にしてくれてたってこと? 疲れてるんじゃなくて、ただ素直に話しかけられない根暗な自分にウンザリしていただけなのに。


「はいこれ。飲んで」


黒尾さんの手にあったのは、最近自販機のラインナップに増えた紅茶だった。まさに私が買おうとしていたものである。


「好きそうだなと思って買ってみた」


どうして私が黒尾さんから離れようとしている時に、そんなことをしてくれるんだろう。黒尾さんと話したくて仕方なかった時は、私のことなんか全然気にしてくれなかったのに。
黒尾さんの心遣いはとても嬉しくて、今すぐ笑顔で受け取りたかった。やっぱり私のこと少しは見てくれてるじゃんって思いたかった。

でも私は知っている。一度期待してしまったら、それが外れた時にとっても惨めな思いをするってこと。黒尾さんは今から歓迎会に行って、色んな新人と喋って、新人だけじゃなく色んな部署の色んな人とニコニコ笑ってお酒を飲むんだってこと。その中には黒尾さんを狙ってる人がいるかもしれないってこと!


「……ありがとうございます。でも私……」
「あれ。紅茶飲めない?」


きっと黒尾さんは、私が犬のようにしっぽを振って「いただきます!」って喜ぶと思っていただろう。本当はそうしたい。でも、舞い上がることの怖さを教えてくれたのも黒尾さんだ。


「黒尾さんのこと好きな人とかが、こういうの見たらよく思わないでしょうし……」


何を言ってるんだと自分でも思う。でももし水野さんや、他の女子社員がこの現場を見ていたら? どうして白石すみれを贔屓してるんだと反感を買うかもしれない。
きっと、冷静に考えればそんな心配はいらないんだろうな。でも私は今、冷静じゃない。正直言って心臓は波打ち続けている。


「……えっと……俺、余計だった? かな」


黒尾さんは珍しく動揺しているかに見えた。困らせてしまって申し訳ない。でも私があなたを好きなまま気持ちを高まらせた場合、もっと困らせることになるだろうから許してほしい。


「じゃあ、要らなかったら俺の席にでも置いといて。ごめんね」


全く謝る理由はないというのに、黒尾さんはひとこと謝って紅茶を私の手元に当てた。落っことすわけにはいかないので、ようやくそれを受け取る私。私が紅茶を自らの力で持ったのを見て、黒尾さんは少しほっとしたように見えた。けど、すぐに踵を返して歓迎会へと行ってしまった。



歓迎会がどんな感じだったのか、黒尾さんはあの時の私をどう思ったのか、それが気になって土日はまったく心が休まらなかった。おまけに金曜日、溜めていた仕事が思いのほか多くて遅くまでかかってしまったし。まだまだ時間配分が甘い。


「おはようございまーす……」


本当は今日、来るかどうか迷ったけれど休むわけにも行かず、体調もまったく悪くないので出社した。フロアに入ると、今朝はこの時間にしては人数が多い気がした。


「白石さん! やっと来たっ」
「え」


私を見つけるやいなや、課長が血相変えて飛んできた。「やっと来た」なんて言われてもまだ業務開始の十五分前。特に遅いとは思わない。でも課長の様子からして、私が遅いから血相を変えているわけではなく。なんだか嫌な予感がした。


「どうしたんですか……」
「どうしたじゃなくて! これ覚えてる? 金曜に頼んでたT社の返答」
「は、はい……」
「これ、送信先間違えてるよ!」


課長の血相はそれはそれは変わっていたけれど、私も私で全身の血が抜けたようにヒヤリとした。
金曜日に頼まれていた件。残業するために後にとって置いていた。黒尾さんと色々あって残業に集中できなかった。なんとか仕事を終わらせたのも遅い時間。私、自分で自分のパフォーマンスを下げていた?


「す……すみません!すぐ再送、」
「もうそれはいいんだよ、朝イチで催促の電話来てたからそれで発覚して」
「すみません……」
「急きょ黒尾くんが謝罪に行ってくれることになったから」
「え」


この人は吸血鬼か、というほど血がぐんぐん抜かれて冷たくなっていくのを感じる。黒尾さんの名前が出たことでさらに血の気が引いた。


「後は彼がやってくれるから大丈夫だとは思うけど、戻ってきたらちゃんと話聞いて謝っときなよ」


課長は私を慰めるため、あるいは励ますために言ったのかもしれない。幸い誤送信した先はまったく関係ない会社ではなくて、T社の別社員のアドレスだったので情報漏えいにはならなかったようだ。
でも、でもそんなの今は関係ない。私のせいで黒尾さんが謝罪に赴くことになったなんて。金曜日あんなに優しく振舞おうとしてくれたのに、私は突っぱねた。自分を守るために。
私が黒尾さんに謝ることは当然だ。言われなくても地に頭をつけて謝りたい。でも、いったいどんな顔して会えばいいの。