06


毎朝早めに起きてスキンケアをしたり、髪を巻く余裕ができたのは間違いなく黒尾さんのおかげだ。
会社に好きな人がいるから頑張れるなんて、浮かれてるって呆れられるかもしれないけれど。今朝も眠いけど頑張って起きて可愛くメイクすれば、その私の姿を黒尾さんに見てもらえる。だから目覚ましの音と同時に起き上がり、すっきりと一日をスタートすることができた。


「おはようございます……って一番か」


出社をすると、自分のデスク周りには誰も居なかった。普段私より早いか、同じくらいの佐々木さんもまだのようだ。
先日席替えしたばかりの席に向かいパソコンの電源を入れる。と同時に、ちらりとフロアの中を見渡してみる。もちろん黒尾さんが来ているかどうか確かめるためだ。残念ながらまだ彼の姿はない。諦めてパソコンのパスワードを入力していた時、やや早足で佐々木さんが出社してきた。


「おはよー」
「おはようございます」
「あーヤバイ、超眠い」


バタバタ気味の佐々木さんは走って来たらしく、息を切らしていた。まだ始業まで時間があるのに何故だろう?
と思っていたけれど、すぐに理由が分かった。今日は新卒の女の子が配属されてくる日で、その子よりも早くに来ておきたかったらしい。

佐々木さんはスマホのインカメラを見ながら髪を整えると、「やばい来た来た来た」と慌てて入口へ走って行った。どうやら新人さんの登場だ。私も一緒に働く人。どんな子だろう? 今になってドキドキしてきた。


「紹介するね。今日から配属の水野さん」


戻ってきた佐々木さんの隣には「水野さん」と紹介された女の子が立っていた。前髪はくるんと巻かれていてトレンド感がありつつも、会社に相応しい程度のお洒落に留まっている。服装も華やかなのに嫌らしくない、本人にとても似合っているスカートだ。そして、何より極めつけがこれ。


「水野です! よろしくお願いします」


ぺこりと頭を下げる姿の可愛らしいこと。私と一歳しか変わらないなんて信じられない。五歳くらい歳下なんじゃ? と思わせるようなあどけない笑顔で、しかしハキハキした喋り方にはある種の落ち着きを感じられる。つまり、とても好印象であった。


「よろしくお願いします、白石です」
「お願いします!」


またぺこりと頭を下げると、なんだかいい香りが漂ってきた。水野さんの髪からだ。とんでもなく高い女子力を感じる。そのうえ事前情報によると有名大学卒と言うのだから、天は二物を与える場合もあるのだと思わされた。ミスコンとか出てたりして。


「じゃあ水野さんの席はここね。先にパソコンの設定やっちゃおっか」
「ハイッ」
「白石さん、設定だけ見てあげてくれない?」
「分かりました」


佐々木さんは自身の準備が必要らしいので、始業前に比較的暇な私が手伝うことになった。
新人の水野さんのパソコンは、まだ配線が繋がっただけのまっ更な状態だ。一応本人のアカウントは設定されているので初期パスワードを入れて画面を開くと、必要最低限のアイコンのみが並んだホームが表示された。社内システムへのログインとパスワード変更その他もろもろ、最初の設定はやや大変である。
とりあえず社内メールはすぐに見られる状態にできたので、メールで必要なものすべて送ってしまおう。


「アドレスとか諸々、いったん私から水野さんにメールしますね」
「ハイ」
「ちょっと待っててくださいね……と」


しばらく水野さんのパソコンを操作していた私は、自分のデスクに移動した。自分用に保管しているメモ帳データを送ってあげればスムーズだと思ったから。そのためにマウスを触った時、頭の上からなんとも嬉しい声が。


「おはよー白石先輩」


出社してきた黒尾さんが、近くを通る時に話しかけてくれたのだった。しかも私が新卒の子を隣に置いてるもんだから、「白石先輩」なんていう呼び方で。


「黒尾さん! おはようございます」
「新しい子?」
「はい。水野さんです……こちらは営業の黒尾さん」
「クローです」
「よろしくお願いしますっ」


水野さんは私や佐々木さんへの挨拶と同じように、黒尾さんにも頭を下げた。

この時私は、彼女が男女によって接し方を変える人間かどうかを思わず確認してしまった。幸い大丈夫だったので、疑うような見方をした自分への罪悪感だけが募ったのだが。
とにかく水野さんは誰に対しても可愛らしく明るく振る舞える人で、相手が男性だからって媚びるように態度を変える人ではない。よかった。黒尾さんを取られる心配は、たぶんない。……黒尾さんは私の所有物なんかじゃないのに、何考えてるんだろ。


「色々業務で関わることあると思うから、よろしくね」
「はい!」


黒尾さんは水野さんに軽く声をかけたのち、自分の席へ向かって行った。
そういえば私も初めて会った時、同じようなことを言われた気がする。あの時は早く仕事に慣れなきゃと焦っていて、愛だの恋だのイケメンだの考える暇はなかったな。だから今になって黒尾さんを好きになったんだけど。


「……えっと。じゃあ今メールしたんで、水野さんのパソコンからログインしてもらって……」


ひとまず先ほど送ろうとしたデータを水野さんのアドレスに送ったので、今度は彼女のパソコンを操作する必要がある。だから声を掛けたんだけど、さっきまでハキハキしていたはずの返事が聞こえない。水野さんは確かにそこに居るのに。私のほうを見ておらず、私の声が届いていないのだ。


「……水野さん?」
「あっ、はい! すみません」


呼びかけにはすぐに応じてくれたものの、明らかに全く別のことを考えていた。
そして幸か不幸か、それが何なのか分かってしまった。水野さんは黒尾さんの後ろ姿をずっと目で追っていたようなのだ。


「……」


いやいやそんな、今の一瞬で?
と、以前の私なら思っていただろう。でも今じゃ、黒尾さんがいかに素敵な人であるか理解してしまってる。二言三言交わしただけの先輩社員に憧れの気持ちを抱くのも珍しくはない。男性の前で媚びた態度に変わるかどうかだけを見るなんて甘かった。
どうしよう。水野さんが、黒尾さんのこと好きになっちゃったらどうしよう。

冷や冷やした気持ちで過ごした午前中だったけど、時間が経つにつれて少し落ち着いてきた。水野さんだってまずは仕事を覚えることに必死になるはずだから、そんな浮ついた気持ちなんて持たないはず。
それに黒尾さん、最近よく私に喋りかけてくれるし。ラーメン食べに行ったし。可愛いって言ってくれたし。


「お昼行ってきます」
「はーい」


今日はお弁当を作っていないので、コンビニに行くため会社を出た。
ピークからは時間をずらしたつもりだけど、ビジネスマンが沢山出歩いている。お弁当残ってるといいな、と思いながらコンビニに入ると、レジに並んでいる女性が見えた。私のちょっと前に昼休憩に出た、新入社員の水野さんだ。
どうやら一人ではなく、他部署に配属された同期らしき人と一緒の様子。なんとなく彼女の視界に入らないよう心がけながら店内を歩くと、鈴の音が鳴るような声が聞こえた。


「……でね、営業に超カッコイイ人がいたの! 黒尾さんって言うんだけどっ」


思わず足を止めそうになったし、ブッと息を吹き出しそうになった。
もしかしてとは思ったが水野さんは、今朝現れた黒尾さんを気に入ってしまったようなのだ。そしてそれを嬉嬉として同期に報告している。


「えーいいなーイケメン」
「もう、私も事務じゃなくて営業希望すればよかったあぁ」


私は昼ごはんを選ぶのも忘れて聞き耳を立てていた。結局その後はすぐに会計が始まったみたいで、続きを聞くことは出来なかったけど。
黒尾さんがまたまた他の女の子に好意を持たれてしまったらどうしよう。水野さんだけでも可愛くて若くてヒヤヒヤなのに、一緒に居た子もキラキラしてて素敵な子だった。それに比べて私は? 数少ない勝負服の他は地味な服しか持ってない。

それでも私はかろうじて自分の気持ちを保っていた。黒尾さんと私は少なくとも「ただの先輩後輩」よりは親密になっているはずだと。



結局昼は味のしないお弁当を食べることになり、集中できないまま午後の仕事がスタートした。

水野さんには佐々木さんがほぼ付きっきりでレクチャーしているので、よそ見はしていない様子。彼女の席は壁向きだから、思い切り反対を向かなければ黒尾さんの姿を見られないのだ。
反対に先日席移動をした私は、少し首を振るだけで黒尾さんを見つけることができる。今日の黒尾さんはいつもより忙しそうで電話をしたりミーティングをしたり、かと思えば小走りで出て行ったり戻って来たり。大変そうだな、なにか手伝えることはないかな、と思いつつも声を掛ける隙はやってこない。自分の仕事もまだ終わらせてない私だから、誰かの手伝いをするなんて言い出せないのだが。


「さっき書類ぶちまけちゃったんだけど、偶然黒尾さんが一緒に拾ってくれてさー」


複合機の順番待ちをしていると、たった今コピーかスキャンを終えた女性社員が言った。しかも聞こえてきたのは黒尾さんの名前。今日は何回彼の名前を耳にするのだろう、しかも女性の口から。そして話を振られたもう一人の女性も、小声になりつつも声のキーを上げた。


「そうなの!? あの背の高い人?」
「そうそう」
「へー、なんか雰囲気あるよねあの人」
「ちょっとドキドキしちゃったよー」


うきうきしながら歩いていく二人の女性社員。違う部署の人だけど、私よりも二年先輩だ。

胸がちくちく痛む。これはたった今思いついたことなんだけど、もしや黒尾さんって私が意識するより前からずっと、女性社員に人気だったのでは? 私が勝手に自分のことを特別だと思い込んでいるのでは? 私だけに優しいのではなく、他の女性にも同じように振舞っているの?

そう考えるといても立ってもいられなくなり、一刻も早く黒尾さんと話をしたくなった。何を話すんだと聞かれても全然決まってないし、これと言った用事もないけれど。声を聞きたいし「白石さん」って呼んで欲しいし笑いかけて欲しい。そしてできればはにかんだ顔で笑って、「可愛い」と言って欲しい。

業務中にも関わらず、良くないことだと思いながらも再び席を立つ。黒尾さんが慌ただしく歩くところに近付いて、意を決して口を開いた。同じ会社に務めているし、声を掛ける口実なんていくらでも後付けできるんだし。


「あの、黒尾さ……」


私が呼ぶと、黒尾さんは急ブレーキをかけたように立ち止まった。瞬間「やった!」という気持ちが芽生えたけれど、そのあとすぐに顔が引きつる。黒尾さんは「私が呼び止めたから反応した」のではなく、ただ反射的に止まってくれただけなのだ。そして呼んだのが私だと気付いても、そんなに嬉しそうな様子もなく。むしろ焦った表情で、いつもより語気は強く感じられた。


「ごめん! 今ちょっと忙しくて」
「え。あ、すみませ」
「急ぎ?」
「い、いえ」


急ぎだなんてとんでもない。仕事とは全く関係のない用事で呼んだのだから。

黒尾さんは私の返事を聞くや否や「そっか」と呟き、そのまま営業部の人だかりへ走って行った。よく見るとちょっとした大事になっているらしく、黒尾さん以外の営業部社員も神妙な面持ちで何かを話し合っている。そして、その中心にはまた別の女の子。私よりも先輩だけど営業の中では一番若い女性社員が、ハンカチでは間に合わないほどの涙を流しているではないか。大きな失敗をしてしまったらしい。

大変だ。どうか上手く収まりますように。彼女が失敗を引きずりませんように。と、及ばずながら祈っていた矢先。


「大丈夫? 俺代わるから貸して」


返事もできないほど泣いているその女性に向かって黒尾さんが優しく声をかけ、書類を受け取り、励ますように背中を軽く叩くのが見えた。

その瞬間、さっきまで泣いている彼女を不憫に思っていたはずの私の心がヒヤリと冷たくなる。やだ。こんな気持ちになりたくない。こんなこと思っちゃいけない。黒尾さんに優しくしてもらってズルいって、こんな状況で嫉妬するなんて。