05


会社は仕事をしに行く場所。友だちや恋人を作るために行く場所じゃない。

……と分かっているのに、私は面白いほどスムーズに恋に落ちた。
黒尾さんが奢ってくれたラーメンはこれまで食べた中で一番おいしかったし、黒尾さんと歩いた帰り道はこれまでで一番ドキドキした。私のことを嘘でも「かわいい」と言ってくれたのが嬉しくて、帰宅してからはしばらくテレビもつけずにボーッとしていた。


「……お風呂入らなきゃ」


着替えのために立ち上がり服を脱ごうとした時、ブラウスに染みがついていることに気付く。どうやら私は浮かれていたらしい、勢いよくラーメンを食べたせいで汁が飛んでいたみたい。この染み、黒尾さんに気付かれてしまっただろうか?
でもこんなの、たとえ洗剤で落とせなくてもクリーニングに出せばなんとかなるし。最悪の場合新しいブラウスを買えばいい。また黒尾さんが「かわいい」って思ってくれるようなのを。

……以前の私なら、服にラーメンの染みがついた日にはイライラしたり落ち込んだりしていたけれど。恋ってものはこんなにも人の心を軽く広くしてくれるのか。




「おはようございます!」


無事にブラウスの染みが取れた翌朝、いつもと同じ時間に出社した私を見て先輩の佐々木さんが「あ」と口を開けた。どうやら物珍しそうに私の顔を見ている。


「おはよう。なんかいいことあったの?」
「え」
「元気に見える」


今朝眉毛を描くのを失敗してしまったので、それを指摘されるのかなと思っていたが違ったらしい。眉毛は上手く修正できていたようだ。それよりも私がいつもより元気そうに見えるのが気になる様子。
確かに今日の私はすこぶる元気だ。むしろ昨夜もドキドキして寝付けなかった。黒尾さんとの会話をずっと思い返していたから。


「……あ。いや、たまたま早起きしたのでスッキリしただけで」
「へえー」


まさか佐々木さんに「実は片想いの黒尾さんと一緒に帰りまして」なんて言えるはずもない。佐々木さんのほうが社歴が長く、黒尾さんをよく知っているのだ。
元気なのは早起きしたからだと誤魔化して、私はデスクに荷物を置いた。鞄を開けて水筒などを出そうとすると、他にも話があるらしく佐々木さんが机をトントンと叩いてきた。


「そういや来週から新人ちゃん配属だから、一応私が教育担当になるんだけど」
「ハイ」
「そっちの机に移動できる? 今の白石さんトコに新人ちゃん座らせるから」
「あ……そうなんですか。分かりました」


私の席は先輩である佐々木さんの隣で、配属されてからこれまで色んな仕事を手伝ってもらいながら働いてきた。おんぶに抱っこの状態も卒業しなければならないらしい。
近くには他の先輩もいるので、できれば新人さんにはそっちの隣に行ってもらいたかったんだけれども。佐々木さんに甘えてばかりじゃ私も成長できないもんな、と渋々納得することにした。独り立ちってやつだ。

始業開始まで十五分ほど余裕があるので、朝礼前に席移動を開始した。ちょっと面倒くさいけど、パソコンのモニターと本体を新しいデスクに移動して繋ぎ直す。この作業、床のコンセントも抜いたり差したりしなきゃいけないから手が汚れちゃうんだけど仕方ない。佐々木さんも手伝ってくれたのでスムーズに移動することが出来、問題なくパソコンも電源がついた。

これまでは佐々木さんの横で壁に向かって仕事をしていたけれど、今度の席はフロア内が良く見える。ちょっと遠いけど窓が見えるから、外の景色を眺められるのも気分転換になりそうだ。何よりこの席からなら、黒尾さんの仕事をする姿も目に入るのでは!?
そう思って黒尾さんの席を遠目に見たけど、姿がない。まだ出勤してないのかな。残念だなあとパソコン画面に向き直った時、視界が少し暗くなった。


「おはよ。席変わったの?」


声だけで分かる。黒尾さんだ!
顔を上げると黒尾さんが私の新たな席を覗き込んで、にこにこ(あるいはニヤニヤにも見える)笑っているところだった。


「は、はい。オハヨウゴザイマスッ」
「あ、黒尾くんおはよー。来週から新人来るから、白石さんに移動してもらったんだよ」
「へえーそうなんですね」


近くにいた佐々木さんも黒尾さんに挨拶をして、席移動の事情を話す。黒尾さんは空っぽになった元の席を見て、そこに新しい人が座るのだと理解したようだ。そして更に口角を上げると、いたずらっぽく言ってみせた。


「これからはコワイ先輩から離れて黙々と仕事できるんじゃない?」
「へ」
「ちょっとちょっと黒尾くん聞き捨てなりませんよ。私は優しく教えてましたけど」
「ホラ怖いよねこの人」
「い、いや」
「自分の席戻りな! 朝礼始まるよ」
「へい」


漫才みたいなやり取りは、佐々木さんが黒尾さんを「しっしっ」と追いやったことで終了した。

これまで佐々木さんと黒尾さんがこんなに親しそうにするのは見たことがなかったので、ちょっと驚いた。佐々木さんのほうが私の何倍も黒尾さんのことを知っている。黒尾さんが入社してから仕事に慣れてバリバリ案件をこなすようになるまでの過程も知っているのだ。当然といえば当然なんだけど。

つい最近黒尾さんと親しくなったばかりの私がラーメン一杯で浮かれるなんておこがましいかも、なんて思えてきた。それどころか、もしかして佐々木さんと黒尾さんとの間には、過去に何かあったんじゃ……。


「ほらね、黒尾くんて顔はいいけど可愛げがないんだよね」
「は、はあ」
「て言うか朝から若い子に絡むとか! 白石さんに変なちょっかい出さないように言っとこうか?」
「だ、大丈夫です!大丈夫ですから」


男女のアレコレがあったようには見えないものの、ふたりとも大人だから表に出してないだけかもしれない。でも、本当に何も無いかもしれない。私が黒尾さんを好きだから、余計な心配が頭を過っているだけかも?
考えれば考えるほど分からなくなってきた。



あの後は特に何事もなく朝礼があり、私は新しい景色に少し戸惑いながらも業務に当たった。席が変わっても仕事内容は一緒なので、画面に集中すればいつもと何ら変わらないのだが。印刷したりスキャンしたりする時に、移動するのがちょっと慣れないだけで。

昼休憩を終えて仕事がひと段落すると、少し眠くなってきたので席を立った。窓の外はぽかぽかしていそうだし眩しくて、それもまた眠気を誘ってくる。自販機でコーヒーでも買おうと歩いて行くと、なんとそこには人影が。どうしよう、やだ、いや嬉しい。


「お」


都合が良すぎて運命を疑ってしまうような立ち姿。先に居た黒尾さんが缶コーヒー片手に立っていて、壁に背中を預けてスマホを触っているところだった。


「お疲れ様です」
「お疲れー。新しい席、慣れた?」
「はは……はい。なんか今までと座る向きが違うので新鮮です」
「わかる」


そう言うと、黒尾さんはコーヒーをひとくち飲んだ。
そこから私は話をどう広げていいか分からなくて、黒尾さんに背を向けて自販機の前に立った。コーヒーはいくつか種類があるけれど微糖が好み。黒尾さんが飲んでいるのはブラックだ。確かに苦いのが好きそう。同じものを選べば意識してくれるかなと思ったけれど、あいにくブラックは苦手なので大人しく微糖のボタンを押した。


「……」


ガコン、と缶が落ちてくる音。かがんでそれを取り出して、また立ち上がる私を黒尾さんは見ているだろうか。それともスマホに集中して、私のことなんか気にもしていない? もし私が佐々木さんのようにフレンドリーに彼と話せる相手なら、もっと楽しい会話ができるだろうか。


「黒尾さん、て、その……佐々木さんと、よく喋ったりとかするんですか」


気付いたらこんなことを口走っていた。
何聞いてるんだ私、と思った時にはもう遅い。慌てて口を覆うのも怪しまれるし、とりあえず缶を開ける動作をしながら何食わぬ様子を装う。幸い黒尾さんはそこまで不思議がる素振りはなく、缶の飲み口を顎に当てながら言った。


「そうかな? そうかも。佐々木さんとは一年しか変わんないし」
「ですよね」
「たまに俺の仕事も手伝ってもらったりしてたから。あ、あと知ってる? 佐々木さんって三年目まではバリバリ営業してたの」
「なんとなくは……」
「一緒に営業回らせてもらったりとかね」


それって、ふたりで? なんてのは聞けない。聞きたいけど聞けない。
佐々木さんがもともと外回りの営業経験があるのは聞いたことがある。でも、黒尾さんと一緒に営業行ってたなんて知らなかった。本当に私、黒尾さんのこと何も知らないんだ。しかも「佐々木さんとよく喋るんですか」なんて、聞く人が聞けば私の気持ちなんてバレバレじゃないか。


「……すみません! 私、へんなこと聞きましたよね」
「はは。ちょっとね」
「すみません……」
「いや俺は全然いいんだけど。佐々木さんとは何があったわけでもないし……俺、佐々木さんの好みっぽくないっしょ?」


黒尾さんは自分の顔を指さしながら笑っていた。確かに佐々木さんの好みは爽やかで可愛い犬系男子だって聞いたし、ちょっと系統が違う。でも黒尾さんの言葉は私に対するフォローに聞こえる……のは、やっぱり都合が良すぎるだろうか。
だって、フォローする必要なんか無いんだもん。黒尾さんが私のことを特別だと思っていない限りは。
そう考えると急に顔が熱くなってきて、冷たいコーヒーを飲んでるはずなのにホットを飲んだような感覚に襲われた。


「……も、戻ります」
「お?」
「失礼しますっ」
「あ、ちょっと」


小走りで、だけどコーヒーの中身がこぼれないように、私はその場を後にしようとした。黒尾さんはいきなり動いた私を今度こそ不思議に思ったらしく、焦った様子で声を張った。


「ホントに勘違いしないでよ? 俺、今までは会社の誰ともそういう関係になったことないから!」


黒尾さんにしては珍しく、だんだんと尻すぼみになっていく声。そんなこと、わざわざ私を呼び止めてまで言うなんてどういうつもりなんだろう。
怖くて振り向けない。怖い理由はいくつもある。今の私の顔を見られること。そして、黒尾さんの言葉が聞き間違いだったらどうしようってこと。もし聞き間違いじゃなかったとして、私の解釈とは違う意味での言葉だったらどうしようってこと。だって「今までは」って何? それってつまり、今後は分からないってことだ。


「……これからは有り得るんですか」


もしかしたら私の声は届いてなかったかもしれない。それならそれでいい。
黒尾さんからの返事はなく、代わりに少し笑いを噛み殺すような息遣いが聞こえてきた。そのまま缶をゴミ箱へ捨てる音。それから私の横を追い越しざまに、ようやく「それはどうかな?」と答えてくれた。イエスともノーとも取れないその言葉に私がどれほど悩まされ、心をときめかせるのかを分かっての発言だろうか?