04


退勤する時、黒尾さんに呼び止められたのは二週間前のこと。
恐らく私に何かの用事があっように見えた。でも「やっぱいいや」と言って、結局なんだったのかは教えてくれず。私も私で、気になるけどしつこく聞けないまま終わってしまった。

数日間はそれが気になってしまい黒尾さんをチラチラと見てしまったけど、そのうちそんな些細なことは頭から消えた。彼を「いいな」とは思っているけれど、幸い仕事に支障をきたすほど盲目にはなっていないのだ。私はまだまだ二年目の新人。男の人にうつつを抜かす余裕はない。


「白石さん、さっき頼んだ件って……」


昼休みに入ろうとした時、課長が恐る恐る話しかけて来た。三十分ほど前に資料作成を頼まれたんだけど、それを終わらせる前にのこのこランチに行こうとしているように見えたのかもしれない。
が、似たような資料を前に経験していたので、あまり時間をかけずに作成することが出来たのだった。


「あ……それでしたら、たった今終わったので確認依頼のメールしました」
「え、そうなの?」
「すみません、声掛けたほうが良かったですよね」
「いやいやそれは大丈夫。確認しときますー」


そう言うと、課長は自分の席に戻って行った。大丈夫とは言われたものの、終わったら終わったと口頭で伝えるほうが親切だよね。今みたいなやり取りが減るし。反省反省。


「ただいまー」


そこへ、一足先に昼休みに出ていた先輩の佐々木さんが戻ってきた。満腹になったらしく「どっこらしょ」と腰を下ろし、苦しそうにお腹を撫でている。戻って早々だけれども佐々木さんに用があるので、私は椅子を近づけた。


「佐々木さん、さっきA社の担当さんから電話ありました」
「えー! タイミング悪っ」
「一応私でも分かる内容だったのでお伝えしたんですけど」
「ほんと!?」
「あ、でも念のためそこに内容メモ貼ったので……間違ってないか見といてもらえませんか」
「おっけー助かるー。ありがとう」


佐々木さんは私がデスクに貼った付せんを確認し、目を通すとゴミ箱に捨てていた。どうやら内容は問題なかったらしい。先日私がA社におかした失態は、少しずつ挽回できているかもしれない。

それから私も昼休みを取得した。節約のために時々お弁当を作っているので今日はお弁当だ。頻度は本当に時々で、週に二回くらいなんだけれども。恥ずかしながら一度も作らない週もあるんだけれども。会社のまわりにはコンビニもあるし飲食店が多いから。

今日は自分で作った質素なお弁当を、休憩室のレンジでチンして食べた。我ながら料理はあまり得意じゃない。茶色いおかずを見ながら苦笑いしそうになったけど、どうせ誰かに食べさせるわけじゃないし。もし、もしも黒尾さんにお弁当を作ることになったなら、徹夜で頑張るつもりだけど。
……そもそも黒尾さんには彼女が居るかもしれないのに、勝手にそんな妄想をすることすらおこがましいな。


「いいじゃん! 完璧」


昼休みを終えてデスクに戻った途端、またまた隅に座る課長が話しかけて来た。しかし今度は恐る恐るではなくて、見たこともないようなきらきらした顔で。少なくとも私にはこんな顔を向けられたことがないので(いつも困らせるので呆れ顔ばかり)、少し身構えてしまった。


「な、なにがでしょう……?」
「さっき送ってくれた資料。分かりやすかったよ」
「ほ、ほんとですか」
「最近効率よくなった?」
「はは……今さらなんですけど、タイピングとか練習してます」
「そういうの大事大事〜」


なんと、私を応援するかのように椅子の背をぽんぽん叩いて行ったのだ。

入社してから一年ちょっと、課長に褒められたことなんて最初のほうの何回かしか無い。しかも、本来ならば褒めるほどじゃないようなこと。新人だった私の心を折らないために無理やり褒めたような感じ。
でも今、絶対に「普通に」褒められた! このあいだ失敗した時、諦めて辞めなくてよかった。辞める度胸も無いっていうのは秘密だけど。


「誰かーいま空いてる人!」


その声が響いたのは午後三時くらいだろうか、ちょうど多くの社員が眠気と戦っているころ。私もその一人だ。ちょうど業務がひと段落したので、ついついまぶたが落ちそうになっていた。
だから課長の声で目が覚めたというのもあるし、自分の手も空いている状態だったので、私はゆっくりと手を挙げた。


「私でも大丈夫ですか……?」


立候補したはいいけれど、私は以前に自ら名乗り出た仕事で失敗している。課長はそれを覚えているはず。だから「白石さんはちょっと……」と断られる覚悟はあった。が、課長は私を見て目の色を変えた。


「あ! 今いける? 緊急でお願いしたいことが」
「わ、私でよければですが」


念のため、本当に念のためもう一度私が「以前失敗した白石です」と分かるように伝えたが、課長は「大丈夫!」とすぐさま業務を振ってきた。

なんだろう。嬉しい。かも。頼られるってくすぐったいけど、嬉しい。このまま私が今の自分に驕り高ぶることなく過ごしていれば、新卒を受け入れても先輩としてきちんと尊敬してもらえるかもしれない。

結局、今回課長に頼まれた仕事は特に難しい内容ではなかった。だけど各取引先ごとに確認事項があったので、時間はかかる羽目になった。作業を終えたのは夜の七時半。もちろん定時を越えている。


「……結構遅くなった……」


暗くなった窓の外を見ると、自然にため息が出てしまう。仕事を頼んできた課長は会議室にこもっていて、偉い人と何やらミーティングをしているようだ。きっとまだまだ残るんだろう。そんな人たちに比べればこの時間に帰れるなんてラッキーだと思おう。

……というか、今日のぶんだって残業代もらえるし。一時間半でどのくらいのお金になるかな、夜は美味しいお惣菜とか買おうかな。


「まーた残ってる」
「!!」


晩御飯の内容を考えながら荷物をまとめていると、頭の上から声が降ってきた。
私が驚いた理由はいくつかあるけど(急だったとか、なぜ頭の上から? とか)、一番の驚きはそれが黒尾さんの声だったから。しかも私をからかうようにして笑っている、やわらかい声だったから。


「もしかして残業好き?」
「好きじゃないですっ」
「なんか頼まれてたもんな、そういや」
「でも今終わったので! もう帰りますよ」


帰る用意を終えたところだったので、私は鞄を見せながら立ち上がった。そのままICカードを打刻用の機械にかざして、本日の業務は終了だ。


「俺も帰ろっと。腹減ったし」


黒尾さんも既にパソコンをシャットダウンしていたらしく、私のすぐあとに打刻を済ませた。
そして同じタイミングで執務室を出ると、互いにお手洗いに寄ることもなかったので、同じタイミングでエレベーターの前へ。そして当然同じエレベーターに乗って、一階へと降りるのだった。運がいいのか悪いのか、二人きりのエレベーターに。


「……」
「……」


何を話そうか? へんなことを言って嫌われたくない。一階に到着するまでがこれまでで一番長く感じていた時、黒尾さんが口を開いた。


「……ねえ」
「はい」
「腹減った?」


唐突な質問に、思わず固まってしまった。お腹はもちろん空いている。昼休みを終えてから今まで何も食べていないのだ。お菓子はちょっと食べたけど。


「へ……減ってますが」
「だよな」


何が「だよな」なのかと首を傾げる。この時間なら、誰に聞いてもほぼ同じ回答が返ってくるはずだ。だけどその後続いた言葉には、もっと驚かされることになった。


「ラーメンとか好き?」


ポーン、とエレベーターの到着音。
私の頭もポーンとなった。これは、黒尾さんが私を晩御飯に誘っているということ? ラーメン食べないかってこと? それ以前に、この世にラーメンが好きじゃない人なんて居るのだろうか。答えはもちろんイエスだ!


「……おいしい!!」


反射的に「好きです!」と叫んだ私に笑いながら、黒尾さんは近くのラーメン屋に連れてきてくれた。駅から会社に行くまでの道からは少し外れてたので、このお店の存在は知らなかったんだけど。ひと口食べただけで感動的な味がして、何度も「美味しいです!」と言いながら麺を口に運んだ。


「っしょー? 昼は混んでて難しんだけどさ、この時間が狙い目なわけ」
「ランチも人気凄そうですもんね」
「そうそう」


昼休みにこの味を楽しめたなら、さぞ午後の仕事も頑張れることだろう。でもこれだけ美味しいお店なので、昼は激混みなのだそうだ。また食べに来たいけど、列に並ぶのに昼の時間を潰すのは勿体ないなあ。


「白石さん、前より仕事楽しそうだよね。よかったよ」


箸の止まらない私と違い、案外ゆっくり食べ進めている黒尾さんが言った。


「……え。そうですか」
「普通はだんだん慣れてくもんなのに、五月のアタマぐらいかな? なんか死にそうな顔してた気がする」


まだ記憶に新しい今年の五月。新卒二年目となった私は、更に新しく入ってくる社員のことで悩んでいた。今年の新入社員は優秀な人が多いと聞いてしまったので、ごく普通の大学を出て、この一年目立った活躍をしていない自分に焦りを感じていたのである。
が、それをあまり関わっていない黒尾さんにまで悟られていたとは。どれだけ暗い顔をしていたんだろう。


「あは……、ちょうど色々悩んでたので。つい最近まで」
「そうなの? 誰かに相談できてる?」
「はい」
「そう。ならいいけど」


一応、先輩の佐々木さんや人事の人に時折話すことはできている。昨年の春に新卒研修をしてくれた人事部の人が、何ヶ月かに一度面談を組んでくれるから。佐々木さんも私が困っていれば話を聞いてくれる良い人だ。
でも私が一番元気をもらえたのは、いま隣でラーメンを食べている人だったりして。


「ちょうど、その……ドン底の時に、黒尾さんがチョコくれたので」


そこまで言って、私は恥ずかしくなって更にラーメンを口に含んだ。美味しかったし緊張して食べてばっかりだったから、もうほとんど残っていないけど。


「……ああ。あの日ね」


黒尾さんは、私がひとりで残業していた時のことを覚えていたらしい。仕事が上手くいかずに凹んでいて、おまけにやるべき仕事をすっかり忘れていたせいで帰りが遅くなった日。しんとした執務室の中で、自分の情けなさにうんざりしたものだ。
そんな時に営業帰りの黒尾さんが現れて、恐らく私の疲れきった様子を見かねてチョコレートをくれたのだった。


「助かりました。あの時は」
「そんなそんな、たかがチョコ一個で。どっちにしてももう終わりそうだったんだろ?」
「でも、ほんと気持ちが楽になったので」


楽になったし、ほっこりしたり、きゅんとした。落ち込んでいる時に優しくされると、簡単に気持ちを持っていかれそうになる。しかも、あれから黒尾さんが前よりも親しくしてくれてるような気がして、余計に気になってしまうのだ。
今日だって、以前ならエレベーターで一緒になっても「お疲れ様です」くらいしか言葉を交わさなかったのにご飯に誘ってくれるなんて。ラーメンだけど。

考え出したらどんどん黒尾さんを意識してしまい、そのたび誤魔化すためにラーメンを食べるしかなかった。ついに麺が無くなったので、スープまで飲み干す寸前だ。食いしん坊の変なやつだと思われるかもしれないけど、赤い顔を見られるよりはよほどマシ。


「帰らなきゃな。出ようか」


やがて黒尾さんも食べ終えて少しすると、伝票を持って立ち上がった。もう九時前だ。明日も平日で仕事があるので遅くまでは居られない。黒尾さんの後ろについて入口近くのレジまで行くと、店員が「お支払いは別々ですか?」と尋ねてきた。


「あ。お会計一緒で」
「えっ!?」
「いいから」


財布を出した私を無視して、なんと黒尾さんが二人分を支払ってしまった。さすがにそれは良くないと、千円札をトレイに置こうとしたけれど黒尾さんの手が遮ってくる。店員さんも私の持つお金を受け取ろうとせずお会計が終了し、とうとうお店の外に出てしまった。


「黒尾さん! お金っ」


さっさと歩き出す黒尾さんの後ろで、私は再び財布を出した。奢ってもらうつもりで付いてきたんじゃないから。だけど、やっぱり彼はお札を受け取る素振りはない。


「いいって。誘っといて出さないとかカッコ悪いじゃん」
「でも……」
「申し訳なく思うなら、これからの仕事で返してもらおうかな?」


軽く言ってみせると、黒尾さんはいたずらっぽく笑った。
奢ってもらったぶんを仕事で返す。後輩として当然のことだ。嬉しいけど、なんか複雑。今日誘ってくれたのは私が女の子だからじゃなくて、会社の後輩だからって意味なんだな、と。ご馳走になったくせに、さっきまで浮かれていたくせに、なんだか胸がちくちく痛む。


「じゃあ俺、あっちの線だから」
「あ、はい……」


どうやら黒尾さんは、私とは違う路線を使っているようだ。駅での別れ際、あっさりと解散しようとする黒尾さんの様子にまた胸が苦しくなる。と同時に、私はあることを思い出した。


「……あの」
「ん?」
「この前、帰り際に何か言いかけてなかったですか? 私に」


先日、会社で退勤する際に黒尾さんとすれ違った。その時彼はなにかを言いかけて、結局「やっぱいいや」となんだったのか分からないまま。
私はそのことが気になっていたから今聞いてみたけれど、黒尾さんはぽかんとしていた。


「あっ、いや、忘れてたらいいんですけど! そんなに大事な用じゃなさそうだったし……」


やばい。恥ずかしい。本当に大した内容じゃなかったのかもしれない。私だけ意識して馬鹿みたい。呼び止めずにさっさと解散すればよかった。


「……あーね。アレか」


しかし黒尾さんは記憶を遡った結果、思い出してくれたようだ。だけど、今日もすぐには口にしようとしない。


「いや、言おうかどうか迷ったんだよな。結局言わなかったけど」
「何か私、ミスとかしました……?」
「ないない。そういうのじゃない」


もしかしたら私のミスを指摘するためだったのかなとも思ったけれど、違うようだ。じゃあ一体なんのため? まったく心当たりがない。
黒尾さんは今も、言うかどうか迷っているようだった。もしかして相当どうでもいい内容だったりして。わざわざ今になって聞いた私が馬鹿らしくなるようなことだったりして? だとしたら私、完全に余計なこと聞いてるじゃん。
「やっぱり言わなくていいです」と言おうとした時、黒尾さんがようやく口を開いた。


「ただあの日、なんか白石さんの雰囲気がいつもと違っててイイなと思ったから」


幻聴みたいな、ドラマの台詞みたいなこと。黒尾さんの視線は私の姿から少し外れていて、だけど表情ははっきりと見えた。ちょっぴり照れくさそうに微笑んでいる顔が。とたんに心臓が飛び跳ねるのを感じた。


「でもさー、そんなの言ったらセクハラみたいじゃん? と思って言うのやめといた。いま言っちゃったけど」


黒尾さんはすぐにいつもの様子に戻り、軽く笑いながら言ってみせたけど。私はそんな、ニコニコできる余裕はない。
もしかしなくても今、黒尾さんに女の子として褒められた。あの日の私は確かに普段と違った。新しいスカートを履いていたから。黒尾さんの存在を意識して、お洒落してみようと思った日だったから。


「……どしたの?」
「え、」


俯いていると、黒尾さんが心配そうに身を屈めてきた。
いけない、だらしない顔を見られる! と思った時にはもう遅くて、黒尾さんとばっちり目が合う。しかし、彼は私の想像とはちょっと違う反応をした。ぎょっとした様子で目を見開き、慌てて弁解らしき言葉を述べ始めたのだ。


「ごめん! そういうの言われるの嫌だった!?」
「へ?」
「そんなセクハラとかそういうつもりで言ったんじゃねーよ!? 言われた側がセクハラだと思ったらセクハラになっちゃうけど! それでも俺は違うよ!?」
「わ、分かってます」


どうやら私がセクハラだと受け取り、嫌な気持ちになって俯いたと勘違いされたらしい。
真っ赤な頬を見られなかったのは良かったけど、なんだかちょっと勿体ない。そんなふうに褒めてくれるなら、私は女としてその言葉を受け取りましたよと伝えたい。そして私のことを、あわよくば意識してほしい。


「あの時の服、思い切って買ったやつだったので……う、嬉しいです」


残念ながら私には小悪魔の素質が備わっていなくて、噛み噛みの台詞になってしまったけど。黒尾さんはぽかんとした様子で私の言葉を聞き、それから今度こそ赤く染まった私をその目で捉えた。


「……なにそれ。かわいっ」


黒尾さんがどんな顔でそう言ったのか分からなかった。私が彼から視線を外していたのももちろんだけど、黒尾さんも、ちょうど私からは見えない方向へ顔を逸らしたところだったから。