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身の丈に合わない場所って、世の中には存在すると思う。

今の私がそうだ。 思いがけず全国展開しているような大きな企業に就職できた。
大学を出て社会人二年目、まだまだ自分じゃ新人の気分だったけど歳下の社員が入ってきたところ。彼らは目下のところ研修中で、三ヶ月経てば色々な部署に配属されていく。私の居る営業部にも来るのだろうと思う。

と言っても私は外に出て営業をするわけじゃなくて、ひたすら事務作業や電話番といったところだ。一年経ってようやく取引先からの電話に慣れてきて、いちいち保留して先輩に質疑しなくても良いようになった。でも、それだけだ。私がまともに出来る仕事なんて、電話を取り次ぐ・簡単な質問に答える・メールのチェック、そのくらい。


「今年の新人、結構いい大学出てるんだって」


五月の中旬。ただでさえゴールデンウィークが明けてからというもの、仕事に対するモチベーションが下がっている私の耳にこんな話が聞こえてきた。

新入社員の話はなんとなく聞いている。新人紹介のメールが人事から届いていたし、簡単な自己紹介も書いてあった。この会社でやりたいことや、特技や趣味。私は去年の自分が何を書いたのかなんて覚えていない。それどころか今の自分が何をしたくて、何が出来るのかも分からない。だからそれらをきちんと文章に出来るだけで、新入社員は私よりも素晴らしいと思える。何よりさっき聞こえたのが本当なら、全然有名でも優秀でもない大学出身の私なんかすぐに追い越されそうだ。


「……」


考えていたら憂鬱になってきた。いくら私が特別なことが出来ないただの社員でも、給料を貰っている以上はやらなくちゃならないのに。
だから、それ以降は気持ちを切り替えて頑張ることにした。新人が配属されるまで残り一ヶ月以上あるし、同じ部署に来るかどうかも分からないし。私には私のできることをすればいいんだ。


「白石さん、 T社から来てるメール返しといてくれない? 今月中に納品しますって」
「はい。分かりました」


間もなく昼休憩に入りそうな時間帯に、通りがかりの課長に声を掛けられた。
私は仕事をもちろん引き受けた。T社とはやり取りをしたことがあるし、たった今読んだメールの内容も理解できること・私も把握していることだったから。
早速返信しようかと思ったけれど、課長はまだその場できょろきょろしていた。誰かを探しているようだ。


「あとさっき来たA社の……あーどうしよ。佐々木さんどこに行ってるか知ってる?」
「佐々木さんは今日、有休取られてて……」
「えー……そっかあ……じゃあいいや」


佐々木さんとは私の五年先輩で、仕事ができて優しい頼れる人。今日は偶然何かの予定があると言っていて不在なのだった。
そしてA社とは、私たちの会社と取引のある大きな企業。主に佐々木さんがA社のことを任されている。事務がメインなのに実際A社に足を運んだりして、恐らく先方からも信頼されている人だ。課長はきっと、A社について佐々木さんに頼みたいことがあったのだろう。今このデスク周辺に私しか居ないのを確認すると、やや残念そうに去ろうとしていた。

思えば、そこで私はそのまま課長を見送ることも出来たのだ。でもそうしなかった。私もなにか新しいことをやりたい。仕事を任されて、それをやり遂げて達成感を味わいたい。意外とやるじゃん、って思われたいと思ってしまったのだ。


「……あの!」
「ん?」


背中に向かって声を掛けると、課長は少しびっくりした様子で振り向いた。私の声が普段よりも大きかったからかもしれない。


「私でよければやります。今日ちょっと余裕があるので」


そして続けてこう言った時、課長はもっと驚きた様子を見せた。

断られるかもしれないと思ったけれど、課長も他の業務があったみたいで「じゃあお願いできる?」と任せてもらうことができた。
A社の話は佐々木さんから聞いている。向こうの担当さんが最近変わったとも話していた。ということは、私は注意を払ってこの仕事を行わなければならない。


「……って言ったものの思ったより大変だな……」


仕事を受けてすぐに昼休憩の予定だったため、「午後からでいいよ」と言われたのだが。席を立つ前に内容を確認すると、予想していたよりも時間がかかりそうだった。見たことのないファイルを開く必要があるし、私の知らないうちに新しい案件が始まっていたらしい。佐々木さんからの過去のメールを遡る必要がありそうだ。BCCに入ってて良かった。

と言うわけで私は思い切って昼休憩を諦め、メールの内容を確認するために時間を費やすことにした。
何十通もあるメールを読み返し、今回の業務に関わっていそうな箇所だけコピペしてメモに貼り付ける、そんな単純だけど気の遠くなる作業。小さな文字を読み返すだけで頭を使うので、一時間もすると目が乾燥してきた。

さすがに少しパソコンから離れたほうが良いかもと思い、フロア内の自販機へ足を運んだ。何を飲もうか、炭酸系? または目を覚ますためのコーヒーとか、エナジードリンクとか……と考えながら歩いていると、突然目の前に人影が。


「ひゃ」
「わっ。ごめん」


たぶん前髪くらいは当たってしまったかもしれないけど、ぶつかる直前に私も相手も足を止めた。同じ営業部の黒尾さんだ。と言っても私は事務だし担当している内容も違うので、あまり話したことはないんだけれども。


「すみません! ぼーっとしてました……」
「こっちこそ。歩きスマホしてた」


黒尾さんはちょうど缶コーヒーを買ったところらしく、缶を持った手を軽く上げた。もう片方の手には会社支給のスマホを持ち、恐らく仕事のメールを打っている最中。忙しそうだ。フロアの中だし、歩きスマホでもしたくなるだろうな。私みたいにいつも椅子に座って、大した仕事をしてない社員とは違う。


「気合い入れないと……」


今日の私はいつもの私じゃない。先輩である佐々木さんの代わりに仕事を任された、れっきとしたOLなのだ。
自販機に着いた私は迷うことなく黒尾さんの持っていたコーヒーを買った。出来る人と同じものを飲み食いすれば、なんとなく近づけるような気がしたのである。


「白石さん、A社の件いつ頃できる?」


課長から本日二度目の声を掛けられたのは、とっくにコーヒーが空っぽになってからのこと。

私がひとりで黙々と作業しているのが見えていたのだろう。だけどなかなか私からの報告も連絡もないから、進捗を確認しに来たのだろう。
そんなことはすぐに分かった。だけど声を掛けられるまでの私はすっかり集中していたので、時間を忘れて仕事に没頭していたのだ。そのため急に声をかけられ現在の時刻を確認すると、慌てて顔を上げた。


「すみません! あの、もうすぐ」
「だからもうすぐっていつ。催促の電話が来てるんだよ」
「え……」
「どこまで済んでる?」


血の気が引いた。課長からこの仕事を引き受けたのはお昼前。今の時刻は、なんと夕方の五時だ。もたもたしているうちに信じられないほどの時間が過ぎていた。佐々木さんならばきっと二時間程度で終わる内容のはずなのに。


「……あの……今、まだ……データの抽出中で」
「まだ!?」
「すっ、すみませ」
「もう分かった、ちょっと待ってて」


嫌でも分かってしまった。課長が苛々しているのが。
課長はいったん自身のデスクに戻ると電話をかけていた。恐らくA社宛だ。頼まれていた件の返答が遅れる旨を謝罪しているに違いない。私のせいで上司に頭を下げさせた。課長が溜息を押し殺しながら戻ってきた時には、血の気が引くどころか身体中の細胞が凍りついたような気がした。


「……あのね、佐々木さん居ないから仕方ないけどさ。やるって言ったの自分なんだから」
「はい……」
「ちょっと見てたけどファイルの場所分からなくて結構探してたよね」
「……はい」
「なんで聞かないの?」
「あの、皆さん忙しいかと」


これは半分本当で、半分嘘。忙しい人の手を煩わせたくなかったから。それに、「白石さんもやれば出来るんだ」って思われたかった。いちいち質問してばかりの姿を見せたくなくて、つい自分でやろうとしてしまったのだ。


「分からないことは聞く! 研修中に何回も言われだと思うけど?」


だけどそれらはすべて裏目に出た。フロアじゅうに響くんじゃないかと思うくらいの声で叱られてしまい、消えてしまいたい気持ちになる。全部自分が悪いんだけど。課長だってこんな大声出したくないに決まっている。


「……すみませんでした」


消え入りそうな声で謝ると、課長はまた何か言おうとしたようだったけど深呼吸をしてから言った。


「もーいいよ。あとはやる」
「え」
「それよりT社のメールは?」


私はまたポカンとした。今日これまで頑張っていたのはA社についての業務だし、T社って何のことだろうと。
しかし私は一瞬で思い出した。もしかしたら忘れたままのほうがある意味幸せだったのかもしれない。今朝A社のことを引き受ける前に、「T社にメールを返しておいて」と頼まれたのを。そして、そんなことはすっかり忘れて後から受けた仕事だけに集中していたのを。


「……!!」
「返してないの」
「すみません……!」
「はあ……」


今度はさすがに溜息を我慢できなかったらしい。課長は思いっきり眉を下げ、これ以上落ちないだろうという位置まで肩を落としてしまった。
もうすぐ後輩が配属されてくるのに、この失態。余計なプライドと意地で課長だけでなく相手の会社にまで迷惑かけて、今すぐ居なくなりたい。いっそクビだと言って欲しい。
魂の抜けそうな私を見て、課長はハッと我に返ったようだった。


「いや、ごめんね。色々頼んだ僕も悪かったかもしれないから」


結局こんな気を遣わせてしまい、その日は私のせいで課長が一時間半の残業。私は一通メールを返して処理するだけで、定時ぴったりに退社することになった。