20
ハイソパライソ


世界には何十億もの人がいて、日本には一億以上いて、宮城県だけでも気の遠くなるような数の人間が住んでいる。その中で誰かに選ばれたり認められたりするのは難しい。だから制服を着た俺たちはまず、その制服で年齢や価値を判断されることになる。

そんなもんくそ喰らえと思っていた日々だったが、俺もようやく悩み抜いた末、高校卒業後は就職することに決めた。その答えを出すまでに一緒に悩んでくれた女の子は、纏う制服に相応しく清らかに生きている。


「鈴が丘の制服だ」


一緒に歩いていると、ちいさな声でそう聞こえることもあった。そのたび俺は鼻高々になるのだ。学校名や部活や学科、将来の夢がなんだとか、そんなもので分けられる世の中に嫌気がさしていたはずなのに。こと白石さんに関しては、どうにも自慢したくてたまらない。俺の彼女は鈴が丘に通っているんだぞ!と。


「なんだかんだで五回目くらいだよね、うちに来るの」


やや緊張する俺とは裏腹に、白石さんはのんきな様子で言った。

俺たちは今、白石さんの家に向かって歩いているところだ。彼女の言うとおり五回目の訪問だろうか。
ちなみに前回お邪魔した時は白石さんの両親に呼ばれて行ったもので、俺が現れた瞬間に父親・母親とも俺に頭を下げてきた。本当に申し訳ないことを言った、何度謝っても謝りきれないとまで言われてしまい、呆気に取られた俺はしばらく玄関先で立ち尽くしたものだ。その後、白石さんが「中で話そう」と言ってくれたおかげで立派なリビングに通されたわけだが。
ひとまず白石さんの両親とは和解というか、俺という人間が娘の彼氏になることを認めてくれたようだった。


「……なんか、何回もお邪魔させてもらって申し訳ないな」
「いいのいいの。お母さん、二口くんのこと気に入っちゃってるんだもん」
「はは……」


前回からなんとなく、そんな気はしていた。話の途中から俺を「堅治くん」なんて呼んでいたし、息子ができたような気分なのかなと。好かれるのは全く構わないんだけど相手が倍以上の歳上だと、反応に困る部分もあったりする。なんたって彼女の親ときたもんだ。
そんなわけで、白石さんの家が近付くにつれてこれまでとは違う緊張感があるのだった。


「堅治くん! いらっしゃい」


俺と娘が帰宅したと分かると、白石さんの母親はエプロン姿で出迎えてくれた。やはり俺のことは「堅治くん」で確定らしい。まだ白石さんにも下の名前で呼ばれたことないんだけど……と思っていたら、白石さんは「その呼び方やめて!」とぷりぷりしていた。


「上がって上がって、もう張り切って色々作ってるところなの」
「わ。いいにおい」
「すげー……」
「出来たら呼ぶから部屋でゆっくりしててね」


キッチンから香る料理のにおいはレストランみたいで、自然と腹が鳴りそうになる。が、同時に少し恐ろしくもあった。今でこそ認められた関係だが、第一印象の俺はきっと最悪だったから。万が一今のが演技だとして、心の底では俺を憎んでいたら?


「……俺、毒とか盛られない?」
「盛らない盛らない」
「すげーこえーんだけど……」
「だよね。私もちょっと怖い」
「マジか」
「うそだよ! 大丈夫」


すっかり俺の前で冗談を言えるようになった白石さんは、笑いながら手を振った。


「お母さんまだ気にしてるからさ……二口くんに言ったこと。もちろんお父さんも」
「そんな気ぃ遣われるの慣れないな……」
「そのうち仲良くなれるよ。ちょっと厳しいけど、ほんとはすごくいい親なんだよ」


白石さんは、そんなことを話しながら階段を登っていく。俺もその後ろをついて行く。が、頭の中はフル回転だ。そりゃあいい親だってのは分かるけど、そのうち慣れるよって言われると、なんだかもっと深い関係になるのが前提になっているような。途中で白石さんもそれに気付いたのか、突然足を止めて振り向いた。


「……って、べつにその……私の親だからっ、二口くんの親になるわけじゃないからアレなんだけど!」
「う、うん」
「……いつかはそうなるかも知れないっていうか、……」


っていうか、の続きを俺は待った。「そうなったらいいなと思ってる」って言ってくれるのかなぁと思ったが、白石さんは気まずそうに口を閉じたまま。その表情を見て俺まで気まずくなってしまった。もしも同じ気持ちでいるとしても、まだ俺たちは付き合い始めたばかりだから。他のやつと結婚してほしくないって言ったことがあるくせに、何を今更恥じらってんだと思われるだろうけど。


「……っここ私の部屋! どうぞ!」
「お、おお」


案内された白石さんの部屋は、二階の一番奥にあった。初めて入る女の子の部屋。それもお金持ちの女の子。俺の部屋よりも少し広くて、物は整頓されている。


「うわ……綺麗」
「そうかな」
「でも、思ったより普通だ」
「どういうこと?」
「もっとこう……お嬢っぽいかと」
「はは」


想像していたのはシャンデリアみたいなライトとかヨーロッパの王朝みたいな感じのベッドだが、意外に部屋の中までは格差を感じなかった。普通の勉強机に普通のカーペット(もしかしたら高価なのかも知れないけど)、普通の棚には普通に教科書とか本が並んでいる。唯一普通じゃないものは、大量の楽譜とバイオリンが置いてあることだ。奥には大きな窓があって、あの日あそこから脱走したのかと思うとちょっぴりシュールである。


「……中、入る?」
「う、うん」


俺が入口で突っ立っていたので、白石さんが中へと促した。
どうしよう。女子の部屋に入るなんて初めてだ。以前付き合ったことのある子は、家に招待される前に別れてしまったし。部屋に招かれた後はどうするのが適切なんだろう。


「そこ座って」
「あ、はい……」


またまた突っ立っていた俺に白石さんが指示をして、用意されていたクッションの上に座らされた。白石さんも隣に座り、しばらくふたりとも真ん前の壁またはテーブルを睨みつける状態となる。だって、横を見たら白石さんが座ってるし。後ろには白石さんがいつも寝起きしているベッドがあるし。ここ、ふたりっきりだし。


「……どうしたの? なんかカタいよ」
「いや、だって」


そりゃあ硬くもなるだろう。親公認とはいえ彼女の部屋に初めて入っているのだから。俺から何か話しかけるべきだって思うけど、話題が見つからない。部屋整ってんね、とか音楽でも聴く?とか言えばいいんだろうけど。

考え込んでいると、隣で白石さんがもぞもぞし始めた。どうしたのかなと思ったら、なんと自分のクッションを俺にぴったり近付けてその上に座り直した。肩と肩が密着する。肩だけじゃなく、俺の右腕と白石さんの左腕もくっついている。夏服だったら大変だった、制服越しの今ですら白石さんの腕の感触にドキッとしてしまってる。
更に白石さんの頭がこっちに傾いてきて、俺の肩に乗せられる形となった。かなり積極的。


「……白石さん」
「だめ?」


白石さんがちらりと俺を見上げて聞いた。そんな角度でそんなふうに言われたら、許可するしかない。そもそも全然嫌じゃないし大歓迎だし。単に俺の心が追い付いていないだけで。


「……だめじゃないっす……」
「よかった」


ほっとしたように微笑むと、白石さんはまた前を向いた。もちろん頭は俺の肩に乗っかったままだ。首筋を流れる白石さんの髪がくすぐったくて、ぞくぞくする。すげえいいにおい。今唾を飲み込んだら絶対に聞こえてしまうだろうな、我慢しなくちゃ。


「手、繋いでもいい?」


ところが白石さんからの次の質問で、とうとう俺は唾を飲んだ。それはそれは大きな音がゴクリと鳴って、自分の喉仏が上下したのを感じる。
「いいよ」と答えた俺は右手を開き、そこへ白石さんの左手が指ごと絡まってきた。かと思ったらそのままだと繋ぎにくかったのか、いったん離して腕をするりと組んでから繋ぎ直してきた。白石さんが動くたびにびくっとする俺は相当おかしかっただろう。


「……」


それから驚くことに五分、もしかしたら十分ほどの時間が流れた。
既に俺も白石さんも手に汗をかいて、しっとりと湿っている。だからって離そうとは思わないけど、「こいつ汗っかきだな」なんて思われたら嫌だな。


「……あのね。二口くん」
「へ、はい」
「私ね……」


そこで白石さんが言葉を止めた。もしかしてやはり「汗きもちわるい」とか言われるんだろうか。白石さんに限ってそんなこと言わないだろうけど、いやでも我慢させるのは良くないし、実際いま俺すっげえ汗かいてる。
離すかどうか迷いながら次の言葉を待っていると、白石さんは細い声で呟いた。


「…………キス、してみたい」


ちょっとの間、互いに沈黙。恐らく白石さんは俺の反応を待っていたから沈黙したのだろうけど、俺は全然違う意味で沈黙した。夢か現実か考えるのに数秒、言葉の意味を理解するのに数秒、「キス」がどんな行為かを思い出すのに数秒。結構なタイムラグののち、俺は飛び上がって驚いてしまった。


「ええっ……!」
「いやっ、あの! 二口くんがいいならだけどっ、ごめん私そういうのしたことなくて」


慌てて白石さんが俺から離れ、弁解らしきものを始めた。


「……どうやってするのが普通なのか分かんなくて……つい。変なこと言ってごめん」


そして、だんだんちいさくなっていく声。同時に白石さんの視線も自分の膝へと落ちていった。


「……白石さん、キスしたことないの」


どうやってするのが分からないってことは、そういうことだ。きっとそうなんだろうなとは思ったけれど、真っ赤になった白石さんが可愛くてついつい聞いてしまった。そして、さらに赤くなった彼女はこくりと頷いた。


「男の子と付き合うのも初めてだから……」


この幸せと胸のときめきを自分だけの中に留めるなんて勿体ない、盛大に自慢したい。だけど誰にもこんな彼女を見せたくない。矛盾した興奮に包まれながら、俺はまたゴクリと喉を鳴らした。


「二口くん、したことある?」


ひどい辱めを受けているような色っぽい顔で、白石さんが言った。


「あったらどうする?」
「……あるんだ」
「嫌いになる? 俺のこと」


嘘はつきたくない。だけど「あるよ」とも言いたくない。見事に俺の心を察した白石さんだったけど、その表情はとても暗い。


「……ならない。でも」
「うん」
「かなしい」
「……」
「でも、そんなの考えても不毛だって分かるから……分かるけど……」


俺自身、過去に付き合った女子とのことであれこれ言われるのは嫌だった。白石さんもそんなことで俺を責めたくはないのだろう。言いようのない嫉妬を抑えようとする姿が健気で、だけど少なからずムッとしているのが隠せてないのも意地らしくて。


「!」


自然と伸ばした手で白石さんの顔に触れると、びくっと身体を震わせた。だけど逃げようとはせずに、俺の指が二本、三本と頬にあてがわれるのをじっと受け入れている。固まった白石さんの顔を、その三本指の力だけでこちらに向けさせるのは簡単だった。


「しよ」


短く言うと白石さんはひときわ強く唇をかんで、ほんの数ミリ程度の動きで頷いた。


「……ど、どうすればいい、の」
「目ぇ閉じてればいいよ」
「そしたら見えない……っ」
「大丈夫だから」


というか、閉じてくれないと俺の最高に恥ずかしい顔を見られる羽目になってしまう。それにキスって普通、目を閉じるものだよな。日本のドラマも海外映画もそうだから、きっと万国共通なんだよな?
白石さんはまぶたを震わせながらもゆっくりと目を閉じて、ついでに唇もやや強めに閉じられていた。嫌というほど緊張が伝わってくる。だから「しよ」って言ったものの、本当にファーストキスを奪っていいのか不安になってきた。


「……マジでしてもいい?」


念のため最後に聞いてみると、白石さんが薄く目を開いた。「やっぱりまだだめ」と言われるかもしれない、それならそれでいい。無理やりしたくないから。超したいけど。白石さんの口がゆっくりと動き、許可か拒否どちらの言葉が紡がれるのかを待った。


「して……」


聞こえてきたのは俺を受け入れる言葉で、とんでもなく潤った声だった。

白石さんは自ら再び目を閉じて、俺の唇が触れるのを待つ。どうしてか今は俺のほうが緊張している。閉じられた目からのびるまつ毛の長さも、つるつるすべすべした頬の赤みも、ぜんぶ俺に向けられてるんだって思ったら。

だけど、いざその時は緊張したところなんか見せられないし見せたくない。白石さんの肩を抱き、1センチ顔を近付けるごとにスローモーションになっていく。ここまで来れば何も見えなくても問題ない位置まで来た時、俺もついに目を閉じた。そして次の瞬間、やわらかく潤った唇に触れた。


「……っ!」


互いのそれが触れ合った瞬間、白石さんはいっそう身体を硬くした。リラックスさせるように肩を撫でてみたものの全く意味がなくて、唇を合わせているあいだはずっとカチンコチンになっていた。何秒間か経過して顔を離すと、酸素を求めるように大きく息を吸う音。


「……息、止めたら駄目だよ」
「でも……」
「鼻で息すんの」
「難しい……」
「もう一回する?」


その問いかけに、白石さんは恥じらいながらも目を閉じて応える。この可愛い生き物が本当に俺の彼女とは、今まで積んだ徳では補いきれないほどの喜びだ。残りの人生でもっともっと善いことをしなきゃ釣り合わないだろう。

二度目のくちづけで、ぎこちないながらも白石さんは呼吸しようとしていた。だから窒息の心配もなさそうで、先程よりも長い時間、唇を重ね合うことができる。さすがにいきなり舌を入れたりできないけど角度を変えたり、少しだけ吸いつくようにしてみると、戸惑う白石さんの声が漏れた。


「……ん、ぅ」


水の中にいるようなぷるんとした唇の潤い。湿った音が繰り返し響く。だんだんと白石さんの力が抜けてきて、俺の甘噛みに応えてくれるようになった。
一時間くらいキスしてるんじゃ? と思いかけた時(実際は十分とかなんだろう、それでも長いと思うけど)、ようやくどちらからともなく離れたのだった。ただし白石さんは、すっかり熱っぽくなった様子で。


「苦し……」
「え。大丈夫?」
「うん」


もしかしてもともと体調が悪かったのだとしたら、こんな息苦しいことをさせてしまったのは大問題だ。でもその心配はないようで、白石さんは両手で頬を多いながら言った。


「……幸せすぎて苦しい」


今、この瞬間に擬音を付けるならまさしく「きゅん」だと思う。「きゅん」って口で言いたいくらいきゅんとした。


「俺もっす……」


つられて真っ赤になった俺もそう答えて、なんか、今日の昼間普通に授業受けてたのが嘘みたいだ。親に敵対視されてたのも、殴られたのも。


「……もっとしたい」


驚いたことにそう言ったのは白石さんのほうで、俺の制服を控えめに引っ張りながら近付いてきた。
もちろん俺も同じ気持ちだったので、今度は同時に目を閉じて唇を合わせる……と、思った時。


「ふたりともー! そろそろ出てきてー」
「!!」


タイミングがいいのか悪いのか夕飯の支度が出来たらしく、部屋のすぐ外で呼ぶ声が聞こえた。弾かれたように離れた俺たちはドアを凝視したが、どうやら中には入って来ずにそのまま離れていく足音。それが階段を降りていく音に変わった時、崩れるようにふたりとも溜息をついた。

初めて呼ばれる彼女の親の手料理、無視するわけにはいかない。だけど、今この至福の時間を途切れさせたくない。一生懸命理性を戦わせた結果、そうだ、後でもう一度しようという結論に至った。

正直、今、あんまり腹減ってない。いや絶対減ってるんだけど、飯どころじゃないっていうか。だけどあんまりキスにばっかりがっついても駄目だ、幻滅されるかも。だから我慢して先に飯食って、あとは「お邪魔しました」の時間まで堪能すればいい。そう思うことにして立ち上がろうとすると、


「……もう一回、してから行こ……」


今度はさっきよりも強く制服を掴んで、白石さんが言ったのだ。
作ってくれた夕食、熱いうちに食べるほうがいいはずだ。分かっているのに、なかなか下に降りなかったら絶対怪しまれるのに、彼女の甘い誘惑に簡単に屈した。