19
ワンス モア シャイニング


しばらくのあいだその姿が幻覚か本物か、夢か現実かを判別するのに時間を要した。
ただし相手は俺が俺であることをはっきりと分かっているようだった。口元は言葉を探すように小さく開かれたり閉じられたりしている。長い睫毛が揺れ、大きな黒目に俺の姿が映されて吸い込まれそうだ。こんな瞳の女の子は他に知らない。


「白石さん……」


ようやく俺が喋ったのを聞いて、白石さんは少し安心したようだった。硬直したまま俺の頭がおかしくなったと思っていたのかもしれない。


「えっと、あの」


だけどすぐに白石さんは、うつむき加減で話し始めた。途切れ途切れに、困惑するように。俺が何か喋ればいいのだろうけど、あいにくびっくりし過ぎて言葉が見つからないのだ。


「私、今日の試合見てて……それで」


白石さんに言われて、そういえばついさっき青城に負けたのを思い出した。白石さんの姿を目にしたせいで、全く別の世界に飛び込んだような感覚になっていたが。あと三試合勝てば全国への切符が手に入るところだったのに、来年のインターハイまでその夢は取り上げられた。その負け試合を白石さんは見ていたらしい。

恥ずかしいような嬉しいような情けないような、格好悪くて消えて無くなりたいような。色んな感情が駆け巡ったけど、俺の頭は試合どころではなかった。主将失格だと罵られるかもしれないが。この瞬間に限っては、試合よりも大事なものが目の前にあるのだ。そしてその女の子は負けた俺に気を遣い、一生懸命喋っていた。


「なんて声掛けたらいいか分からなくて……帰るかどうか迷ったんだけど……いても立ってもいられなくなっ、」


そこで白石さんの言葉は一度途切れた。同じくいても立ってもいられなくなった俺が、彼女をいきなりこの胸に押さえつけてしまったからである。
突然俺に抱きしめられた白石さんは身体が強ばっていたが、押し返す力は感じなかった。かなり動揺した様子ではあるけれど。


「……ふ……ふた、くち、くん」
「やべえ……」


自分で起こした行動なのに、俺も俺で相当動揺していた。最悪の場合、もうその姿を見ることは適わないと思っていたから。


「ホンモノだ」


腕の中に本物の白石さんが居る。かつて香ったことのあるにおいがする。あまりに白石さんを想いすぎて幻を見ているのかと思ったが、この手に感じる身体の柔らかさは間違いなく本人だ。
そして、堪能するように力を込めていたせいか、白石さんが苦しそうに唸ったおかげで我に返った。


「あ……ご、ごめん急に」
「ううん。急に来たのは私のほうだから」


慌てて手を離す俺とは反対に、白石さんは余裕がありそうだった。さっきまで緊張しながら話していた気がするけど、自分より俺のほうが焦っているのを見て冷静になったのだろう。


「連絡くれてたのに、返事できなくてごめんなさい」


そして、やはり冷静な様子で頭を下げられた。
返事が来なかったこと自体はなんとも思わない。白石さんが悪いとは思ってないし、元はと言えば俺が引き起こしたこだから。むしろ俺からのメッセージが無事届いていて、読んでくれていたことに安心した。


「……いいよ、それは。それよりこんなトコ来て怒られねえの」


そう、それより俺が気になるのは白石さん自身のことだ。
俺の練習試合を見るためにレッスンを休んだおかげでスマホを取り上げられるような家だし、俺は二度も白石さんを連れ出して怒られているし。彼女の両親は金輪際俺になんか会わせたくないだろう。それなのに、のこのこ試合を見に来ていいのか? また酷く怒られてしまうのでは?


「うん。説得した」


しかし、心配する俺に対して白石さんはけろりとした様子で言った。


「……説得?」
「絶対後悔しないから、バイオリンじゃなくて保育士さんの勉強したいって」
「え」


白石さんに会えただけでも絶賛混乱中なのに、さらに混乱させられる内容だ。最後に会った時にはバイオリンをやりたくないと言って、親子間で派手な言い争いをしていたはず。あまりにあっさり「説得した」と言うけど、本当にあの両親が折れたのだろうか。


「そ……それで、説得って……できたの?」
「した!」


かなり強引に白石さんが言った。説得「できた」のではなく「した」ってことは、かなり無理を言ったのでは。親子の溝が深まっていないか心配だ。傍から見れば俺は関係ないかもしれないが、彼女の両親にとっては俺が諸悪の根源のはずだから。


「理解してくれたよ。私がバイオリンを辞めることと、二口くんは関係ないってことも……あの時のこと、お父さんにもちゃんとお詫びしてもらうから」
「えっ、いや……俺こそ謝らなきゃだし」
「どうして? そんな必要ない」


白石さんと俺とのテンションにはいささか温度差があった。俺がそそのかしたせいで、白石さんが親に反抗する生意気な娘になってしまったのでは……と寒気さえ覚えた。しかし白石さんは以前と同じで汚い言葉なんか使わないし、身振り手振りは全く下品じゃない。前のままの白石さんだった。ということは本当に話し合った末、自分の夢を突き通すことに成功したのだ。


「私、今まで親に言われたことしかやって来なかったから……ずっと文句言わなかった私も悪いんだけど。急に私が反抗し始めたから、余計に戸惑ったみたいで。それで二口くんにも失礼なことを」
「俺はいいんだけど……じゃあ、留学は……?」
「留学? しないよ!」


まさか! といった様子で白石さんが首を振った。


「音大にも行かない。普通の大学に行って、児童教育の勉強するの」


生き生きと話す姿には、もう自分の将来を思い悩む白石さんの面影はない。前は怒られるのを気にして、意見なんか言えなかったのに。


「……そこまで話したんだ。親に」
「ちょっと揉めたけどね……でも、今回は頭ごなしに否定されたりしなかった。認めてくれた」


やはり揉めたのは揉めたらしい。けど、基本的に白石さんの両親は娘をとても大事にしている。だから、正々堂々ではなく道を踏み外して白石さんを連れ回した俺は彼女の親に受け入れられなかった。当たり前だと思う。白石さんには世の中の汚らしい部分なんて全く縁がないし、似合わない。俺とは不釣り合いの、良家のお嬢様だ。保育士だって立派な夢なのに、それを認めさせるのも一苦労だなんて想像もつかない。


「……私がまだ、自分のことケジメ付けないうちは二口くんに会っちゃいけないと思って」


そのうえ白石さんは、俺のような人間に会うためのケジメを必要としていた。彼女の中で無事に決着がつき、ようやく俺の前に現れてくれたのだ。


「だから今日、やっと来れた」


清々しい表情の白石さんはとても眩しくて、自分にはもったいないくらいの出来た女の子だった。
今すぐ「来てくれて嬉しい」と伝えたいのに、残念ながら俺は素直に笑うことができない。立派に自分を貫いた白石さんが眩しくて、自分がひどく落ちこぼれた存在に思えてしまった。


「……ごめん。せっかく」
「え?」


白石さんは、俺が再会を手放しで喜ぶものだと思っていたかもしれない。だから暗い顔の俺を見て、心配そうに眉を寄せた。


「せっかく来てくれたのに、負けててゴメン……」
「なんで!? 全然謝ることじゃない」
「や、だって……なんか、俺」


自分でも引くほど深刻な声だった。悲しいわけじゃないのに喉が震えて、うまく言葉を発することができない。
白石さんはこんなに頑張って結果を手に入れたのに、俺は何も出来てない。完璧に自分の成すべき道を見つけた彼女の前では空っぽ同然だ。


「俺、白石さんみたいに将来のこととか考えられなくて……正直、部活やってんので精一杯だったのに負けるとか。マジで俺って何にもねぇなって」


さっき先輩たちに叱咤激励されて気持ちを入れ替えたはずなのに、そう簡単には無理だったらしい。惨めだし情けないし格好悪い、これまでで一番ネガティブな自分が居る。俺の目からは涙らしきものは流れなかったが、いっそ流れてくれたほうが良かった。カッコ悪い俺を見上げる白石さんの顔が、はっきりと見えてしまうのだから。
その白石さんは、あまり深刻な様子はなく「そうかなあ」と首を傾げた。


「二口くんが居なかったら、私はもっと何も無い人間だったよ」


そして、目の覚めるようなきれいな声で続けた。


「学校帰りに寄り道しなくて、ゾンビを殺したことなくて、ローラースケートしたこともないようなつまんない女の子だったよ」


俺と会う前の自分がいかにつまらない人生であったかを語る、自分を卑下する内容なのに清々しく話す。それらは全て俺と一緒に経験したことで、俺が教えたことだった。


「誰かに会いたいなって思ったりとか、手を繋いで息が苦しくなるのとか、熱くて熱くてたまらないのに離したくないとか……そんな感覚、全然知らないまま生きてたと思う」


話しながら白石さんは俺の両手をとった。熱くて熱くてたまらない手が、同じくらい熱くて熱くてたまらない俺の手を握る。そのまま溶けてくっついてしまいそうなほど。だけど離したいなんて思わない。熱で融解することはなく、しっかりと彼女の握力は込められた。


「もっと一緒に、色んなこと知りたい」


俺より小さい白石さんの手は、これまでで一番強い力で握っていた。決して離さないとでも言うかのように。でも「離さない」なんて俺の台詞で、もっと一緒に居たいとか色んなこと知りたいとか、全部俺が言いたいことだ。
白石さんは燃えるような瞳で俺を見つめていたけれど、なかなか返事が返ってこないので不安に思ったらしい。突然手をゆるめてしどろもどろになった。


「……あ、でも……まだ二口くんが……私のこと嫌いになってないなら、の話……なんだけど」


思えば俺は今日、再会を喜ぶ素振りを一度も見せていない。そんな余裕がなかったし、単純に喜んでいいのか分からなかったから。白石さんが不安に思うのももっともだ。だけど、何をどうしたら俺が白石さんを嫌いになるのだろうか?


「なるわけねーじゃん……」


いくらお金を積まれても気持ちは変わらないだろう、白石さんの何を知っても嫌いになる未来なんて想像できない。


「あ、」


一度は離された手を今度は俺が握り返した。あまりの熱さにびくりとした白石さんが思わず手を引っ込めようとするが、それを許すはずはない。そもそも白石さんの手だって火傷しそうなほど熱いのだ。


「好きで好きで仕方ないんすけど」


今度こそ溶けて混ざりあってもいい。そう覚悟して引き寄せた身体はとても軽くて、ただしやっぱり熱くて、夢見るようないい香りに包まれた気がした。