17
もう美しいのはやめた


ついさっき二人で居る時は天にも登るような夢見心地の気分だったけど、それは俺だけだったかもしれない。いや、本当は俺も心のどこかで、この時間が永遠に続くことはないと分かっていた。だから白石さんの手を思い切り握ったし、一歩一歩家に近づくごとに握る力は強くなった。白石さんも俺も手に汗をかいていたけれど、そんなこと関係ないかのように。

白石さんの家を追い出されてからしばらくは、自分を見失ったように歩いていた。
駅に着いても電車に乗る気分にはならず、何を思ったか歩いて家に帰ろうとした。のろのろ歩いたおかげで二時間程かかってしまい、終いには親から心配の電話が来る始末。俺は白石さんの親だけでなく自分の親まで心配させているのか。途端に情けなさが増して、帰ったらちゃんと謝ろうと思えた。親に向かって真面目に謝った経験なんて、なかなか記憶の中から辿れないな。

その日はさすがに連絡をする気になれず、したところで向こうの親の神経を逆撫でするだけだろうと思い、白石さんには何も送らずに就寝した。
朝起きた時、または翌日の夜になった時、もしかしたら白石さんから何か送られてくるかもしれない。それを待ってからにしよう。


「……」


ところが翌日、またその翌日も白石さんからは電話どころかメッセージのひとつも届くことはなかった。
前のようにスマホを没収されているのだろうか。その可能性は大いにある。そして、今度こそいつまで没収されてるか分からない。下手をしたら前のスマホは解約して、新しいアカウントに変えられているかもしれない。だとしたら連絡を取るのは無理だ。

一週間が経過した頃、あまりにも音沙汰が無いので別の不安も過ぎり始めた。
俺、もしかして逮捕されたりすんのかな。もう十七になるし、同い年とはいえ女の子を連れ回した。彼女の親に生意気な口を聞いてしまったし、悪かった部分が数え切れないほどある。

しかし幸いにも警察とか弁護士とか裁判所とか怖いところからの連絡はなく、同時に白石さんからも連絡は来ないまま二週間が経過した。


「じゃあ、くれぐれも赤点なんか取らないこと。解散」


顧問がそのように言うと、部員たちはいつもより少し覇気のない返事をした。

明日から二学期の中間テストが始まる。大会が近いからテストの後も体育館の使用は許可されているが、試合に出る前に赤点をとっては意味がない。成績が著しく悪い場合、試合に出させてもらえないのである。伊達工業の男子バレー部は今回こそ全国大会に一歩近づいたはずなのに、テスト結果なんかで台無しにされるのは御免だ。

今のところ勉強はそこそこ取り組んでおけばいい。難関大学を目指す訳でもないし。バイオリニストになりついわけじゃないのにバイオリンを練習するのも、同じ理屈でおかしな話だ。

白石さんは本当は保育士になりたいと願うのに、左手にバイオリン・右手に弓を持たされている。小さい時からやっているから肩を痛めた経験もあるし、顎に痣が出来たこともあると言う。重い楽譜を持ち歩き、この二週間もレッスンに行っているのだろう。


「……勉強したって、自分がやりたい職に就けるかどうかなんて分からないですよね」


白石さんの境遇を思いながらぽろりと口にした言葉は、チームメイトには意味が分からないようだった。最高学年のくせに練習を見に来てくれた先輩たちも、首を傾げていた。


「何だそれ。おまえ総理大臣でも目指す気?」
「俺の話じゃないです」


確かにちょっと抽象的なことを言ってしまったが、どこをどう聞けば俺が政治家になりたいと思うのだろう。鎌先さんは時々話が噛み合わない。脳筋だからかな。だけど、茂庭さんだけは俺の言った言葉について真面目に考察してくれているようだった。


「でも選択肢は広がる。テストの点が良いかどうかは将来に関係するぞ」
「そんなもん分からないでしょ」
「分からないけど……」
「何だ何だ、勉強が嫌なのか?」


また、鎌先さんが口を突っ込んできた。勉強が嫌なのではない。出来ればやりたくないけれど、嫌だからってテスト前に先輩の前で愚痴るほど落ちぶれていない……と思う。俺が言いたいのは全く別で、勉強に置き換えただけなのである。


「例えば俺がギターやりたいっつったら、このテストに意味は無くなる。でしょ」


逆に言うと、良い大学に入りたいのにギターの練習をするのは意味がない。趣味として上達したい場合を覗いて。そして、保育士になりたいのにバイオリンの連絡をするのも意味がないと思える。
音楽の話に繋げるのは苦肉の策だった。バイオリンを習っている鈴が丘の女子と知り合いだというのを、この連中に知られているから。勘づかれないように咄嗟にギターという単語を出した。


「……ギターやりてえの?」
「例えばって言いましたよね」
「この時期に例え話するのは遅いだろ」
「だって……」


どうも言いたいことが伝わらない。鎌先さんが「この時期に」と言うのも無理はないけど。今この進路に悩む高二の段階で、ギターだなんだと大袈裟な例えをするのはおかしい。そんなこと分かってるっつうの。
その間も真面目な顔で話を聞いていた茂庭さんが、再び口を開いた。


「本気でギターとか音楽やりたいなら、音大に入る道があるだろ。受験がある。勉強はやっぱり必要だ」


今、あまり聞きたくない単語を言われてしまった。音大。白石さんが放り込まれる予定の場所だ。


「やらない理由を探しちゃ駄目だぞ」


思わず言葉を失った俺を、茂庭さんは別の解釈で捉えていたらしく。子どもを叱る親みたいなことを言ってきた。


「……やらない理由なんか探してません」
「じゃあ何」
「できない理由がデカすぎるんです」
「お前それ勉強したくないだけだろ」
「だから、俺の話じゃないっつってんでしょ!」


話が通じないのは俺がはっきり言わないせいなんだけど、ついイライラして声を荒らげてしまった。俺の言葉遣いが乱暴なのはいつものことなので、誰ひとり怯むことは無かったが。


「じゃあ二口はもう、進路決めたの?」


今度は今、あまり聞かれたくないことを聞かれてしまった。
高卒で就職してきちんと働ける自信が、俺には今のところは無い。それなら大学に行って専門分野をもっと勉強するほうが良いのでは? でも、大学受験に耐えうる脳があるのかどうか。それに俺は、まだ誰にも言ってないけど、選手になる道だって諦めてはいないのだ。
だけどそんなこと、春高の後にだって選ぶ時間はある。俺が頭を悩ませているのはソレじゃない。


「……今、自分のことなんか考える暇ないっすよ」


先輩たちも、同級生もみんな俺の言うことは分からないようだった。分かってもらっちゃ困るのだが。まさか件の女子と関係が続いていて告白まで済ませて、その子の親に殴られましたなんて言えるはずもない。頬の痣を誤魔化すのも大変だった、部員には自分の父親と喧嘩したと言って無理やり納得させたけど。

白石さんからは、相変わらず連絡が来ない。可もなく不可もなく中間テストを終えたあとも、全く音沙汰は無かった。どうしても会いたければ俺は彼女の家を知っているので、会いに行くこともできるけど。そんなことしたら今度こそ警察に通報されるかもしれないし、試合前に問題を起こすのは絶対に避けたい。


『十月二十五日から試合だから』


来たる春高予選の予定だけは、淡白な文章で送っておいた。白石さんはまた試合を見たいと言っていたから。もしも既に俺がブロックされていたり、メッセージアプリのアカウント自体が変えられていたとしたら、完全に一方通行のメッセージになるけれど。


『来れないかもだけど、時間送る』


そうして試合のスケジュールを送信し、白石さんへのメッセージはこれで最後とした。既読になったかどうかを確認するのもやめておいた。気が散ってしまうから。もし返信が来れば浮き足立ってしまうだろうけど、幸か不幸か返信なんて来ないのだ。

俺は弱々しく恋する男の一人だが、同時にチームを引っ張る主将でなければならない。全国出場は自分だけじゃなく先輩たちの夢でもあるのだから、今だけは言葉は悪いが言わせてもらう。進路も恋愛もくそ食らえ。