16
さまざまな愛のかたち


風が吹く感触や遠くのほうを走る車の音、別世界のような街の灯りを眺めながら過ごすのはとても心地よかった。
公園のベンチに並んで座り、白石さんは俺の手を握ったまま、時折脚をぶらぶらと動かしていた。だんだんとその頻度は多くなり、落ち着きが無くなっていくのが分かる。ついさっき気持ちが通じたばかりの俺たちには、あまりふたりの世界に閉じこもる時間は残されていなかった。


「帰らなきゃ」


いつか、どちらかが言わなければならなかった言葉を白石さんが言った。


「うん」


分かっていた。行くあても金銭的余裕もない俺たちが、駆け落ちみたいにどこかに消えるなんて無理な話である。そんな覚悟は持ち合わせていない。


「二口くん、きっと怒られる」


白石さんの声は震えていた。このあと彼女を送り届けた際に起こるであろう出来事は、正直言って俺だって震え上がりそうだ。
先日は幸いにも母親だけが俺を怒り、少し罵られただけで終わったけれども。今日すっぽかしたのは家族どうしが集まる席だった。白石家の両親には大変な恥をかかせたに違いない。相手家族に紹介しようとした娘が窓から逃げていたなんて、どのように説明したのだろうか。


「いいよ。悪いことしたのは事実だ」


俺は自分に言い聞かせるように答えた。
どうせこうなることは覚悟していた。白石さんが「抜け出したい」と俺を頼ってくれた時から。だって、協力しなければ白石さんは、どこの誰だか分からない男と結婚の約束をさせられるかもしれないのだ。一度決まった結婚を彼女一人で覆すことが出来るとは思えない。それならば約束される前に逃げればいい。「こんな大事な席をすっぽかすかんて非常識なお嬢さんですね」と、相手の親がこの話を無かったことにしてくれれば尚いい。


「……あのね。一緒に来なくてもいいんだよ」
「なんで?」
「今日はお父さんが居るから……」


白石さんの、手を握る力が強くなった。どうやら父親の存在は怖いらしい。母親のほうもそこそこ厳しそうだったけれど。俺自身、自分の父親と言ったら家庭内では絶対的な存在だ。小さな頃から「お父さんのおかげで学校に通えてる」「お父さんが仕事を頑張ってくれてる」と、言い聞かされてきたから。男親というのは家族を護らなくてはならないのだ。白石さんの父親だってそれは同じはず。


「じゃあ、尚更一緒に行かなきゃだろ」


このような形で好きな女の子の父親に会う日が来るとは思わなかったが、前回同様自分たちの撒いた種である。白石さんだけが怒られるのを放っておくわけにはいかない。今度こそ一発くらいは殴られるのを覚悟しなければならないだろう。

電車に乗っている時も、降りて家までの道を歩く時も、白石さんは俺の手をぎゅうっと握っていた。どちらのものか分からない手汗が滲んでいる。家が近づくにつれて緊張してきたが、それを白石さんに悟られないようにするのは大変だった。嫌々家まで付いて行ってるとは思われたくない。

今日も白石さんは、家に入る前にインターホンを鳴らした。スマホは部屋に置きっぱなしだと言うし、いきなり鍵を開けて入るよりは、こっちのほうが良いだろうと思えた。家の中にいる両親にとっても心の準備が出来るだろう。娘が帰ってきたかもしれない、と。
扉の前に立っていると、早足で玄関に出てくる足音が聞こえた。続けてガチャリとロックを外す音。同時に俺の心臓はドキッとした。そして、いよいよ扉が開いた。


「すみれ……」
「ただいま」


出てきたのは白石さんの母親だった。
白石さんが無事に戻ってきたことへの安堵とも取れる表情だけど、当然それだけではない。目線はすぐに俺に向けられた。
見覚えのある茶髪の男が、今日も自慢の娘の隣に立っている。それがどう思われているのかなんて説明されなくても分かる。だから俺は何かを言われる前に、真っ先に謝ろうと口を開いた。


「……あの。今日は……」
「すみれ!」


だけど、緊張した俺の弱々しい声は簡単にかき消されてしまった。それだけでなく、白石さんの名前を呼ぶ声が聞こえただけで、俺の声は喉の奥に引っ込んだ。

これまで感じたことのない速度で心臓が早鐘を打つ。全身の汗が冷え切って、自分にとって最も恐ろしく不利な状況に置かれたことにすぐに気付いた。
白石さんを呼んだのは大人の男の声で、慌てた様子で玄関まで走って来る。足音が母親のそれとは全く違った。「殴られるとしたらどこだ?」と瞬時に考えた。顔? 肩? 腹? それとも俺のことなんて見もしないだろうか? そんなことを考えているうち、とうとう白石さんの父親らしき人物が姿を現した。


「お前……お前どこに行ってたんだ!?」
「ごめんなさい……」


父親は心底心配した様子で、また怒りを抑えている様子で怒鳴った。白石さんが小さくなって俯き謝ると、やれやれといった様子で溜息を吐く。やはりまずは無事に戻ったことに安心する気持ちがあるのかもしれない。
しかし、当然だが俺の存在が無視されることはなかった。


「……一緒に居るのは誰なのか説明しなさい」


その時初めて俺と目が合って、娘にとって有害なものであると断定したような、鋭い目付きを向けられた。
この質問、俺が答えるべきだろうか。「娘さんの友人です、今日はすみませんでした」とすぐに頭を下げることが出来たなら、少しは許してもらえただろうか。だけど俺には無理だった。言葉が出てこなくて息を呑むうちに、白石さんが一歩前に出た。


「お父さんあのね、この人は悪くないから。私が頼んだだけだから! 佐々木さんに会うのが嫌で、それで」
「それで勝手にうちの娘を連れ出したのか?」


「佐々木さん」というのは、今日会うはずだった家族の名前だろう。父親は白石さんの言葉を遮ったが、彼の言葉は的確であった。そして、今度こそ俺に向けて、俺が答えるべき質問をした。


「……そうです」


白石さん自ら「会いたくない」「逃げたい」と俺に助けを求めてきたものの、迎えに来てこの家から離したのは俺だ。
俺が肯定の言葉を発すると、途端に父親の表情は怒りでいっぱいになった。情けないけれど俺は本当に、自分の親以外にこんなに怒りをあらわにされるのは初めてで。怖気付いて身体が固まったおかげで、彼が右手を振り上げても反応できなかった。

「お父さん!」


白石さんの声が高く響いた時には、俺は思いっきり殴られていた。よろけた拍子に玄関の扉に背中がぶつかり、ガタンと大きな音が鳴る。今、たぶん拳で殴られた。その驚きのほうが強くて、血の味がした時に初めて左頬のじんじんする痛みを感じた。


「二口くん……大丈夫!?」


青い顔をした白石さんが心配そうに見つめている。大丈夫、って言いたいがかなり痛い。この親父、音楽だけじゃなくて格闘技やってんじゃないのか?
あまりのことに父親のほうを見ると、その横で白石さんと同じくらい青くなった母親が居た。まさか夫が暴力を振るうとは思ってなかったのかもしれない。


「お母さんから聞いてるぞ。初めてじゃないんだろ?」
「……はい。悪いと思ってます」
「思ってるならしないだろ! 馬鹿にしてるのか」
「してません」


馬鹿にしてるなんてとんでもない。俺は感謝さえしているのだ。こんなに可愛くて性格がよく、真面目で可憐で笑顔の素敵な女の子を育ててくれたことに。だから俺は二度も白石さんを連れ出した。「たぶらかした」と思われるかもしれないが、動機は至って純粋だ。


「俺はただ、白石さんに……結婚とかされるのが嫌だったんです」


佐々木とかいう家の息子がどれほど育ちが良くてイケメンで将来性があるのか知らないが、そいつに白石さんを紹介されるなんて真っ平御免なのだ。結婚なんて俺には遠い未来の話で、しかしたら一生そんな日は来ないかもしれないけど、少なくとも今白石さんを失うのは絶対に嫌だった。


「だったら勝手に大事な娘を連れ歩いていいのか? 夜遅くまで! 親の許可も無く!」
「だからそれは私が、」
「私たちはお前みたいな男に弄ばれるためにすみれを育てたんじゃない!」


家中のガラスが割れるのではないかと思うほど、父親は強く怒鳴った。白石さんはもはや泣いている。母親のほうは、どうにか少しでも落ち着かせようと時折背中や肩に手を添えていた。それほど今のこの人は鬼のような形相なのだった。
だけど反対に俺は冷静になった。と言うよりも、聞き捨てならない言葉のおかげで怒りや恐怖が振り切った。


「……確かに前も今日のことも、俺が悪いと思ってます。けど」


全面的に俺が悪い。いくらなんでも勝手に門限を破らせたり、約束があるのにすっぽかすなんて酷い行為だ。もっと良いやり方はあったはず。その選択肢を考える頭が無かっただけで。だけど今、これだけは否定してやりたいのだ。


「絶対に弄んだりしてません」


この時ばかりは俺も、この人に敵対心を剥き出しにしたと思う。思ったよりも大きな声で言ってしまったが、後悔はない。俺が白石さんを弄ぶはずなんか無いのだから。
庶民的な高校に通う学生にそんな口を聞かれてさぞかし逆鱗に触れただろう、父親は握った拳がわなわなと震えている。


「……なんだと?」
「お父さん、待って!」


俺は二発目を覚悟し目を閉じた。が、構えたけれども衝撃がない。ゆっくりと目を開けると、俺の前には白石さんが立っていた。まるでドラマのワンシーンみたいだ。


「どきなさい」
「いやだ! ちょっとくらい話を聞いてよ!」
「話をせずに家出したのは自分じゃないのか」
「お父さんだって私の話なんか聞かずに佐々木さんを呼んだでしょ!?」


白石さんは俺を護るように立ちはだかって、聞いたことのないキンキン声を張り上げている。彼女がこんなに感情を表すのは滅多にないのだろうか、両親ともに驚いた様子で見つめていた。そして白石さんは、彼らをどん底に突き落とす言葉を叫んだ。


「私、この人が好き。佐々木さんとは結婚しない! 二口くんが好きなの!」
「……いい加減にしなさい」
「バイオリンだってもうやらない! 保育士になりたいんだから!」


そこで娘の激昂にたじろいでいた父親も、再びかっとなってしまったらしい。驚いたことに手を上げて、白石さんの頬を引っぱたいてしまったのだ。


「お父さん!」


パシンという景気のいい音と、同時に母親が叫ぶのが聞こえた。白石さんは叩かれることなんて予想もしていなかったのか受身が取れなくて、慌てて俺が身体を支えた。


「……」


今の音を聞く限り、相当痛かったに違いない。だけど白石さんは、声も出ないようだった。叩かれた頬を押さえて、ひどい泣き顔で父親を見上げている。母親も両手で口を覆っており、まさかといった様子だ。
父親はというと娘に手を上げてしまうのは計算外だったらしく、自ら犯した行動に戸惑っているようだった。
いや、戸惑うくらいなら殴るなよ。いくら怒ってるからって殴るなよ。白石さんは何一つ悪いことなんか言ってないだろ。


「何してるんですか……」


自分の声は震えていたが、白石さんにもその両親の耳にも届いていたらしく。三人ともが俺に注目するのを感じた。


「大事な娘さんなんですよね? どうして殴るんですか」


どうして声が震えてるのか、最初は分からなかったけれど。俺は怒っているのだ。俺の好きな子に何てことをしてくれるんだ、と。
しかし父親も負けず劣らず怒っている。娘を叩いてしまった動揺を落ち着けながら、毅然とした態度で言った。


「家族の問題だ。きみには関係ない」
「あります」
「ないだろ!」
「ありますよ!」


この場で俺がブチギレるなんておかしな話だと誰もが思うだろう。だけど「関係ない」なんて言われたくない。俺の声が響いた時、今度は三人ともビクッとした。白石さんまで威圧するつもりはなかったのだが、声も勢いも止まらない。


「この子は俺にとっても大事な人です。あなたが父親でも、それ以上やったら許さないっすから」


誰かに対してこんなに怒りが湧くのは初めてだった。まさか好きになった女の子の親にこんなことを言ってしまうとは。
あと何発か殴られたって構わないと思っていたが、意外にも父親の手は上がらなかった。反対にだらんと両手を下げて、先ほどまでの勢いが消え、別人のような小さな声で言った。


「……早く帰ってもらいなさい」


そして、静かに家の奥へと戻って行った。その後ろ姿がとても弱々しかったので、たった今までムカついて仕方がなかったのに、急に申し訳ない気持ちが溢れてきた。


「……」


その場に残された全員が、しばらく黙り込んできた。嘘みたいに静まり返った玄関。時折白石さんが鼻をすする音のみが響く。何か声をかけるべきだろうけど、何も浮かばない。白石さんの母親も、今の出来事を受け入れるのに時間を要しているみたいだ。
やがて最初に落ち着きを取り戻したのは母親で、白石さんの肩を抱きながら言った。


「あの人の暴力は謝ります。でも今日はもう」


恐らく、「帰ってください」と言いたかったのだと思う。最後まで言えなかったようだけど、言いたいことは十分に理解した。


「……分かりました」


これ以上ここに居て、俺にできることなんかひとつもない。白石さんに一声かけようかとも思ったが、母親の胸の中で泣いているのを見ると、もう何も言えなかった。