15
恋の宇宙で溺れる可能性


門限を破ってからというもの白石さんはスマホを没収されることもなく、また俺とのやり取りを止めさせられることもなく過ごしている。
白石さん曰く、スマホがなければ親子の連絡手段がなくなってしまうので、単純に不便だからと没収されなかったようだ。前回一週間も取り上げられていたせいで、白石さんは外出中に親との連絡すらも取れなかった。それが母親にとっては不便だったらしい。
しかし俺にとっては好都合だった。あの時没収されたおかげで今は白石さんと連絡が取れるからだ。


「でっけー家」


改めて明るい時間帯に見た白石さんの家は、思わず言葉に出てしまうほど立派なものだった。漫画みたいに大袈裟なわけではないけれど、少なくとも俺の親ががこの家を建てるのは難しいことくらい分かる。

そんなことよりもまず、俺がまた白石さんの家に来ている理由から説明しなければならない。説明しなくたって分かるかもしれないが。俺は今日、白石さんを家から連れ出しに来たのである。


『着いたよ』


家のそばの道沿いで、俺は白石さんにメッセージを送った。
我ながら馬鹿な計画だと思う。きっとまたひどく怒られるのを分かっていながらこんなことをするなんて。だけど、やると決めてから今日になるまで俺の興奮は治まらなかった。今日の午後三時、まもなく白石さんの未来の結婚相手が両親とともにここに来る。それまでに白石さんをここから連れ出す。

もちろん、いきなりこんな強行手段に至ったわけじゃない。白石さんは白石さんなりに頑張って、親に言ったらしいのだ。「お見合いみたいなことはしたくない」と。
だけど両親たちは聞かなかった。それならばボイコットするしかない。どれだけ本気で嫌がっているのか分からせてやればいい。そしてこれは、他ならぬ白石さんの希望なのだった。


『もう少し待ってて』


数分後、白石さんからの返信が来た。
昨夜話し合った計画内では、まず母親とともに白石さんが部屋の用意をすることになっている。来客がある際にはいつも手伝うのだそうだ。そして、その後に母親が自身の化粧直しなんかをするらしい。白石さんがスマホを触れているということは部屋の準備は終わったのだろうか。

そして今回は、両親ともに自分たちの準備に集中している隙を見て、白石さんが家のどこかから抜け出すという作戦だった。どこから出てくるのかは分からない。そういえば俺は家の構造を知らないのだ。白石さんの部屋が二階にある、ということしか。
と、その時頭上から物音がした。窓が開いたのだ。


「……!」


二階の窓から白石さんが顔を覗かせた。俺の姿を見つけるとほっとした表情を見せたが、すぐに意を決したように足を踏み出す。まさか二階の窓から飛び降りるつもりなのだろうか。

白石さんが軽やかに飛び降りる姿は想像出来なかったので、俺は慌てて塀に近付いた。が、白石さんは無言で首を振り、俺の助けは要らないという素振りを見せる。
一体どうやって下まで降りてくるのだろう。はらはらしながら見守っていると白石さんは、都合よく窓の外に生えている木の枝に足を乗せた。それからもう片方の足を思い切り踏み切って、なんと木の枝に飛び移ったのである。その瞬間にひらりと揺れたスカートの裾が危うくて、俺はちょっとだけ視線を逸らした。


「だ……大丈夫?」
「大丈夫。防犯装置鳴っちゃうから、そこから動かないで」


白石さんが木の上から小声で忠告した。俺のすぐ前には塀があり、その向こうに木登りしている白石さん(今回の場合は降りているのだが)が居る。塀を超えれば防犯装置が作動してしまうらしい。……防犯装置があることは事前に知っておきたかった。彼女にとっては常識なのかもしれない。

思いのほか器用に枝や木の凸凹を使い、一メートルくらいの高さまで来ると白石さんは一気に飛び降りた、と思う。俺はスカートの中が見えてしまわないようにチラチラと目線を泳がせていたので、正直あまり見ていない。降りた後は先に投げ落としていたらしい靴を履き、小走りで家の門を潜り、俺のもとまで無事にやって来たのである。


「……はは。抜け出しちゃった」


俺はこの脱出劇を呆気に取られて眺めていたが、白石さんがすっきりした顔で笑うのを見て、真面目な顔を取り戻すのに苦労した。


「巻き込んでごめんね」


俺の表情が固くなったので、白石さんは俺が困っていると勘違いしたのかもしれない。あるいは最初から謝るつもりでいたかもしれないか、きっと俺は白石さんが「抜け出したい」と言わなかったとしても、同じことをしていた。無理やりにでも連れ出していただろう。


「思ってないよ。巻き込まれたなんて」


俺がそう言うと、白石さんは少し意外そうな顔を見せたけど、嬉しいような照れているような笑みに変わった。安心しているようにも見える。ついさっき大胆に木から降りてきたとは思えないほど穏やかな顔だ。
しかも今日の白石さんは、これまで会った時とは違う印象だった。制服でもなく、前に見た私服ともちょっと違う。ドレスアップしている感じ。それが物凄く似合っていて、お姫様みたいというかお嬢様みたいというか、いやお嬢様なんだけど俺には不釣り合いな別の生き物みたいに見えた。その姿に見とれていたせいで、白石さんは心配そうに首を傾げた。


「……なに? 変?」
「え?」
「服!」
「いやぜんぜん……ていうか」
「私が選んだんじゃないからね? 今日はコレにしなさいってお母さんが」


どうやら自らチョイスした格好ではないらしい。その口ぶりからすると本人はもっと違う服を着たかったようだ。でも、母親は今日のために気合を入れてこれを着せた。娘が俺に誘拐されるとは思わずに。


「……さすが親だな」
「どういう意味?」
「何が似合うかよく分かってる」


俺は素直に感心したのだが、白石さんはぶわっと顔を赤くした。その顔を見てから俺は、今のが思い切り白石さんをべた褒めしていることになると自覚した。何言っちゃってんの、俺。
訂正したい。いや、訂正する必要はないか似合ってるのは事実だし、とごちゃごちゃ考えていると。


「!」


少し離れた角を車が曲がってくるのが見えた。そしてそのまま真っ直ぐ進んできたが、一方通行なので俺たちとすれ違う前にまた左に曲がった。


「あの車……」


良い車だ。そして、車に似合う三人が乗っていた。両親と息子、俺たちと同い歳くらいの。もしかして今のがそうなのか。だとしたら間もなくこの家に到着してしまい、白石さんが居ないことで大騒ぎになる。早くここから離れなくては。


「行こう!」
「う、うんっ」


俺は咄嗟に白石さんの手を引いて、さっき車が来た方向に向かって走り出した。そうすればあの車とすれ違うことはないだろうから。その予感は上手く的中し、それらしい車や通行人とは出会うことなく住宅地を走ることができた。


「ねえっ、二口くん」
「なに?」
「あの、今日これからどこに行くの!?」


走りながら、少し息を切らし始めた白石さんが言う。これからどこに行くかって、行き場なんかない。というか、決まっていない。


「決めてない!」


俺も走りながら答えた。やけくそのように聞こえるだろうが、たどり着く場所は無限にあるという意味だ。


「最高!」


白石さんは大声で笑いながらついてきた。知らない場所に行ってもいいし、俺の好きなところに行ってもいいし、白石さんの行きたい場所でもいい。今、「ここに行け」とか「こうしなさい」とか指図してくる人間は居ないのだから。


「とりあえずコレ羽織っといて」


電車に乗る前、ふと不安になった俺は自分の上着を脱いで渡した。ここは白石さんの家の最寄り駅だ。誰かに目撃されるかも。誰かが「娘さん、今日はおでかけ? 電車に乗ってたわよ」と親に電話したりなんかしたら最悪だ。変装したほうがいい。
上着を受け取った白石さんは素直にそれを羽織ったが、どうも居心地悪そうだ。


「……」
「あ。暑い? てかごめん。臭かった?」
「ううん」


臭いことはないと思いたい。これでも白石さんと会う前には必ずスプレーをしてるのだ。時には部活後に会うこともあったから。


「二口くん大きいんだなって思って……」


かろうじて指先が出るだけの袖を見ながら、白石さんが言った。
また、言われて初めて自覚した。ぶかぶかの服を着せるって、男にとってはお約束の夢の展開じゃないか。白石さんの身長を聞いたことはないけれど少なく見積もっても二十センチは違うわけで、手の長さも肩幅も全く合っていない。これまで彼シャツとかなんとかの単語は知っていたが、それを白石さんに体現されると大変な衝撃だった。


「……まあアレですよ。ウドの大木」
「そ、そんなこと思ってないよ」
「俺がそう思ってるの! それより、親から連絡とか来てない?」


そろそろ来客が居間に入り、母親が白石さんを呼びに二階へ行き、もぬけの殻になっている部屋を見て腰を抜かしている頃だ。そうなれば大慌てで電話をしてくるに違いない。


「きてない。スマホ置いてきた」


しかし、白石さんはけろりと言ってみせた。これには開いた口が塞がらない。


「悪いこと考えるなあ」
「でしょ?」


乗りかかった船にも似ているのだろうか、白石さんはいっそ清々しい様子であった。


「二口くんに会ってから、自分が自分じゃないみたい」


白石さんはそれを気持ちがよさそうに話してくれたし、俺にとっても喜ばしいことだった。でも、こうして二人で一緒に居ると、時折我に返ってしまうのだ。


「……それ、悪影響になってない?」


前に門限を破った時も、練習試合を見に来るためにレッスンをさぼった時も。どちらも俺が関わったことで親に怒られて迷惑をかけている。彼女の親の言葉を借りるなら、白石さんを「弄んでいる」のではないかと。


「俺はたまに思ってるよ。俺と会わなかったら白石さんは、親に逆らわない良い子のままだったのに」


初めて会ったのは偶然とはいえ、その後会う回数を重ねなければこんなことにはならなかった。俺は白石さんを好きになることもなかったし、両家の子ども同士を紹介し合う大事な席をすっぽかすこともなかった。もしかしたら俺とこうしているよりも、家柄のいい男と一緒になるほうが幸せなのでは? あ、惨めになってきた。


「それは違うよ」


しかし白石さんは首を振った。俺を憤慨するかのような強い口調であった。


「二口くんに会わなかったら私は、自分の意見を押し通せない弱い子のままだったよ」


女の子の言葉で自分の尊厳を保てるなんて、情けない。けど、すごく嬉しい。世間的に見てどうかなんて分からないけど、白石さん自身は俺と出会ったことがプラスに働いていると思ってくれているのだ。


「……まあ今日は、かなり強引に押し通しちゃってるんだけど……」


最後に白石さんは、困ったように付け足した。
そのとおりだ。今日の行いはとんでもない謀反だ。後から死ぬほど怒られるだろう。もしかしたら本物の誘拐事件として警察に通報されているかもしれない。
だけど、そうしてでも白石さんは、今日だけはあの家を飛び出したいのだ。そして俺も白石さんをあの場から連れ出したい。「いずれ結婚する相手」としてどこぞの男と出会われるなんて御免だ。白石さんと結婚するならせめて、俺が砕け散ってからにしろ。

電車に揺られてあてもなく移動しようかと思ったが、現実的に考えてあまり遠くへは行けない。この際、誰の目にもとまらない場所ならばどこでもいい。
俺たちは一緒に居るあいだあまり多くのことを話さなかったけど、並んで道を歩いていた。だんだんと日は暮れて肌寒くなり、白石さんに上着を貸しておいてよかったと思えた。「寒いから着ろよ」なんて言って渡したら、クサくて気が狂ってしまうかも。


「着いた」


歩いていくと、ベンチといくつかの遊具があるだけの公園に辿り着いた。既に薄暗いのと、寒いのとで俺たち以外に人は居ない。


「公園?」
「そ。たぶんこのへん来たことないだろ」
「うん……」
「こっち」


中学の時、どうでもいいことで親と喧嘩して家出した。で、その時なんとなく歩いていたらこの公園を発見した。ここで一晩明かしてやるぞと決め込んだ俺は、夕方から夜遅くにかけてずっとここに滞在した。結局、寒いのと腹が減ったのと「もしかして悪いの俺じゃね」と罪悪感を抱いてしまったのとで、大人しく家に帰ったのだが。

そんな青臭い思い出を振り返しつつ、その時見つけたものを白石さんにも見てもらおうと先へ進む。遊具や砂場の向こうには柵があって、そこは丘になっているのだった。


「……わ……こんなに登ってきてたんだ」
「道、緩やかだからな」
「すごい夜景……」


白石さんは柵に手をかけて、仙台の街を見下ろしていた。白石さんの家のベランダからだって、地形的に考えて同じくらいのいい景色が見えるんだろうに。それに、実は見て欲しかったのは夜景のほうじゃなくて。


「夜景よりあっち見て」


と、俺は上のほうを指さした。完全に日が暮れたばかりの、紫色の混じった空である。
格好つけてるよな。分かってる。けど、「何もない」って凄く魅力的だ。建物も人間も何もなく、ただ星だけがきらきらしてる。中学生でひねくれていた当時の俺でさえ息を呑むほどの空なのだから、白石さんがどんな反応をするのかなんて容易に想像できた。


「……きれい」


予想通りの言葉が聞こえて、白石さんがごくりと喉を鳴らすのも聞こえた。俺も唾を飲み込んだ。そして、だらんと伸びた指先が白石さんの手に触れた。俺の上着の袖口から、ほんの少しだけ覗いてる細い指に。
触れたのがわざとなのか偶然なのかは分からなかった。触れたかったのは事実だけど、まさか触れるなんて思わなかったから。だけど、せっかく触ることのできたそれをやすやすと逃すわけにはいかなくて。


「……」


ゆっくりと、探るように俺は指を伸ばしていった。白石さんの手が開かれて、俺の指が通るための隙間がつくられる。俺も彼女の指を通すための隙間をつくった。ちぐはぐな大きさの手が合わさって、ここしかないという場所に互いの指が絡まり、どちらからともなく手が握られる。嘘、本当は俺から握った。だけどすぐに、白石さんが握り返してくれたのだ。


「……あのさ。あの、空、見ながらでいいから聞いてほしんだけど」


白石さんも俺もずっと夜空を見上げていたので、そのまま話をしようと言葉を紡いだ。照れくさくて顔なんか見ていられない、見られたくないってのも理由のひとつだ。


「いや」


だけど白石さんは、はっきりと拒否をした。握られた手を少しだけ引っ張られて、それがまるで「こっちを向いて」と言われたようで、俺はされるがままに彼女のほうを向く。


「顔、見ながら聞きたい」


白石さんも既に空なんか見ておらず、俺の顔をまっすぐ見ていた。さっき「きれい」と漏らしながら星を見ていたのと同じ目。きれいなのはどっちだよ。俺が言おうとしてること、もう分かっちゃってんのかよ。


「……好き」


絞り出した声は、自分の声じゃないみたいに小さくて掠れていた。白石さんはそれを聞き取れなかったのか、あるいは聞こえたけれどもっと大きな声で言えとでも思っているのか、眉ひとつ動かさずに俺を見る。ただ、彼女の瞳の中の光がちらちらと動くのは分かった。


「……白石さんが好きです。俺」


台本みたいな台詞しか出てこないが、十分な声でそれを伝えた。身体にも喉にも力が入っているせいで、無意識に白石さんの手をもっと強く握ってしまう。更に、俺は気持ちにも力が入っていた。


「他の誰かと結婚とか、して欲しくない」


ここまで言うつもりはなかったのに、気付いたら言葉に出していた。俺と結婚しろと言っているようなものだ。これは訂正するべきか? 白石さんはどう受け取った? 探りたいけれど、いつの間にか俯かれてしまったので顔が見えない。


「……白石さ……ん、わ」


声をかけようとした時には、白石さんの顔は俺の胸元にあった。飛び付くように抱き付かれて、繋いでいた手は離されて、白石さんの両手が今は俺の背中にある。
信じがたい現実だ。鼻で感じる白石さんのいい香りと、思い切り飛び付いてきたはずなのに苦じゃない軽さ、どんどん強くなっていく白石さんの手の力。このままでは絞め殺されるより前に別の意味で昇天してしまう。


「白石さん……えっと……星とか、あの……キレーだから……み、見ない?」
「見ない」


自分を落ち着かせるための提案だったがあっさりと却下され、そのあいだにも白石さんが俺を抱きしめる力は緩まなかった。


「二口くんのことしか見たくない」


胸元で言う白石さんの表情は見えなかったけど、むしろ見えなくて良かったと思う。俺がどんな顔して喜んでいるか、白石さんからも見えていないということだ。背中に回すべきかどうか悩んでいた俺の両腕も自然と白石さんを包み込み、「俺も」と返した時、白石さんがくすぐったそうに動くのを感じた。