正しく乱反射してみせて



梅雨入り少し前のこと、私は炎天下でボールを追いかけていた。高く上がったボールは時々太陽の光と重なり、目で追うのが困難になる。その結果私はうまくボールを拾うことが出来ずに、ぽーんと地面に弾む音が虚しく響くのだった。


「すみれ、早くー」
「ごめん! すぐ取ってくる」


昼休みも放課後も、張り切っている人は朝だって早くに登校してこのようにボールを追いかけたり、あるいはバットを振ったりドリブルしたりしている。それは部活のためではなく、毎年六月に行われる球技大会のためであった。


「お待たせしましたっ」
「大丈夫? 他の種目にしたほうがいいんじゃない」


チームの中で明らかに下手くそな私を馬鹿にしているわけではなく、心からの気遣いとしてこう言われるのが悲しいけれど。いくつかの種目のうち参加したい球技を選べるので、私は迷わずバレーボールに立候補したのだ。他の種目なんて考えられない。


「大丈夫。バレーがいい」


そのように答える私に、クラスメートはそれ以上何も言わなかった。女子バレー部は球技大会のバレーに参加できないので初心者ばかりのチームだし、仕方ないなぁと納得してくれたようだ。良かった、拒否されなくて。絶対にバレーじゃなきゃいけない理由があるんだから。


「おつかれー」


その時、女子ばかりが集まっている運動場の隅っこに男子の声が響いた。途端に跳ねる心臓、落ち着け落ち着け。振り向く前に顔を作れ、呼吸を整えるまで目を閉じろ。


「あ! 光来くんやっと来た」


だけど別の女子の声が聞こえたので、私は用意も出来ていないのに振り向いてしまった。一刻も早く、誰よりも長くその人の姿を見たかったからである。


「コーチ、今日もお願いしますっ」
「てか俺も野球の練習したいんだけど」
「大丈夫大丈夫ちょっとだけでいいからさ」


星海光来くんは同じクラスの男の子で、男子バレーボール部だ。最近の鴎台はいわゆる「強豪」と呼ばれており、彼もレギュラーメンバーの一人。男子も球技大会では自分の部活と同じ種目に出られないので、星海くんは野球を選んだらしかった。
もうお気付きだろうけど、私がどうしても球技大会にバレーをやりたい理由は星海くんの存在だ。星海くんが球技大会の本番まで、クラスのバレーをコーチしてくれるのだ。


「ねえ、すみれちゃんがさ、バレー苦手っぽいんだよね。コツとかあったら教えてあげてくんない?」
「えっ」


私は声が裏返ってしまった。なんと友だちが星海くんに、私を特訓してくれと頼んでいるではないか。確かに私はバレーが苦手どころか運動全般が壊滅的に出来ないけれども。星海くんと関われるのはもちろん嬉しいけど、私のような出来損ないの相手をさせるわけにはいかない。


「いいけど。何が苦手?」


しかし星海くんはコクリと頷いて質問をしてきた。いいの!? 教えくれるの!?


「ええとですね…何がと言われると、」
「すみれちゃんそっちで鍛えてもらってて。私たち時間までやっとくから!」
「う、うん」


すると他のメンバーはパスの練習をするために輪になって、すぐにボールをぽーんと上げてしまった。私も要領が良ければそこに入る事が出来るのに。
星海くんは皆から少し離れた場所へ私を誘導しながら、「で、何が苦手?」と言った。


「ぜんぶ……」


何って言われても、むしろ得意な事なんてひとつも無い。女子は他に卓球とバスケットボールを選ぶ事が出来たけど、他の二種目は全く候補には上がらなかった。私は星海くんが頑張っているのと同じ、バレーをやりたかったから。だけど星海くんは私の「ぜんぶ」という回答に目を丸くした。


「全部か」
「うん……」
「全部なあ」
「申し訳ない……」


こんな私のために練習に付き合わせるなんて。本当ならもっと上手い人をさらに上手くさせるためにコーチをするほうが良いに決まってるのに。


「白石って、運動オンチだろ」


星海くんはボールを両手で持ち替えながらハッキリと言った。自分で分かっているのにグサリと来る。が、それより何故星海くんが私の絶望的な運動神経についてご存知なのか。


「な、なんで知ってるの?」
「否定しないのか」
「だってホントの事だから」
「だよなあ。よく階段とか、段差で転びそうになってるの見るし」


嘘。なんという事だ、時々階段を踏み外してよろけるのを見られていたらしい。考え事をしながら歩くのが良くないのだろうけど、それにしても反射神経が悪く反応が遅い私は、転ぶ時に手すりを掴むのが遅れそうになるのだ。


「前向いてても転ぶのに、上ばっか見てるバレーじゃ無理があるんじゃね? 卓球とかに変えてもらえよ。怪我すんぞ」


彼のずばりとした物言いに、私はまた心を突き刺された。


「……そうだね……」


分かっている。恐らく三つの種目の中で、バレーボールが私にとっては一番難しい。バスケットボールのパスならば、どこに飛んでいくか分からないレシーブよりはリスクが少ない……はず。だからって自分が卓球とバスケットを上手くこなしている姿なんて想像出来ないけれど。そして、それは星海くんも同じのようだ。


「……まあ卓球でもバスケでも駄目そうだな」
「うっ」
「袖まくれよ。指導してやる」
「し、指導」
「お前が選んだんだからな! バレーにするって」


どうやら苦手だとか何とか言ってられる状態じゃない。星海くんが私に付きっきりで特訓しくれるのだ。クラスのためにも星海くんの名誉のためにも、頑張ってボールを上げられるようにならなければ。

それから何分間か、星海くんにコツを教えてもらいながらオーバーハンド・アンダーハンドの練習を繰り返した。まだまだ予想外の方向にボールが飛んでいく事も多いけど、やわらかく飛んできたボールなら反応できるようになってきた気がする。これが試合になったらどうなるか分からないけど。その証拠に、さっきよりも少しだけ低めに投げられたボールに飛びつこうとした時、何も無い地面に躓いて転んでしまった。


「イダイッ」
「うわ。大丈夫かー?」


これはさすがの星海くんも驚いたらしく、心配そうに駆け寄ってきた。どうしようめちゃくちゃ恥ずかしい。好きな人に情けないところを見られた。上手くなって「お前やるじゃん」とか言われたいのに。褒められるどころか、星海くんは擦りむいた私の膝を見て呆れたように言うのだった。


「長いジャージでやれよな」
「ごめん、今朝乾いてなくて……」
「タオル持ってる?」
「も、持ってない」
「マジか。やる気あんのか」
「えっ? あ、あります」


まさか「やる気あんのか」なんて言われるとは思わなくてショックだった。
そうか、星海くんからすればバレーの練習をする時に、下手くそなのに膝を守らない服装・汗をふくためのタオルも持っていないなんて言語道断なんだ。こんなところで尻もちをついて情けない。膝から流れる血を眺めながら、自分の愚かさに涙が出そうになってしまった。


「ん」


しかし、私の目と膝との間を何かが遮った。白と水色の、縞模様のタオルである。それは星海くんの手から差し出されたものであった。


「え!? これ、星海くんの」
「さっさと拭けよ、あーほら垂れてきた」
「うわわっ」


私が受け取る前に、星海くんが膝にタオルをあててきた。ちょっとだけ力が強かったので痛いっていうのもあったけど、星海くんが止血をしてくれてる事・彼のタオルを汚してしまった事などで頭はパニック。口をぱくぱくさせながら膝を眺めていると、とうとう「自分でやれ」とタオルから手を離された。とことん恥ずかしい。


「止まった?」
「たぶん……」


タオルのおかげでもう血は出ていないようだ。でも、爽やかな色のタオルには私の汚くて赤い血と、地面の砂利が付着してしまった。星海くんの大切な時間を奪っているのにこの有様。


「……ゴメン。野球のほう、行けてないね」


こんな事なら私の世話なんかしないで、彼自身の練習をするほうがよほどいい。星海くんだって自分が他のクラスに負けるのは嫌だろうし。もしも「あのとき白石の相手なんかしてなけりゃ勝てた」なんて思われたら、悲しくて消えてしまいそう。
だけど星海くんは私の謝罪に対して、なぜだか不服そうに顔をしかめていた。


「行けって言うなら行くけど?」
「え……そ、そういうわけではなく」
「じゃあそういうこと言わなくていい」
「……ハイ」


星海くんは私の手からタオルを奪うと、近くに置いているジャージの上に放り投げた。私が汚したタオルを、私に洗わせる事もしないようだ。
自分が迷惑をかけているというのに、星海くんの一挙一動に心臓がどきどきと波打ってしまう。星海くんはいつも堂々としていて自分の意見を貫き通す、強くて逞しい素敵な人。時々誰かと衝突しているのも見かけるけど、そんな時でも彼の目は爛々と輝いている。私とは大違いの、表舞台に立つべき人物。その人が今、私のために自分の事を犠牲にしているなんて。


「星海くんは、なんでも出来てすごいね……」


星海くんの凄さを改めて実感していた私は、こんなことを口にしていた。だけど本人はまたもや怪訝そうに眉をひそめた。


「なんでもって……空とか飛べねえけど」
「いやそういうことじゃなくて」
「白石だって俺には出来ないことが出来るだろ」


星海くんは腰に手を当ててそう言った。
私に出来て、星海くんには出来ないこと。それって一体なんだろう。玉ねぎのみじん切りなら少し得意だ。でもきっとそういう意味じゃない。


「そんなことないよ。私とか運動は何やっても駄目だし……たぶん皆の足でまといになってるし、だから一人だけ個別で練習してて」


そして、好きな人の有限の時間を奪っている。どうしようもない女なのである。


「自分のことを出来ない人間だって思ってるの、悔しくないか?」


俯く私に星海くんが言った。


「星海くんからすれば、理解できないね」
「全く」
「でも私、ずっとだから。運動会とか球技大会とか苦手で、水泳もできないし」


泳げないからプールの授業はいつも端っこでバタ足の練習。マラソン大会は毎回ビリかブービー賞。クラス対抗リレーに選ばれた経験だって一度も無い。家族でスキーに行けば上手く滑れず木に激突。自分が運動できないことにはもう慣れていた。


「だから星海くんみたいな人、すごいなって思って見てて……だから私、……あ」


そこまで話して思わず両手で口を覆った。私いま、流れで「好き」って言いそうになってた! 慌ててゴホンと喉を鳴らしてみたものの、話を聞いていた星海くんは首を傾げた。


「……で?」
「いや! なんでもな」
「続きがありそうな話し方だった」
「ないない! 無い」
「ふーん」


ならいいけど。と星海くんはようやく私から目を離してくれた。良かった、もしもずっと見られていたら観念して言ってしまうところだった。彼の眼力は凄いから。


「……まだやる?」


そう言って、星海くんは地面に転がるボールを拾った。
さっきまでの私なら「もう悪いからいいよ」と断っていたかも知れないけれど、今は不思議とそうじゃない。星海くんの許す限り練習に付き合ってもらおう。


「うん! やる」
「そっか。じゃあやろう」


そして、ぽーんとボールが山なりに投げられた。私は地面の石とかに気をつけながら一歩前に進み、ボールを両手で星海くんに返す。オーバーハンドならなんとなく出来るようになってきたかも。


「俺はさ、お前みたいなのは理解できないけどさー」
「うん」


星海くんも滑らかな手つきでトスを返してくれた。ちょうど私の立っている位置にボールが来るように。私は上を見ながらボールが落ちてくるのを待ち構え、再びオーバーハンドでそれを返した。


「白石がこうやって頑張ろうとしてんのは、なんかいいなって思う」


私が返した瞬間に、星海くんが言った。


「……え」


いいなって、「いいな」ってこと? でも「いいな」ってどういうこと? 日本語? パニックに陥った私は手を構えるのも忘れて、星海くんを見つめてしまった。


「こらっ! ボール」
「あっ、いだっ」


今がパスの練習中だという事を忘れてしまい、案の定ボールが頭に振ってきた。ボンッと鈍い音を立ててボールが弾み、さらに鈍い音で地面に何度かバウンドする。痛い。というか、今日何度目になるか分からないけど、恥ずかしい。


「ちゃんと見ろっつっただろ!」
「ゴメンナサイ」
「お前は俺の何を聞いてた」
「スミマセン……」
「はあ……」


星海くんは大きな溜息をついて、肩を落とした。完全に呆れられたかもしれない。せっかく頑張ろうという気持ちになれたのに。でも、だって星海くんが私のことを「いいな」とか言うから。星海くんのせいだ。星海くんが私を翻弄させるようなことを言ったせい。
その彼はと言うと、もう私の相手なんかやってられない! とお手上げするかと思ったけれど。


「続き、やるよな」


と、落ちたボールを拾いながらそう言った。
途端に頬が爆発したようにボンッと赤く、熱くなるのを感じた。でもそれは星海くんへの「好き」が爆発しただけじゃなくて。私の中のやる気スイッチが入った証拠であった。


「やる!」


さきほどボールが当たった箇所を撫でつけながら答えると、星海くんは満足そうに頷いた。この練習、彼の邪魔になるならやりたくないって思っていたけど今は逆。いくらでも星海くんに付き合ってもらいたい。そして何度でも言ってもらいたい。「頑張ろうとしてんの、いいな」って。十回くらい言わせた頃には、深い意味を聞いてもいいだろうか?