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神様はいなかったことにする


その日はどうやって家に帰ったのか覚えていない。が、気付いたら自分のベッドで朝を迎えていたので、きっと何事もなく帰宅したのだろうと思う。無意識のうちに目覚ましをセットしていたらしく、ちゃんと朝練に間に合う時間に起床することができた。

支度をしながらまだぼんやりとしていた頭で考えたのは、やはり昨夜の出来事である。俺は白石さんを家まで送り届け、その場で叱られることとなった。それは覚悟していたが、まるで俺と白石さんが関わるのは間違っているかのような言われかたには、返す言葉も見つからず。
そうか、傍から見るとそうなのか。俺は白石さんの隣を歩くのに相応しくないのか。浮かれて自分じゃ客観視できてなかったな、なんて自虐的な笑みを浮かべた。

白石さんからは連絡が入っていなかったので、きっとまたスマホを没収されているのだろうと思った。そんな時に俺からのメッセージが画面に表示されてしまっては、更によくない方向に進む気がする。向こうから連絡が来るまで俺からのアクションは起こさないほうがいいかもしれない。気になるけど。ものすごく気になるけど。


「お前、滑津さあ。将来の夢的なの、あんの」


そんな時、目に入ったのは俺が唯一なんの気兼ねもなく話せる女子の姿であった。
白石さんと話すのは、楽しいけれどドキドキする。嫌われたくないし、幻滅されたくないから緊張する。マネージャーが相手ならそんな心配もない。しかも白石さんや俺と同い歳。意見を聞くのに最も適任だ。しかし滑津は、今朝からのローテンションに加えてこんな質問を寄越してきた俺を見て、別人を見るような目で俺を見上げた。


「なに? おセンチな顔して」
「うるせんだよ」
「夢かあ、あるよ。ていうか進路ね? ちっちゃい時はケーキ屋さんになりたかったけどぉ」
「それ、なんで諦めた?」
「……え」
「なんだよ」
「いや、なんか……そんな真剣に返されるとは」


そんなに驚かれても、俺は真剣なつもりで話をしてたんだけど。滑津がにこにこしながらケーキを売ってる姿はあまり想像できないが、将来で悩む俺に他人の夢を笑う資格はない。メイド喫茶で働きたいとか言われたら笑ったかもしれないが。似合わなすぎて。
しかし本当に聞きたいのは、滑津が何になりたいのかではない。


「例えばだけど、今考えてる進路を親に反対されたらどうする?」


俺は例えばの話をした。そのまんま白石さんの話だけど、他の女子は同じ状況になった時どうするのかなと思ったから。でも、滑津は俺の話だと勘違いしたらしく聞き返してきた。


「されてるの?」
「されてない。例えばっつったろ」
「あー。どうだろ……たぶん喧嘩するかな。もしかしたら家出しちゃうかもね」


そう言って滑津はけらけらと笑っているが、家出なんて大胆な真似を白石さんに出来るわけがない。でも、ああ見えて頑固なところもありそうだ。頭に血が登れば白石さんも、家出という手段を取るかもしれない。……そうしたら今度はスマホを破壊されそうだな。


「……で、それが?」


滑津は変な質問をした俺を怪しんでいたので誤魔化す言葉を探していると、俺のポケットでスマホが震えた。ニュースでもダイレクトメールでもなんでもいい、良いタイミングで来てくれた。未だ怪しんでいる滑津を横目にスマホを取り出すと、画面を見て心臓が止まりそうになった。


『昨日はごめんね』


白石さんからのメッセージだ。てっきり没収くらってしばらく連絡が取れないと思っていたのに。


「どしたの?」


画面を見つめたまま固まっていると、滑津が覗き込もうとしてきたので慌てて身体で遮った。見られてたまるか、絶対あとでからかわれるに決まっている。

そのまま俺はスマホを持って、逃げるように別の場所へ移った。なるべく誰も居ないところへ。俺の声が誰にも聞こえないくらいの場所。そう、俺は驚きのあまり白石さんに電話を発信していたのだ。そして白石さんは、すぐに出てくれた。


「白石さん!? 俺だけどっ」


白石さんの応答する声と俺の声とが被ってしまい、少しびっくりされたと思う。俺もそれがきっかけで我に返り、電話口とは逆の方向に向けて咳払いをして落ち着こうとした。


「今、電話大丈夫?」
『うん。ちょっとなら……』
「よかった。また取り上げられてんのかと思ってたから」


だから、しばらく連絡が取れないと思っていた。前回は一週間ほどで済んだけど、今度はもっともっと長いあいだ会えず声も聞けないと思っていたのだ。
しかし今、無事に白石さんの声は聞こえているものの、あまり元気では無さそうだ。当たり前だけど。


『昨日のこと本当にごめんなさい』


白石さんは昨日、家に送った時のことを謝った。絶対に謝ってくるだろうとは思っていた。でもあれは俺の自業自得だ。俺が親でも怒ると思う。怒られて当然の行いである。


「なんで? いいよ。俺が悪いんだし」
『ううん……だって、お母さんが……』


それでも白石さんは食い下がり、「お母さんが」の続きは言いづらそうにしていた。
その様子で理解した。この子が謝っているのは叱られたり怒られたりしたことではなく、俺に対する母親の言葉だ。なるべくそれは思い出したくないことだったので、俺は話題を変えた。


「……あのさ。保育士になりたいってまだ言えてないの?親に」


昨日の言われようだと、きっと言ってないのだろうと思う。予想通り白石さんは少しの沈黙のあと『言ってない』と呟いた。
白石さんは音楽一家だ。それ以外の道に進むなんて簡単には許してもらえないだろう。でも、だからってやりたくもないことを続けることに意味はあるのだろうか。親に言われたとおりのことをして、自分のやりたいことを無視するなんて俺には耐えられない。


「言わなきゃ変わらないんじゃ……ないかなって、思うんだけど」


そう言うと、また白石さんは黙り込んだ。俺に言われなくたって分かっていることなのだろう。


「ごめん。余計なお世話かもしれないけど」
『ううん、全然』
「そうしなきゃアレだろ、どっかに留学させる気みたいだったじゃん」


留学という言葉は俺はもちろんのこと、白石さんも寝耳に水だったらしい。少し調べてみたが海外には立派な立派な音楽学校が沢山あり、行くにしてもどこの国に行かせるつもりなのかは分からなかった。日本を出て学ぶなんて、バイオリンを心から楽しめていない彼女からすれば地獄のような日々になるのでは?


『……留学は……したくない』
「分かってるよ」


俺は極めて落ち着いた声を出すように努めた。そうすれば自分も冷静でいられるからだ。


『……実は……』


その時、白石さんが小さな声で言った。危うく聞き逃しそうなほどの声であった。


「実は?」


急かさないようにしたいけど、「実は」なんて言われたら気になってしまった。何か重大な話をされるのではないかと。


『……引かない?』
「引かない。たぶん」
『きっと引かれると思う』


白石さんはそんな心配をしていたが、正直言って白石さんと会ってからは引きっぱなしである。もちろん良い意味で引くことのほうが多かった。今さら何を言われても大して驚かない自信はある。許嫁が居ます、なんて言われたら腰が抜けるかもしれないけれど。


『お母さん、私に……結婚相手を、紹介するつもりでいるって』


言葉を失うってこういうことだ。腰は抜けずに済んだが、顎は外れそうになった。目も口も鼻も耳も、穴という穴が全て開いていく。
いや、もしかしたら聞き間違いかもしれない。もう一度聞こう。念のため。


「……けっこんあいて?」
『お母さんの知り合いの息子さんで、その人もバイオリンしてるって』
「……」
『数年前からお母さんと知り合い同士でそういう話、してたんだって』


聞けば聞くほど、俺の聞き間違いではないのだと痛感させられた。
結婚相手が用意されてるってことか? 俺と同い歳だぞ。いや、女子なら結婚できる歳なのか。それにしてもついて行けない。さすがに頭がくらくらしてきた。好きになった女の子には、親が定めた結婚相手が居る? 頭を整理したい。


「……えと……」
『昨日、二口くんが帰ってから初めて聞かされたの。お母さんいつもより感情的で、一気に話が進んでいって』


母親を感情的にさせたのは俺のせいだろう。そこは認めるし反省する。しかし「話が進んだ」ってどこまで? そいつは何歳? 結婚って確定か? 白石さんは受け入れているのか?


『……来週その人たちを、家族でうちに呼ぶんだって……』


この世の終わりが来るかのような声だった。俺もこの時ばかりは、この世の終わりだと思えた。頭が真っ白になって、続いて真っ暗になり、足元がふらつく。白石さんの声以外の音が耳に入って来ない。風が吹く感触も足が地面に着いている感覚も、何も感じなくなった。


「白石さんは……その……その人と、いつか結婚……するってこと、?」


独り言なのか質問なのか分からない言葉しか出てこない。この信じ難い事実を、こうしなければ理解できないのだった。しかしうろたえる俺とは反対に、今度は白石さんがはっきりと答えた。


『したくない』


その声のおかげで、俺は手放しかけていた意識を引き戻した。
彼女が言うにはその「結婚相手」とやらは面識のない人物で、母親の知人の息子らしい。音楽関係なのだそうだ。そちらも恐らく由緒正しい家柄なのだろう、俺と会った途端に慌てて娘に会わせようとするぐらいだから。


『モタモタしてるからこうなっちゃうのかな……』


もっと早く言えばよかった、と白石さんが続けた。たぶん、保育士になる夢があることを親に言っておけばよかったという意味だろう。


「……言わねえの? 今からでも」


俺は改めて、親に打ち明けないのかと聞いた。白石さんは答えない。きっと、反対されると思っているのかもしれない。俺もそう思う。ほぼ確実に反対されるだろうと。

反対されてしまった時、白石さんはどうするだろう? 「そうだよね」と言ってすぐに諦めてしまうんじゃないだろうか。それでは駄目だ。もっと自分の意志で生きなくては。例えばどうするって聞かれると答えられないが。

しかし俺はその時、ついさっき聞いたマネージャーの言葉を思い出した。
「進路を親に反対されたらどうする?」という俺の問いに対して滑津は答えた。本人は冗談のつもりで言ったのかもしれないが、急にその手段が俺の頭に浮かんでしまったのだ。「家出しちゃうかもね」という滑津の声が、妙に鮮明に頭のなかでこだました。