プロローグ



寮に入ってからは一週間ほどが経過した。まだ部指定のジャージも貰えていないけど、自分は白鳥沢の一員なのだという誇りで胸いっぱいだ。そして今日は正式に俺が白鳥沢学園の生徒になる日、つまり入学式の日であった。

この日ばかりは朝練が無く、体育館は入学式の準備が行われていた。
とはいえ昨夜のうちに先生や他の誰かが椅子を並べ終えているみたいで、その椅子の多さに圧倒される。なんだか緊張で早起きしてしまった俺は敷地内の寮に入っているので、なかなか時間の潰し方が分からない。
自主練をしたり走ったりしようかなとも思ったけれど、入学式の直前に汗をかくのはいかがなものだろう。この白いブレザーに腕を通すのは今日が初めてだし、万が一可愛い女の子の隣になってしまった場合、汗臭い男だと認識されるのは勘弁だ。恋愛をしに白鳥沢に来たわけじゃないけど、全く期待してないわけでもないから。……牛島先輩なら、こんな事を気にしたりはしないのだろうか。


「落ち着かないな……」


顔も洗ったし歯磨きも終えた。寝癖はひどくなかったのですぐに直ったし制服もばっちり着用済み。入学式ではまだ一時間以上もある。今日は母親が来てくれる予定だけど、さすがにまだ到着してないようだ。道に迷っていなきゃいいけど。
とにかくとても暇を持て余した俺はいてもたっても居られなくなり、学校の周りを散歩してみる事にした。


「イテ……」


ところがしばらく歩いたところで足に違和感。足首の辺りに初めて感じる痛みがあり、歩く度にそれは強くなった。我慢出来そうだったのでそのまま歩いてみたけれど、ある時思わず顔を歪めるほどの感覚が走り、一度靴を脱いで原因を確かめる事にした。するとそこには、あまりにも不気味な光景が。


「……なんだこれ」


白い靴下のアキレス腱のあたりだけ、赤く血が滲んでいたのだ。痛みの原因は出血。しかし出血の原因が分からない。靴下を途中まで下げてみると、あまり直視したくない傷が出来上がっていた。


「うわ……」
「あの」


苦い声をあげた時、誰かの声がした。初めて聞く女の子のものである。すぐ後ろに立っていた彼女は俺の足元と顔とを交互に見て、ゆっくりと口を開いた。


「大丈夫? 靴擦れ」
「……靴擦れ?」
「足首の後ろ。すごく痛そう」
「え、ああ……これ」


これは「靴擦れ」と呼ばれるものらしい。その単語くらいは聞いたことがある。それって女の人が履きなれない靴を履いた時に起こるものだと思っていた。男でも靴擦れになるのか。でも確かに今日の俺は卸したてのローファーを履いている。履いた時に固いなぁと感じて、それも何度か履けば慣れるだろうと思っていたが。こいつのせいか、ちくしょうめ。


「絆創膏持ってるよ」
「ありがと……えっと……?」


今気付いたが、白鳥沢の制服だ。鞄を漁り始めた女の子をちらりと見ると、ちょうど絆創膏を探し当てた彼女が言った。


「あ、私、白石すみれって言います。今日が入学式で…ごめんなさい、先輩でしたか」


白石さんと名乗った女の子は急に敬語になった。今日から白鳥沢の生徒になる同級生らしい。俺って少しは大人っぽく見えていたのかなぁなんて考えながら、あまり偉そうにならないよう自己紹介をした。


「俺も新一年生だから気にしないで。五色工」
「なんだぁ。よかった……」


安堵した白石さんは一気に力が抜けたような顔になり、それが俺にとっては護ってあげたくなるような可愛らしさを持っていた。ただ、この時の俺には白石さんを可愛いとか可愛くないとか感じるほどの余裕はなくて、差し出された絆創膏を貼るのを優先した。


「すみれー、お待たせ」
「あ! お母さん」


絆創膏を貼り靴を履き直したところで、また知らない女性の声。白石さんの母親が来たようだ。駐車場に車を停めに行っていたらしい。


「じゃあね、五色くん」
「あ、うん……」


ありがとう、と伝える前に白石さんは小走りで行ってしまった。お礼、ちゃんと言いたかった。
だけど残念に思う必要はない。俺と白石さんは今日から同じ学校に通うのだから。また出会うチャンスはあるだろう。例えクラスが違っても。


「じゃあつとむ、お母さん席に座っとくからね」
「うん」
「ちゃんとクラス分け間違えずに見てね」
「分かってるってば……」
「お母さん終わったらすぐ帰るけど、大丈夫?」
「大丈夫だよ、何かあったらメールするから」


母親って皆こうなのだろうか、自分で管理できている事まであれこれ口を出してくる。一週間ぶりに会ったもんだから、実家に居た時よりもパワーアップしているようだ。先に体育館に向かう親を見送り、俺はというとクラス分けの書かれている掲示板前へとやって来た。友だちを作るのは苦手じゃないと思うけど、やっぱり少し緊張する。


「……えーと。か、き、く……あ」


自分の名前はわりとすぐに見つかった。五色工、という三文字だけの並びは少し目立っていたから。俺は一年四組になるらしい。
そして自分の名前を見つけると、すぐに別の名前を探しにかかった。白石すみれ。あの女の子はどこのクラスになったんだろう? しかし、それもすぐに発見できた。


「同じクラス……」


これって運命かなにか? さっき俺の靴擦れを救ってくれた女の子が今年一年同じクラス。いや、べつに、ただ絆創膏をくれただけなんだけど。俺は誰かを好きになったり彼女を作るために白鳥沢を選んだわけじゃないけど。でも、一年四組の列に向かう自分の足取りが軽くなっているのを感じた。

それから入学式が始まると、緊張のせいか白石さんの事は一度頭から消えてしまった。席が近ければ彼女を意識したかも知れないけれど。色々な人の挨拶や紹介があり、新入生代表の挨拶があり、あっという間に入学式は終わってしまった。ただひとつ印象に残ったのは、舞台の右側に大きく吊るされた「男子バレーボール部全国大会出場」の幕である。

やがてそれぞれの教室に案内されて出席番号順に座ってからも、俺の緊張は解けなかった。試合の時よりもドキドキしているかもしれない。初めて白鳥沢の練習に参加した時ほどではないが。


「……ふう」


入学一日目のすべての行程を終えたころには、俺の精神はくたくたであった。確かこの後は寮の食堂で昼食の後、一時半から練習があるんだったよな。今朝の靴擦れが練習に響かなきゃいいけど。あ、そういえば白石さんに改めて絆創膏のお礼を言わなければ。


「五色くん、五色くん」
「わ」


ちょうど下駄箱を出た時に、背中をとんとん叩かれて跳ねそうになった。急に背中に触られたからじゃなくて、たった今頭に浮かべていた女の子の声がしたからだ。


「あ……えっと、白石さん」
「同じクラスだったね!私たち」


そして、彼女がなんだか嬉しそうに言うもんだからまた跳ねるかと思った。正確には少しだけ跳ねた、心臓が。


「そうだね。よろしく」
「私、中学の友だちが誰も白鳥沢に来てなくて。ちょっと不安だったから、五色くんと一緒で安心した」
「そ……そう」


俺も同じだよ、って言うかどうか迷ってやめた。こういうのは男の俺が言うと気持ち悪いかもしれないし。新しい高校生活が不安だった事を知られるのもなんだか恥ずかしくて。
でも、白石さんと同じクラスになれたのは素直に嬉しい。それだけでも言うべきだろうか? と、白石さんを見ればなんだか歩きにくそうに眉を下げていた。


「…… 白石さん? どうしたの」


声を掛けてみても首を振るだけで、なんでもないように歩き続けようとする。でも、少しヒョコヒョコしているような。どこかを庇っている感じであった。


「ごめん、なんでも……」
「え、でも足痛そう」
「大丈夫」
「本当?」


もう一度尋ねてみると、白石さんは観念したように「痛い」と呟いた。どこかを怪我してるんだ。痛みを感じるのはどこ? と聞こうとしたけど、先に白石さんが靴を脱いだ。そして、彼女の真っ白な靴下に赤い染みが。


「それ……」
「はは……私もなっちゃった」


今朝の俺と同じ箇所から出血しているのだった。白石さんもローファーを履いており、それは恐らく今日初めて着用したもの。慣れない靴で靴擦れを起こしてしまったらしい。


「絆創膏は?」
「持ってないの。あれが実は最後で」
「え!?」


しかも、今朝俺にくれた絆創膏が最後の一枚だったと言うではないか。一気に血の気が引くのを感じた。


「ごめん! 俺にくれたから」
「ちが、大丈夫だから。朝はなんともなかったし、大丈夫かなって勝手に思ってただけなの」
「でも……」


初めて会ったやつに分け与えたせいで自分の絆創膏が無くなるなんて、あんまりだ。だからって俺のコレを剥がして再利用するなんて馬鹿げてる。何か代わりになるものは無いだろうか。このままでは白石さんは、傷を何度も擦りながら帰宅しなければならないのだ。


「……そうだ。ちょっと歩ける?」
「え?」
「すぐそこだから」


俺はとある方向を指さした。運動部の部室があるプレハブ小屋である。もしかしたら鍵が閉まっているかもしれないなと思ったけど、幸運な事に開いていた。そして、中には誰も居なかった。


「ここって……」
「部活は午後からだから誰も居ないよ。入って」
「え。五色くん、もう部活入ってるの?」
「うん」


白石さんの質問に答えながら、俺は部室内を散策した。何がどこにあるのかはひととおり教えてもらったけど、まだ全ての場所を覚え切れていないのだ。


「男子バレー部……?」


扉の前に書かれた文字を、白石さんが読み上げた。


「そうそう。えっと、救急箱どこって言ってたっけな……あ、ドア閉めといて」


ここでもないあそこでもない、と散らかさない程度に物色し、申し訳ないけどその間白石さんは棒立ちだった。座ってもらいたいけど汗くさい部屋の椅子に腰掛けてもらうのも申し訳ないし。早く見つけなきゃ、と窓際の棚まで行ったところでようやく目当てのものを発見した。


「あった! こっち来て」


十字のマークが入った白い箱を開けると手前に絆創膏があった。大きなものから小さなものまで大量に。今回は一般的な形の絆創膏を選び、白石さんに渡した。


「はい」
「あ、ありがとう……ございます」
「なんで急に敬語?」
「いや、だって」


白石さんは絆創膏を受け取っても、それを開くことはせず突っ立っていた。とても居づらそうに。


「バレー部で、もう決まってるって事は……五色くん、バレー部の推薦……なの?」


そして、ちらちらと俺のほうを見ながら言うのだった。そうか、入学初日なのに勝手に部室に入ったり物色する俺が怪しかったのかもしれない。疑いを晴らさなくては。


「そうだよ」


俺は推薦で、入学前から練習に参加させてもらっており、既に寮にも入っている。だから不法侵入でもなんでもないのだと伝えたかったのだが、白石さんは絆創膏を落っことしそうになりながら悲鳴をあげた。


「ぎゃー! ごめんっ」
「え、なにが?」
「だだだってバレー部って、ここで一番すごいとこって、お母さんが言っててっ」
「ああ……」


白鳥沢の男子バレーボール部は有名だ。体育館内にも校舎にも横断幕などでアピールされるくらいに。推薦枠を勝ち取る事が出来るのは限られた人数のみ。自分がそこに選ばれたなんて夢みたいだけど、だからって白石さんは動揺し過ぎだと思う。


「ごめん。仲良くしようって思っちゃったけど……五色くん、すごい人だったんだね……」


それに、俺の事を特別視し過ぎだと思う。バレー部の推薦とはそんなに偉いのか? 他の生徒と一線引かなければならないくらいに?


「そういうのは考えた事ないけど……」
「だって、」
「白石さんは俺がバレー部だから絆創膏くれたわけじゃないよね」
「そうだけど」
「じゃあ、関係なくない?」


俺は今日ほんの少し喋っただけの白石さんと、既に仲良くなりたいと思っている。むしろ仲良くなれそうだな、と思い始めていた。それなのに態度を変えられるのは俺の望んだ事ではない。


「それが理由で友だちになれないなんて、俺困るよ」


そう伝えると、白石さんはぎゅうっと唇を結んだ。だけど拒否されてるわけじゃないのはすぐに分かった。彼女が唇をを結んだのは、笑顔になるのを堪えるためだったように思えたから。


「……じゃあ、友だち……なってくれる?」
「もちろん。ていうか俺も友だち出来てないし」
「そうなの?」
「部活の人はまだ、友だちって感じがしなくてさ」


推薦で入ってきた同級生を友だちとして認識できるほど、俺の器は大きくない。いずれはそうなりたいけれど、今はまだライバルとしか思えなかった。だから練習中はずっと気を張っていて、やっと学校内でそういうプレッシャーの必要ない、正真正銘の「友だち」が出来るのは嬉しい。


「私、友だち一号だ」
「うん」
「やった!」


友だち一号の白石さんはにこにこ微笑んでいて、何がそんなに嬉しいのかなと不思議なくらいだった。 友だちが出来た安堵のせいだろうか。やっと絆創膏を取り出す余裕のできた白石さんは、靴擦れしているほうの足首にそれを貼った。


「ほんとにありがとう」
「いや、俺こそありがとうだから」


白石さんが居なければ俺は、移動のたびに靴擦れが痛んだに違いない。貰った絆創膏はまだ俺の傷痕をしっかりとガードしてくれており、このままバレーシューズを履いても問題なさそうだ。


「じゃあ……」


そろそろ白石さんは帰らなきゃならない。俺も寮に戻って昼食をとらなくては。午後からの練習のために。


「明日からよろしく」


部室を出てそれぞれの道へ分かれる時、ひらひらと手を振ってみた。先輩や部活の仲間にはこういう時に会釈をしているけど。白石さんは友だちだから。それに白石さんは、俺の倍くらいの幅に手を振って「よろしく!」と満面の笑みで言うのだった。きらきらしてて、とても春の始まりに相応しい。
あの笑顔も俺が「友だち」だから向けてくれているのかな。じゃあ、もしも友だちでは無く別の関係になった時は? それは自分で確かめていくしか無いのだろうと思えた。今から三年かけて、白石さんとどこまで仲良くなれるかな。